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ショートエッセイ:中通りコミュニティ・チャーチ

友のために命を捨てる

(2011年11月13日)

昭和の初期、現在の和歌山県みなべ町に、枡崎外彦という牧師がいました。そして、「労祷学園」という塾を開いて、才能ある青年たちに勉強と聖書を教えていました。

あるとき、枡崎牧師は山本忠一という少年を引き取ります。この少年は、孤児で親戚に引き取られていたのですが、幼い頃に脳膜炎を患って知的障がい者となっていたため、手がかかるということで、捨てられて乞食をしていたのです。

忠一少年(枡崎牧師は、彼を「忠ヤン」と呼んでいました)が来たことで、町の人たちは労祷学園のことを「アホ学園」と揶揄し、門にそのように落書きする人も現れました。そこで、すでに塾で学んでいた7人の青年たちは、「忠ヤンを追い出して欲しい。さもなくば我々が出て行く」と枡崎牧師に詰め寄ります。

枡崎牧師は悩みましたが、結局「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」(ルカ15:4)とおっしゃったイエスさまに倣うことを選びました。その結果、7人は学園を去り、忠ヤンだけが残りました。

ところが、しばらくして忠ヤンも学園から姿を消してしまいます。外出したままいつになっても帰ってこないのです。障がい故の放浪癖のためにどんどん歩いて行くうちに、帰り道が分からなくなってしまったのだと考えられました。枡崎牧師はあちこち捜し回りましたが、とうとう忠ヤンは戻ってきませんでした。

それから数年後の昭和14年(1939年)、機帆船幸十丸の船長だという人物が枡崎牧師の家を訪れました。そして、忠ヤンが幸十丸の船員として働いていたこと、さらに、嵐に遭って沈みかけた船を守って死んだということを語りました。

嵐に遭った幸十丸は、暗礁にぶつかって船底に穴を開けてしまいます。船員たちは総出で水を掻き出しましたが、浸水を止めることができませんでした。みんな、あきらめかけた時、忠ヤンは船底の穴の中に自分の右足を太ももまで突っ込んで浸水を食い止めました。そこで、船はかろうじて港に逃げ込むことができたのです。しかし、忠ヤンは右足をもぎ取られ、出血多量で亡くなってしまいました。

知的な障がいのために、勉強を教えるのには苦労しましたが、それでも枡崎牧師は忠ヤンに勉強と聖書を教え続けました。自分のために命を捨ててくださったイエスさまの愛、そして自分を引き取り、犠牲を払ってでも世話し続けてくれた枡崎牧師の愛。それが忠ヤンの心にもしっかりと引き継がれていたのでしょう。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハネ15:13)。

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