今の時代

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歴史の流れ その10

今の時代の救い

信仰による救い

アダムの時代から黙示録の時代まで、救いの方法はたった一つです。それは信じること。信仰です。

ただ、何を信じるのかという信仰の内容は、時代によって異なります。信じるべき内容とは、神さまがその時代までに情報提供してくださった内容(これを啓示と言います)です。

漸進的啓示と信仰

神さまは、すべての真理をいっぺんに啓示されたのではなく、時代が進むにつれて少しずつ明らかにしていかれました(これを漸進的啓示と呼びます)。

たとえば、アブラハムは、後の時代になって明らかになった、「救い主は、私たちの罪の身代わりとして、十字架にかかって死に、復活する」というようなことを知りませんでした。まだ啓示されていなかったからです。ですから、アブラハムが救われたのは、イエス・キリストの十字架と福音を信じたからではありません。彼がそれまでに啓示されたこと(この場合には、アブラハム契約の内容)を信じて救われました。

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい」。さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる」。彼は【主】を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:5-6)

モーセの律法が有効だった時代でさえ、救いは律法を守る行ないによって与えられたのではありませんでした。彼らもまた信仰によって救われました。そして、救われた感謝の応答として律法を守るよう求められたのです。

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト記20:2-3)

福音

それでは、今の時代の私たちが信じるべき内容は何でしょう。それは「福音」(良い知らせという意味)と呼ばれており、第1コリント15:1-8に要約されています。すなわち、イエス・キリストが私たちの罪のために(罪を赦し、神さまとの関係を回復するために)十字架にかかって死んで葬られ、3日目に肉体的に復活したということです。十字架と復活です。

「イエスさまが十字架にかかって復活してくださったので、この罪深く不完全な私は、今あるがままの姿で神さまに赦され、受け入れられ、子どもとして愛され、祝福され、永遠の幸せを手にすることができる」。この図々しいことを信じることが、今の時代に求められていることであり、唯一の救いの条件です。

あなたはこの図々しいことを信じますか? もし「はい、信じます」と言えるなら、今日からあなたはクリスチャン、すなわち神さまの子どもとして、神さまの祝福をいただき、永遠の幸せを約束された人です。

大宣教命令

教会は、世界中にいるまだ救われていない人々に福音を宣べ伝え、できるだけ多くの人々を救いに導く使命が与えられています。伝道はクリスチャン生活のオプション(してもいいし、しなくてもいいもの)ではなく、どうしてもしなければならないことです。

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:19-20)

信じた信者の生きる指針

キリストの律法

上述のように、アダムやノアやアブラハムたちの時代も、モーセの律法の時代も、救いは信仰によって与えられました。そして、信じた者たちが、救ってくださった神さまに忠実に従いたいという思いで守ろうとしたのが、各時代に与えられた律法(神さまの命令)です。

「モーセの律法」は、出エジプト後のユダヤ人にのみ与えられた指針であり、しかも十字架以降は無効となりました。今の時代の私たちクリスチャンを導く生活の指針は、「キリストの律法」とか「いのちの御霊の原理(原理という言葉は律法とも訳せます)」とか呼ばれています(第1コリント9:21、ガラテヤ6:2、ローマ8:2)。

「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです」(第1コリント9:21)

具体的には、イエスさまが十字架後の信者に向けて語られた教え(前述の通り、当時のユダヤ人に向けての教えもありますから、文脈をよく考えて読み取る必要があります)と、新約聖書に書かれた使徒たちの教えです。

モーセの律法の一部が生きているわけではない

モーセの律法と同じ命令

キリストの律法の中には、モーセの律法と同じものがあります。たとえば、十戒のうち安息日規定以外の9つまではキリストの律法の中にもあります。

だからといって、モーセの律法の一部が今も生きているということではありません。モーセの律法は、いったんすべて無効となりました。そして、新しく定められたキリストの律法の中に、たまたま昔のと同じ規定があったということです。
江戸時代に徳川幕府や各藩で定められた法体系で、殺人は罪でした。そして、明治維新以降に新しくできた刑法でも殺人は罪です。といっても、明治以降も江戸幕府の法が存続したというわけではありません。モーセの律法とキリストの律法の関係も、これと同じです。

モーセの律法よりさらに高い基準の命令

キリストの律法の中には、モーセの律法よりもさらに高い基準を求めているものがあります。

たとえば隣人愛について、モーセの律法では「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とあります。麗しい教えですが、自分をあまり好きではない人にとっては、他人への愛もそれなりになってしまうかもしれません。これに対し、キリストの律法では「キリストがあなたを愛したように愛しなさい」と命じられています。

モーセの律法に矛盾する命令

また、キリストの律法には、モーセの律法と矛盾する教えもあります。たとえば、モーセrの律法の時代には、イスラエルの神さまを信じて霊的な祝福を味わいたいと思う異邦人は、ユダヤ人と同じように割礼を受け、モーセの律法を遵守する誓いを立てなければなりませんでした。しかし、キリストの律法においては、信じた異邦人に割礼を要求することは、むしろ罪になります。
イエスさまを救い主と信じたユダヤ人、いわゆるメシヤニック・ジューは、今でも息子が生まれて8日目に割礼を授けます。これはモーセの律法を守ってということではなく、アブラハム契約のしるしとして、すなわち生まれた息子が肉体的にユダヤ人であるということのしるしとして行なっていることなので、問題ありません。

罪との戦い

永遠の赦し

繰り返しますが、救いは信仰によって与えられます。モーセの律法であれキリストの律法であれ、律法を守る行ないへの報酬として救われるわけではありません。私たちが神さまの命令を守るのは、そうすることによって救われるからではなく、救われた喜びの故に、感謝の応答としてそうするのです。

いったんイエス・キリストを信じて神さまの子どもにしていただいたなら、その救いは永遠に有効です。残念ながら、不完全な私たちは、この地上に生きている限り、たとえクリスチャンになったとしても罪を犯し続けます。しかし、たとえ救われた後に罪を犯したとしても、それで救いが取り消されることはありません。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:38-39)

昔の人々が、神さまの命令に違反したと自覚したとき、あるいは神さまに礼拝をささげるとき、自分の罪を赦していただき、再び神さまとの交わりを回復するために、血の犠牲をささげました。昔は不完全な動物犠牲でしたから、毎回ささげなければなりませんでしたが、イエスさまはただ一度で、完全な血の犠牲をささげてくださいました。

ですから神さまは、私たちの過去の罪ばかりでなく、現在進行形の罪や、これから死ぬまでの間に犯すであろう罪も、すでに完全に赦してくださっています。そして、神さまの愛は、私たちがどういう状態にあっても私たちに注がれ続けています。それをいつも忘れないようにしましょう。

従順

では、どうせ赦されるのだから好き勝手に生きていけばいい、ということにならないでしょうか。いいえ、そんなことにはなりません。

「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ6:15)

不可能

さらにこのように言われています。

「だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。……だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです」(第1ヨハネ3:6,9)

これは、クリスチャンは決して罪を犯さないとか失敗しないとかいう意味ではありません。クリスチャンだって、どんなに気をつけていても罪を犯してしまいます。

しかし、自分が神さまに一方的に愛され、考えられないような祝福を約束され、しかもこの自分のためにイエスさまが命をささげてくださったということを知って感謝しながら、なおも神さまが悲しまれると分かっていることを積極的に行なおうとすることは不可能だ、と言っているのです。

天における報い

また、救われた人は、永遠の刑罰を免れて、天国に行けるという希望は与えられていますが、その天国においてどんな永遠の祝福を受け取るかということについては、まだ確定していません。それを決めるのは、生きている間の行ないです。

「神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります」(ローマ2:6)。

「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」(第1コリント9:24-27)

ですから、どうせ救われているんだから、あとは好き勝手に生きようというのは、長期的に見れば非常にもったいない生き方です。

日々の悔い改め

それでも、不完全な私たちは罪を犯してしまいます。そんな時、聖書は神さまに罪を告白して、悔い改めの祈りをするよう命じています。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)

なぜ赦されているのに、悔い改めの祈りをするのでしょう。それは、私たちのためです。悔い改めの祈りをするということは、私たちが少なくとも以下の3つのことを行なっているということです。
  1. 自分のこの行ないや思いは神さまのみこころに反しており、それは間違っているということを認めている。
  2. 代わりにどういう生き方をしなければならないかを知り、そうしようと決意している。
  3. 今回の失敗は、イエスさまのおかげで完全に赦されているから、神さまに罰せられるとか、捨てられるとか、祝福を取り上げられるとかいうことを心配しなくていいと認めている。
これらの認識は、みな私たちにとって有益です。悔い改めは、私たちが堂々と神さまと交わることができるようにし、「自分は本当の幸せに至る正しい道を歩んでいる」という、生き生きとした希望や確信を取り戻させてくれます。

「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです」(第1ヨハネ3:21-22)
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