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新約聖書が旧約聖書を引用する方法:中通りコミュニティ・チャーチ

新約聖書が旧約聖書を引用する方法

4つの引用法

新約聖書には、旧約聖書の記述を引用している箇所がたくさんあります。その引用法を分類すると4種類になりますが、それらの引用法を分析することで、現代の私たちが聖書をどのように読めばいいかのヒントが見えてきます。

その4種類とは、
  1. 預言の文字通りの実現
  2. 予型と原型
  3. 一部が似た出来事
  4. 複数箇所の要約
です。

預言の文字通りの実現

これは、旧約聖書に書かれている将来についての預言を取り上げ、それが文字通りに実現した、あるいは実現はまだだがいつか必ず実現するということを示す引用法です。

例を挙げましょう。

「王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。「ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである」』」(マタイ2:4-6)。

ここで律法学者たちが引用したのは、ミカ5:2に書かれている文章です。彼らは、ミカ5:2が書かれているとおりに実現するという前提でこの箇所を引用しました。だからこそ、それを聞いたヘロデ王は、ベツレヘムに兵士を送って2歳以下の子どもを皆殺しにしたのです。

律法学者もマタイも、預言は文字通り実現するものだと思っていました。実際、すでに実現した預言はすべて文字通り実現しました。私たちもまた、まだ実現していない預言についても、勝手に比喩的に解釈しないで、文字通り実現すると受け取りましょう。

予型と原型

旧約聖書の物事が、新約聖書の物事(特にキリストやそのみわざに関すること)を象徴するものになっているとき、前者を「予型」(type)、後者を「原型」(antitype)と呼びます。予型は印鑑に朱肉を付けて紙に押したときに写る印影、原型は印鑑そのものを指す言葉です。

たとえば、次のような記述です。

「この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです」(第1ペテロ3:21)。

ここで「この水」と言われているのは、ノアの洪水のことです。世界中を覆い尽くす大洪水によってほとんどの人類は滅亡しましたが、ノアの家族8人は神さまによって命が守られました。その歴史的事実は、イエス・キリストによる霊的な救いを儀式的に表現する水のバプテスマ(洗礼)を象徴する予型だとペテロは語っているのです。

ここで注目すべきことは、創世記に書かれているノアの洪水が歴史的に実際に起こった出来事だということを、ペテロは否定していないということです。旧約聖書に書かれている物事を「予型」として捉える場合も、旧約聖書の記述の歴史性を否定してはなりません。
めったやたらに「予型と原型」だと解釈しないこと
「予型と原型」という捉え方は魅力的なので、聖書を何でもかんでも比喩的に解釈しがちな人には多用される恐れがあります。しかし、
  • 「これは型(模型)である」と新約聖書が明言している。
    たとえば上述の第1ペテロ3:21です。
  • 「新約の○○は旧約の○○である」というような表現をしている。
    たとえば 「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました」(ヘブル10:19-20)。ここで言う「 垂れ幕」とは、神殿で神さまが臨在なさる至聖所と、それ以外の場所を区別するための分厚い幕のことです。イエスさまが十字架にかかって肉体を引き裂かれ亡くなった時、神殿の垂れ幕が引き裂かれました。それまでは大祭司が年に一回しか至聖所には入れなかったのに、イエスさまの十字架後は、信者なら誰でもいつでもどこででも神さまと交わることができます。上述の箇所はそれを表しています。
でない限り、「予型と原型」という捉え方はしない方がいいでしょう。

一部が似た出来事

将来についての預言でもなく、予型でもない。しかし、過去の歴史的出来事についての記述が、新約時代に起こった歴史的出来事と、一部の特徴が似ている場合も「〜が成就した」と表現します。

たとえば、

「そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。『ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ』(マタイ2:17-18)。

ここで引用されているのは、エレミヤ31:15です。エレミヤが語っているのは、イスラエルが南北に分裂した後の時代の南王国ユダが、バビロニア帝国によって攻撃され、多くの国民がバビロニアに捕囚されてしまった歴史的事実です。ラマとは、首都エルサレムの北8キロほどにあった町の名です。ラケルとは、ユダヤ人の先祖ヤコブの最愛の妻の名で、死後ラマの近くに葬られました。その後、ラケルはユダヤ人の母の代表、母性の象徴として扱われています。

エレミヤがこの箇所で語っている内容は、未来についての預言ではありません。バビロニアに連れ去られていく自分の息子を見つめながら、もう生きて再会することはないだろうと悟った母たちが嘆いているという現実に起こった出来事の報告です。

一方、マタイが描いているのは、救い主誕生のニュースに怯えたヘロデ大王が送り込んだ兵士たちによって、ベツレヘムの2歳以下の幼児が殺され、その母たちが嘆いている場面の報告です。

エレミヤとマタイがそれぞれ書いた報告の内容を比較すると、明らかに状況が違います。
  • エレミヤでは子は死んでいません。一方、マタイでは子は死にました。
  • エレミヤでの子どもは青年です。一方、マタイでの子どもは2歳以下の幼児です。
ただし似ている点もあります。「生きて再会することができない息子との別れに際して、母親が嘆いている」という特徴です。

ここから分ることは、旧約聖書の歴史的事実と一部でも特徴が似ている出来事が新約時代に起こったなら、聖書はそれを旧約聖書の成就だと表現するということです。

また、マタイはエレミヤが語った出来事を、歴史的事実として捉えているという点にも注目してください。

複数箇所の要約

旧約聖書の複数の箇所をまとめて要約する引用法です。

例を挙げましょう。

「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して『彼はナザレ人と呼ばれる』と語られたことが成就するためであった」(マタイ2:23)。

たとえば、マタイの福音書で、幼子イエスを連れたヨセフとマリヤがエジプトからイスラエルに戻ってからナザレに住んだという出来事を記述しています。そこで、イエスさまは後に「ナザレのイエス」と呼ばれることになります。

ところが、「救い主はナザレ人と呼ばれる」という言葉は旧約聖書のどこにも存在しません(そもそも、ナザレという町の名すら登場しません)。これは、マタイが旧約聖書の救い主に関する様々な預言をまとめて要約した言葉です。ですからマタイは「預言者たち」と複数形で表現しています。

旧約聖書の預言者たちは、やがて登場する救い主について2種類の異なった姿を描いています。
  1. イスラエルの敵を打ち破り、あらゆる悪を滅ぼし、理想的な神の国を地上に実現して世界を治める王の中の王。
  2. 人々からそしられ、捨てられ、殺され、それによって人類の罪を身代わりに負う苦難のしもべ。
さて、新約時代、ナザレに住む人は同じユダヤ人たちによる差別の対象でした。エルサレムなどユダヤに住む人々はガリラヤの人々を見下していましたが、ナザレ人は他のガリラヤ人からも見下されていたのです。たとえば、友人ピリポから初めてイエスさまのことを聞いたナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言いましたが、ナタナエルはガリラヤのカナ出身です。

ですから「彼はナザレ人と呼ばれる」というのは、預言者たちが預言した苦難のしもべとしての救い主のイメージを表しています。


参考記事「聖書の読み方

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