(2011年3月13日)
イントロダクション
今回の東北関東大震災で、私の住む須賀川市では震度6強を記録したようです。我が家も半壊しました。ただし、我が家のある地域では最初から停電はなく、翌日にはインターネットにも接続できるようになりましたから、様々な情報を入手できたのは幸いでした。しかし、入ってくる情報は、どれも考えられないような被害の実態でした。
このサイトを読んでくださっている中にも、ご自身が被災なさった方、あるいはご家族や知人が被災なさった方も多いことでしょう。心よりお見舞い申し上げます。
今回のこの大惨事に関して、一部の人たちが「これは日本に対する神の裁きである。天罰である」というような発言をし、被災した人たちの心をさらに傷つけているようです。
私も、某国の牧師からわざわざ同様のメールを送っていただき、悔い改めるよう勧められました。
では、実際はどうなんでしょうか。
1.イエスが否定している
あの震災が天罰? 絶対にそんなことはありません。少なくともクリスチャンがそんなことを言ってはいけないし、考えてもいけません。
なぜならば、イエスさまご自身がこうおっしゃっているからです。
「また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない」(ルカ13:4-5a)。
以上終わり。これ以上、何を説明する必要があるでしょう。
2.恵みを味わい損ねる
自分もまた天罰を受けても仕方のない存在
それでも「天罰だ」と言い張る人がいるとしたら、その人は、自分もまた同じような天罰を受けても仕方のない存在だと宣言しているのと同じです。
というのは、先ほどの箇所の続きで、イエスさまはこうおっしゃっているからです。
「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。
また、こうも言われています。
「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」(マタイ7:1-2)。
自分の罪を認めないこと
自分をさばきの外に置き、まるで自分がさばき主であるかのように他人を断罪することは、イエスさまがもっとも嫌われたことです。
それは、自分の罪を認めないことであり、認めたとしても「まあこんな程度の罪は、神さまは問題になさらない。清廉潔白ではないけれど、それほどひどくもない」と思っているということです。
いいえ。人の目には罪の重い軽いがあっても、神さまの前ではすべて反逆です。
「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです」(ヤコブ2:10)。
完璧な人なんか一人もいませんから、
「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)と言われている通り、すべての人が罪人です。今回被災していようといまいと、日本人であろうとなかろうと。
そして、罪に対するさばきもみんな等しく、
「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)。
だから、自分も罪人の一人なのだということを忘れて、自分をさばきの外に置いて他人を断罪し、「それは天罰だ」などと言う人は、自分の死刑宣告書にサインするのと同じなのです。
神は罪人を愛された
みんな罪人なのだなどということを書くと、なんだか恐ろしいですね。しかし、安心してください。聖書の神さまは愛です。そして、その愛は、私たちが罪を犯さず、良い行いをしたことに対する報酬ではなく、ただ一方的に与えられる恵みです。
「働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」(ローマ4:4-5)。
ここで、「義と認められる」というのは、神さまに受け入れられ、神さまと良い関係になるという意味です。「救われる」と言い換えることもできます。
イエスさまは、罪人に天罰が下らないよう、身代わりにその罰を受けてくださいました。それが十字架の死です。イエスさまの犠牲の愛により、私たちはただそのままの姿で、神さまに赦され、神さまの子どもにしていただき、神さまの無限の祝福を受ける者とされました。
今回被災した人は罪人でしょうか。その通りです。私も含めて罪人です。では、被災しなかった人は? 外国の人たちは? みんな罪人です。
そして、みんな神さまに赦されています。みんな神さまに愛されています。今回特に被害がひどかった東北・北海道・北関東の人たちも、それ以外の地域の人たちも、日本以外の人たちも、私も、あなたも、あの人も、この人も、みんな、みんな、愛されています。
今回の大惨事を「天罰だ」と言う人は、自分を神さまの愛、赦し、恵みの外に置いてしまっているということです。ですから、天罰だなどと言ってはいけないし、考えてもいけません。
3.神が愛ならなぜ?
ヨブの問いと神の答え
旧約聖書のヨブ記に出てくるヨブは、正しい人だと言われているほどなのに、さんざんな目に遭いました。
彼は、「なぜ私がこんな目に遭わなきゃいけないのだ」と問いかけます。友だちは、「それは、知らず知らずのうちに君が罪を犯したからだろう」と言いました。しかし、ヨブは「こんなひどい目に遭うほど、悪いことをした覚えはない」と言い、この押し問答が延々と続きます。
ヨブ記を最後まで読んでも、神さまは、ヨブの「なぜこんなことが?」という問いには答えてくださいませんでした。代わりに、神さまの偉大さを示し、たとえ理解できなくても神さまに信頼することを求められたのです。
「なぜ」ではなく、「いかに」
私も、なぜこんな大惨事が起こったのかを問うのではなく、この大惨事の中で、人として、クリスチャンとして、隣人として、いかに振る舞うか……それを問いたいと思います。
神さまは、この世を、そして日本を愛しておられます。それは間違いがありません。
願わくは、私を通して、ほんの少しでもそのことが、他の人に(そして私自身に)明らかになりますように。「明日、そんな機会をお与えください」と祈ります。たとえ、かっこいいことはできなくていいから。
まとめ
この大惨事の中で、神さまの愛を受け取っている者として、あなたに何ができますか? あなたが被災者であっても、そうでなくても、今置かれているそこで。
あなた自身への適用ガイド
- 最近「これは神からの罰ではないか」と考えてしまったことがありますか?
- あるいは、人から神からの罰であるというニュアンスのことを言われて、よけいに傷ついたことがありますか?
- 「なぜ」と問う代わりに「いかに」と問うてみると、問題に対する感じ方や生き方にどのような変化が生じますか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?