中間時代とは
旧約聖書と新約聖書の間には、聖書には直接の記述がない約400年間の空白期間があって、これを「中間時代」と呼びます。この間の出来事のうち、新約聖書を理解する上で重要な事柄について述べます。
ローマ帝国による属国化とヘロデ王家
ローマによる占領
紀元前63年、ローマ帝国がエルサレムを占領し、パレスチナ地方はローマに支配されるようになります。
ローマ帝国は、征服した民族が従順であるうちは基本的に寛容で、宗教的な自由を与え、政治的にもある程度の自治を認めていました。ユダヤ人に対してもそうでした。
ヘロデ大王
紀元前37年、ヘロデ大王(マタイ2章に登場するヘロデ)が、ローマから委任されてパレスチナを統治するようになります。
ヘロデはユダヤ人ではなくイドマヤ人(アブラハムの子イサクの子エサウの子孫であるエドム人のこと)でした。非常に猜疑心が強くて嫉妬深いため、政敵はもちろん、妻子でさえ死に追いやっています。そのため、ローマ皇帝アウグストゥスが「余は、ヘロデの息子(ヒュイオス)であるより、豚(ヒュス)でありたい」と語ったほどだと言います(ユダヤでは豚は食べないので、殺される心配がないため)。ですから、マタイ2:16にあるような幼児虐殺など、特に珍しくもない所行だったのでしょう。
その一方で、建築面では非常に優れた手腕を発揮しました。イエスさまの時代の神殿も、ゼルバベルが再建した神殿をヘロデが豪華に改築したものです。
ヘロデ大王の死後
紀元前4年にヘロデ大王が亡くなると、パレスチナは3人の後継者が分割統治することになりました。
- ユダヤとサマリアとイドマヤ地方は、アルケラオ(マタイ2:22に登場)。
- ガリラヤとペレヤ地方は、アンティパス(マタイ14章などに登場するヘロデのこと)。
- イツリヤやテラコニテ地方などは、ピリポ(ルカ3:1に登場。マタイ14:3などに出てくるピリポは別人)。
ただし、アルケラオはあまりに残虐な行為を繰り返したため、すぐに退位させられ、その領地はローマから派遣された総督が統治するようになりました。イエスさまが十字架にかかった頃の総督は、ポンテオ・ピラトです。
言い伝え
学者エズラたちによって始められた律法遵守運動は、エズラたちが亡くなって時代が進むに従い、だんだんと形骸化していきます。そして、モーセの律法に書かれていないような細則(ミシュナ)がどんどんと作り出されるようになりました。
たとえば「安息日には働いてはいけない」という律法の命令に対して、何をすることが働くことなのかという解釈が議論されて、最終的には安息日規定1つだけでも1500以上の細則ができあがりました。
例を挙げると、安息日に野原を歩くことは禁止です。万が一そこに野生の麦が生えていて、踏んだり蹴ったりした拍子に茎が切れれば刈り入れしたことになるし、実が外れてしまうと脱穀したことになるからです。もちろん、モーセの律法そのものにそのような規定はありません。
こうして、やがてはモーセの律法そのものよりも、これらの細則を守ることの方が重要だと見なされるようになります。福音書では、これら細則のことを「言い伝え」と呼んでいます(マルコ7:3など)。
イエスさまは、モーセの律法には完璧に従い、当時のユダヤ人にも守るよう教えました。しかし、言い伝えに関しては全く無視したり、逆にわざとそれに逆らうようなことをしたりしています。
たとえば、「言い伝え」では、今すぐ命に別状のない病気や障がいを安息日に治療してはいけないことになっていました。しかし、モーセの律法にはそんなことは書いていないし、むしろ弱い人たちに愛を示すことを勧めています。そこでイエスさまは、わざと安息日を選んでいやしの奇跡を行なうことがありました。
パリサイ人やサドカイ人など
新約聖書に登場するパリサイ派やサドカイ派は、ユダヤの宗教的なグループです。
パリサイ人
パリサイ人はパリサイ派に属する人のことで、モーセの律法に細則(ミシュナ)、すなわち言い伝えを付け加えていった学者たちの流れを汲んでいます。
ユダヤ人として生まれて割礼を受けていれば、無条件に救われると教え、全ユダヤ人が一日でも律法(彼らにとっては、モーセの律法そのものではなく、言い伝えのことですが)を守ったなら、ただちに救い主が来て王国を建てると説きました。
前述の通り、イエスさまは「言い伝え」を完全に否定なさいました。また、肉体的にユダヤ人として生まれただけでは救われないと教えました(ヨハネ3:1-21など)。ですから、ほとんどのパリサイ人にとって、イエスさまは救い主の到来を邪魔する許しがたい存在でした。
律法学者
イエスさまの時代、律法の細則(ミシュナ)はまだ文字化されておらず、代々口伝によって伝えられてきました。膨大な量の細則を研究し、次の世代に伝承していった人たちが、福音書に出てくる律法学者です。
ですから、彼らの教え方は、「この問題について、昔、ラビAはこう言った。また、ラビBはこう言った」というように、過去の研究成果を引用するようなやり方でした。それに対して、イエスさまは、まるで神ご自身が語るかのように、「こうしなさい」「こうである」と断言なさいました。ですから、
「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである」(マタイ7:28-29)と書かれています。
彼らも、神学的にはパリサイ派です。そこで、イエスさまを危険視しました。
サドカイ人
サドカイ派は、祭司階級の人々が属していたグループです。彼らの特徴は、モーセ五書(創世記から申命記までの5つの書)からしか教理を導き出してはいけないと考えていたことです。その結果、パリサイ人と違って死者の復活や死後の命、あるいは将来のさばきを信じていませんでした。
彼らの関心はもっぱら現世のことに向けられていましたし、神殿を中心としたシステムの中に生きていました。そこで死後の復活や永遠のさばきを教え、ご自身の方が神殿よりも偉大であると主張したイエスさまは、サドカイ人にとって相容れない存在でした。
ヘロデ党
これは宗教的グループというより、政治結社です。彼らは、ローマ総督が治めていたユダヤ地方の統治権を、再びヘロデ王家の手に取り戻すことを目指していました。
そんな彼らが恐れたのは、ローマ帝国の機嫌を損ねることでした。そこで、ご自分を救い主、すなわちイスラエルの王であると主張するイエスさまは、彼らにとって非常に迷惑な存在でした。
熱心党
こちらは宗教的なグループであると同時に、政治結社でもありました。彼らは聖書の神に対して熱心であり、他宗教の排斥と、イスラエルのローマからの独立を目指し、その目的達成のためには暴力的な手段をも辞さないという人たちでした。
後にローマ帝国とイスラエルの間にユダヤ戦争(紀元66-74年)が起こり、70年にはエルサレムが陥落して神殿が破壊され、多くのユダヤ人が世界中に散らされますが、この戦争のきっかけは熱心党による大規模な反乱でした。
なお、イエスさまの十二弟子の一人シモンは、熱心党の出身でした。 そのシモンと、ローマの手先として働いていた取税人マタイが、イエスさまの弟子として同じグループに所属して愛し合い、協力し合っていたというのは、普通ならほとんど不可能な出来事です。
サマリア人
これは、これまでお話ししてきたようなユダヤの中のグループではなく、他の民族です。前述の通り、アッシリアによって北王国の人々が捕囚され、代わりに異民族が移住させられて、北王国に残されたユダヤ人との雑婚によって生まれたのがサマリア人です。
生粋のユダヤ人にとって、サマリア人はイスラエルの血筋から外れた異民族であり、軽蔑の対象でした。その後、様々な歴史的な対立を繰り返す中で、福音書の時代には
「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである」(ヨハネ4:9)と言われるほど反目し合っていました。
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