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ショートエッセイ:中通りコミュニティ・チャーチ

天は人の上に人を造らず

(2020年5月31日)

誤用されている名言シリーズ。こればかりだと皆さんも飽きてしまうでしょうから、今回で一応最後にしたいと思います。最後に取り上げるのは、現在の一万円札に描かれている福澤諭吉が語ったあの名言。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」。福澤が書いた「学問のすゝめ」の冒頭の文章として有名ですね。一般には、人間みんな平等だという意味で用いられます。

ただ、正確には「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといへり」。つまり「そう言われているよね」というのがこの文章の趣旨です。

そして続けてこう言われています。「されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり富めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや」。

すなわち「人間みんな平等だと言うけれども、世間を見渡せば、賢い人も愚かな人もいる。貧しい人もいれば豊かな人もいる。高貴な人もいれば下賎な人もいる。こんなふうに不平等なのは一体どういうことだ?」

福澤の答えは、この違いは学問をしっかりやっているかいないかの違いです。だから、この本のタイトルが語っているように「みんなしっかり学問しようぜ」と福澤は勧めているのです。

さて、聖書はイエス・キリストの十字架によって、あらゆる罪が赦されていると教えています。過去や現在の罪だけでなく、これから死ぬまでの間に犯す罪もすべてです。それはどんなクリスチャンにも与えられる平等な権利です。

すると、ある人たちは言います。「じゃあ、この先真面目に神さまのみこころにかなう正しい生き方をしても、自分の欲望に従っていい加減な生き方をしても、どちらも同じなのか」と。確かにイエスさまを信じたならば、その先どんなに罪深い生活を続けようとも、地獄に落ちて永遠に苦しむことはありません。その意味では救いは平等です。

しかし、できるだけ罪を犯さないように努め、逆に神さまのみこころにかなう生き方をしようと奮闘努力した人には、この世の終わりに実現する千年王国で一種のボーナスが与えられると聖書は教えています。「競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです」(第一コリント9:24-25)。

その意味では救いは平等ではありません。どうせ赦されるんだからどんな生き方をしてもいいと考えるのは、長い目で見れば損な生き方です。そして、あなたの奮闘努力は、たとえ世の中の人たちが気づいて評価してくれなくても、必ず神さまは見ていてくださり評価してくださいます。「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません」(マタイ10:42)。

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