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聖書の読み方:中通りコミュニティ・チャーチ

聖書の読み方

歴史的文法的解釈

聖書の記述をどのように解釈して受け取るかについては、神学体系によって様々な方法が採られています。

たとえば、聖書に書かれている歴史(特に奇跡に関する記録)や未来に関する預言を、実際に起こったことやこれから文字通り起こることだとは捉えず、それを寓話(教訓的な目的で作られた物語、たとえ話)や比喩として解釈する立場があります。ただ、この読み方だと、人によって聖書から導き出す真理が変わってしまいます。

私たちの教会では、いわゆる「歴史的文法的解釈」を心がけています。これは、著者がどんな意味を伝えたいと思ってその文章を書いたのか、またその文章が書かれた当時の読者たちがどのような意味を読み取ったのかを、その文章の意味だとする読み方です。

というと何か難しそうですが、例を挙げると分りやすいでしょう。たとえば私がFacebookに「今朝、寝坊してしまって朝食を食べる時間がなかったのですが、それでも家内が用意してくれた味噌汁を1杯だけ飲んで出勤したんですよ」と言ったとします。ほとんどの人は、この通りの事実が今朝起こったんだなと受け取るはずです。「これは、自分がダイエット中であっても、それを隠すことが美徳であるということを訴える文章である」などと解釈するのは、かなりひねくれた受け止め方ですね。

文脈に照らしながら読む

歴史的文法的解釈は、別に寓話や比喩として解釈することをすべて否定しているわけではありません。寓話や比喩は、前後の文脈に注意していれば自然に寓話や比喩だと分ります。

たとえば、私がFacebookに「家内の作った手料理を食べて、ほっぺたが落ちそうになった」と書いたとしましょう。日本語の慣用表現を知っている人ならば、本当に顔の一部が剥がれ落ちかけた訳ではないし、そう感じるほどまずい料理だったという意味でもなく、とてもおいしく感じたという意味だと自然に分ります。

聖書は本です。私たちが普段新聞や小説や詩集やメールや論文など読むのと同じ方法で聖書も読めばいいのです。

すなわち、歴史的記述は本当にそれが起こったこととして、未来の預言はそのことが本当に起こるという主張として、比喩的表現は比喩として、寓話は寓話として、ユダヤの慣用表現だと分っている表現は慣用表現として、詩的表現は詩的表現として、文脈に照らしながら素直に受け止めるということです。
ユダヤの文化的特徴を踏まえて読む
「源氏物語」や「枕草子」などを読む際、当時の平安王朝文化、貴族文化を踏まえて読まないと、著者が伝えたい内容をうまく受け止めることができません。それと同様に、聖書はユダヤ人によって書かれた文書の集合体ですから、当時のユダヤの文化的特徴を踏まえて読まなければなりません。

たとえば詩的表現。日本の詩の特徴は五七調で、中国や欧米の詩の特徴は押韻ですが、ユダヤの詩の特徴発育です。これは、2つの文を1セットにして、次々と書き連ねていく方法で、その2つの文は全く同じ内容の場合もあれば、真逆の内容の場合もあれば、前の文を後の文が詳しく解説する場合もあります。そして、対句は詩篇や箴言だけでなく、預言書など聖書の様々な場所に用いられています。これを知っていると、聖書の意味を探る助けになります。

また慣用表現。イエスさまがパリサイ人ニコデモに語った「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」(ヨハネ3:5)という言葉の「水によって生まれる」という表現は、人によって様々に解釈されてきました(たとえば罪の悔い改めを表すなど)。しかし、ユダヤの慣用表現では「肉体的に誕生する」ことを表します(出産前の破水から来ているのでしょう)。当時のパリサイ派の教師たちは、肉体的にユダヤ人として生まれたならば自動的に救いが保証されていると教えていました。しかし、イエスさまはユダヤ人として生まれただけでは救われず、救い主であるイエスさまを信じることで、霊的に新しく生まれる必要があるということを教えておられるわけです。
歴史的背景を踏まえて読む
また聖書の各文書は、それぞれの歴史的背景の中で書かれましたから、その時代がどんな時代だったのかを踏まえて読む必要があります。

たとえば、マタイ5:41に「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」という言葉があります。新約聖書はローマ帝国によってイスラエルが支配されていた時代であり、ローマ兵によってユダヤ人が突然「この荷物をあそこに持っていけ」と命ぜられることが普通にありました。イエスさまのあの言葉は、自分の国を占領して横暴に振る舞っている敵国人に命令されるという、悔しくて切なくて腹立たしい状況が前提になっている命令なのです。それを知っているのといないのとでは、味わいが変わってきますね。

聖書によって聖書を解釈する

聖書の比喩的表現やたとえ話については、前後の文脈から自然に意味がくみ取れるほか、聖書の他の箇所で意味が解説されていたり、意味を解釈するためのヒントが記述されていたりしています。ですから、文脈や他の箇所の解説を無視して勝手な意味づけをしてはいけません。

聖書の他の箇所に照らして読めば、たとえば「星」が比喩として用いられれば「天使」(堕落天使である悪霊も含む)ですし、「洪水」が比喩として用いられれば「軍隊の襲撃」のことだと理解できます。
文字通り解釈できる場合には文字通りに解釈する
ただし、創世記1:16で創造された星は、天体としての星ですし、ノアの洪水は作り話はなく実際に起こった出来事です。それは、それらの箇所に出てくる星や洪水を文字通りの星や洪水だと解釈しても意味が通じるからです。

文字通りに解釈しても意味が通じる場合には、無理に比喩や寓話として解釈するのではなく、文字通りの意味に解釈すべきです。

預言は書かれているとおりに解釈する

聖書の中には、将来こういうことが起こると語っている、未来に関する預言があります。そして、未来の預言の中には、歴史的にすでに実現したものがあります。たとえば、救い主はベツレヘム(別名エフラテ)で生まれるという預言があります。「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている」(ミカ5:2)。これはその通りになりました。

他のすでに実現した預言も、救い主に関する預言であれ、それ以外についての預言であれ、すべて文字通り、書かれているとおりに実現しました。

ですから当然の推論は、まだ実現していない預言も、書かれているとおりに実現するだろうということです。

なぜ歴史的文法的解釈を避ける人がいるか

奇跡に関する記録や、将来についての預言を文字通りに解釈しても意味が通じるのに、あえて比喩や寓話として解釈しようとする人がいるのは、その内容が信じられないからです。

紀元70年にイスラエルの国がローマ軍によって滅ぼされ、ユダヤ人は全世界に散らされてしまいました。しかし、聖書にはたとえユダヤ人が世界中に散らされても、神さまが彼らをやがて約束の地に連れ戻すという預言があります(エゼキエル36:22-24など)。

ところが、国が滅びて数百年も経つと、熱心なクリスチャンの中にも、この預言が文字通り実現するとは信じられない人が増えてきました。そこで、「これは教会時代に、多くの不信者が救われて教会の交わりに入れられることの比喩的表現だ」などと解釈する人たちが出るようになりました。

しかし、今どうでしょう。約束の地にイスラエル共和国が確かに存在しています。

たとえ内容が信じ難いものだったとしても、勝手に比喩や寓話だと決めつけて内容を書き換えたりしないで、素直な聖書の読み方をしたいですね。

聖書の生活への適用

増田牧師の礼拝メッセージのスタイルは、前半でその箇所の意味を解説し、後半でそこから現代の私たちに向けられたレッスン(行なうべき義務は何か、避けるべき過ちはないか、身につけるべき習慣や捨て去るべき習慣は何か、など)を導き出して、各自自分の生活に具体的に適用するヒントにしてもらいます。

そしてこのやり方は、増田牧師個人が聖書を読んだときに自分の生活に適用する方法でもあります。

たとえばモーセの律法の中の安息日規定についての箇所を読んだとしましょう。安息日とは具体的にいつのことなのか、安息日には何をし何をしないのか、誰が対象なのか、なぜこのような命令を神さまはなさったのか、今もそれは信者の義務なのか……といったことを聖書全体から学んでいきます。特に、新約聖書が安息日についてどのように取り上げ、解説しているかに注目します。

時間があれば、それらについて注解書や聖書辞典などの参考書や、他の牧師書いた説教集などを読んで調べます(もちろんそれらを鵜呑みにするわけではなく、書かれている内容を検討します)。

そうすると、イエスさまの十字架によってモーセの律法はすべて廃棄され(エペソ2:14-15など)、その後使徒たちを通して安息日規定が改めて命ぜられてもいませんから、現代のクリスチャンが安息日規定を守る義務はないということが分ります。
  • 元々安息日は家に引きこもって休む日であって、よく誤解されているように信者が集まって礼拝するために定められた日ではありません。ですから、安息日規定が廃止されたからといって、現代のクリスチャンが集まって礼拝しなくてよくなったと主張しているわけではありません。むしろ定期的に集まって礼拝するようヘブル10:25で命じられています。
  • ついでにもう一つの誤解について申し上げると、安息日は「金曜日の日没後から土曜日の日没まで」であって、新約時代になって日曜日に変更されたという記述は聖書のどこにもありません。
では今の私たちにとって安息日規定に関する旧約聖書の記述は全く意味がないのでしょうか。いいえ。規定そのものは廃止されましたが、神さまが週に1度休むようユダヤ人に命じた理由については、意味をなくしたわけではありません。

週に1度休むようユダヤ人に神さまが命じたのは、彼らがエジプトで休みなく働かされる奴隷状態から解放されて、自由人になったことを象徴しています。また、男だけでなく主婦も奴隷も家畜も休むよう命ぜられていましたから、肉体的な休息を定期的に取ってリフレッシュすることの大切さや、自分だけでなく他の人が休息できているかに気を配ることの大切さも教えていると思われます。

そして、これらの点を今の私たちの生活に適用するならば、たとえば、
  • 忙しければ忙しいときほど、休息を取ることを意識して実践しよう。
  • 仕事や家事の分担を見直し、他の人が肉体的・精神的に休むことができるよう、互いに配慮し合おう。
  • 教会の奉仕や集会が、1週間の休みのすべてを潰し、くたくたに疲れ切るようなものになっていないか考え直そう。
  • 精神的な自由を失い、「分っているのにやめられない」「分っているのにできない」という奴隷状態になっているならば、神に助けを求めよう。
……というようなレッスンを導き出すことができます。

なお、自分が読む聖書箇所の元々の意味を探ったり、そこからレッスンを導き出したりする過程では、以下の記事が参考になります。


参考記事「新約聖書が旧約聖書を引用する方法

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