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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

うちに燃えていた

ルカの福音書24章13節〜35節

(2012年4月8日)

参考資料

13節の「ちょうどこの日」は、イエスさまが復活なさった日。

13節の「エマオ」は、エルサレムから約11キロほどの距離にあったとされる村。今も所在不明。

18節の「クレオパ」は、 ヨハネ19:28のマリヤの夫クロパとは別人と思われます。もう1人の名は聖書には書かれていませんが、教会の伝承によればシモン。2人ともルカ10章の70人の弟子に含まれていたそうです。

イントロダクション

32節に「うちに燃えていた」とありますが、私たちが事をなすときには、情熱が必要です。情熱があれば、どんな困難に直面しても、それを打ち破って進むことができ、また様々なアイデアを生み、さらに多くの人々を巻き込んでいくことができます。

一方で、情熱に欠けるために、あるいはかつては情熱を燃やしていたけれど、いつの間にかそれが消えかかってしまい、やる気や根気がわいてこないで、なかなか前に進んでいかないということもあるでしょう。

エマオに向かうクレオパともう1人の弟子(ここでは伝承に従ってシモンと呼ぶことにしましょう)、は情熱を失っていましたが、復活したイエスさまはもう一度彼らの心に火をつけてくださいました。そして、あなたの心にも。どのようにして、イエスさまは、私たちの心に火をつけてくださるのでしょうか。

1.共にいることで

わくわくするような経験

二人の弟子と同行することになったイエスさまは、彼らが落ち込んでいるわけを聞きます。彼らは言いました。「イエスは……力ある預言者でした」(19節)。「望みをかけていました」(21節)。

彼らは、確かにイエスさまこそ救い主だと望みをかけていました。そして、イエスさまと共に旅をするのは、それはそれは驚くべき経験、わくわくするような経験でした。彼らは、イエスさまの話を聞いたり、イエスさまが奇跡をなさるのを目撃したりして、彼らの心は熱く燃えていたことでしょう。

クリスチャンになるということは、退屈な生活を送ることではありません。クリスチャンになるということは、イエスさまが共にいてくださるようになるということです。そして、イエスさまが共にいてくださると、
  • 一人ではできなかった価値のあることができるようになります。
  • 一人ではどう解決していいか分からなかった問題が、イエスさまによって解決していきます。
  • どうしようもないむなしさとか孤独感とかがあったのが、イエスさまによって慰められ、喜びに満たされていきます。
それはわくわくするような毎日です。

それは過去の話

しかし、クレオパとシモンにとっては、それは過去形で語られるものでした。また、「女たちが……と言うのです」(23節)というように、復活という驚くべき出来事も、自分たちとは関係ない世界の出来事になっていました。

私たちは、いつの間にか情熱を失ってしまうということがないでしょうか。喜んで始めた仕事なのに、最初は感動と希望に満ちた結婚生活だったのに、最初は教会に来たり聖書を読んだりするのが楽しくてうれしくてたまらなかったのに、いつの間にか倦怠感に満ちて、喜びと平安と感動を失って、ただ惰性で続けているだけ、ということ。

それでも共におられる

しかし、イエスさまは、そんな二人の所にいつの間にか近づいてこられ、同行してくださっていました。二人の不信仰に愛想を尽かして離れてしまわれたのではなく、彼らの家までついて行ってくださいました。

クレオパたちは、一緒に歩んだ旅人がイエスさまだを気づく前から、自分たちの心が燃えていたのを思い起こしました。不思議ですが、そのときには気づかなかったのです。しかし、とにかく、彼らの心には情熱の炎がよみがえりました。

イエスさまが復活なさったということは、今も生きておられるということです。そして、イエスさまはあなたと共にいてくださいます。あなたの調子がいいときも、悪いときも、信じているときも、そうでないときも、どんな時にもイエスさまは一緒です。そして、あなたの心に新しい情熱を与えようとしてくださっています。

イエスさまが私たちと一緒にいて、わくわくするような経験を与えてくださるのだと信じましょう。そして、「イエスさまが共におられるという確信をお与えください。イエスさまの臨在で心を満たしてください」と祈りましょう。

2.聖書の約束に目をとめさせることで

ご自分について書いてある事がら

イエスさまは、歩きながら、旧約聖書(当時は、まだ新約聖書は書かれていませんでしたから)に書かれている、メシヤ(キリスト、救い主)に関する預言を一つ一つ解説なさいました。聖書の学者によると、メシヤについての預言は、旧約聖書の中で300以上語られています。そのすべてを解説なさったわけではないでしょうが、何百年も前から、救い主は一度苦しみを受けて死に、復活すると預言されていたのだということを、クレオパとシモンに示されたのです。

後に二人は、イエスさま(この時はまだイエスさまだとは気づいていません)が聖書を解説してくださっている間、内側が燃えていたと語っています(32節)。

私たちの信仰の土台

自分の状態や、目の前の状況を見たら、私たちは落ち込んだり、希望を失ったりしてしまうかもしれません。

しかし、私たちの喜び、情熱の源は聖書の約束です。どんな状況に置かれても、自分自身がどんな精神状態であっても、どんな信仰の状態であっても、それでも大丈夫だと思えるのは、聖書が大丈夫だと約束しているからです。

イエスは聖書を通して語られる

復活し、今も生きておられるイエスさまは、私たちに語りかけてくださいます。その語りかけは、私たちを慰め、あるいは励まし、あるいは勇気づけ、あるいは正しい道に導き、あるいは知恵を与え、あるいはいやし、あるいは奇跡を引き起こします。

そして、イエスさまは私たちに聖書を通して語ってくださいます。心の中に響く強い印象や幻や天使などを用いて語られることもありますが、最終的には聖書によって裏付けられなければなりません。

「どうぞ、お語りください」と祈りつつ、聖書を開きましょう。

3.十字架の愛を思い起こさせることで

最後の晩餐のリプレイ

イエスさまが食卓に着き、パンを祝福して割いたとき、彼らは最後の晩餐のシーンを思い出させたことでしょう。そしておそらく、パンを割くその手を見たはずです。そこには、十字架の釘の傷跡がくっきりと残っていました。「イエスさまだ!」 二人は突然気づきました。

不思議ですが、それまで彼らは同行者がイエスさまだと気づきませんでした。何年も離れて暮らしていた人ではなく、つい3日前まで一緒にいた人なのに、です。復活の体は、生前の体とは別物で、どうやら心の目が開かれなければ、本人とは分からないようですね。とにかく、クレオパとシモンは、イエスさまだと分かりました。

十字架の愛

最後の晩餐も手の傷跡も、イエスさまの十字架を象徴しています。そして、十字架は、神さまの愛の表現です。私たち人類を、その罪や弱さの故に裁き、滅ぼすのではなく、イエスさまが身代わりとなってくださって、神さまの祝福を堂々と受け取ることができるようにしてくださった。それが十字架です。神さまの愛は、十字架に結集しています。

十字架は、すべての否定的なものが肯定的なものへと転換された、大どんでん返しでした。さばきが赦しに、呪いが祝福に、死がいのちに、サタンの勝利がキリストの勝利に転換されました。十字架に現された神さまの愛に触れたとき、絶望と悲しみとむなしさに落ち込んでいた者の内側に、喜びと平安と感動がよみがえります。

クレオパとシモンは、自分たちの心が燃えていることを自覚しました。そして、逃げるようにして離れたエルサレムに戻っていきました。そして、エルサレムで聖霊を受け、彼らはますます信仰の炎に満たされました。多くの奇跡が行なわれ、愛のわざが行なわれ、教会が爆発的に成長します。すなわち、クレオパやシモンのように、心燃やされ、喜びと平安と感動に満ちた人生を手に入れる人が何千人と誕生したのです。

後に、エルサレムには迫害の嵐が吹き荒れます。たくさんのクリスチャンが投獄され、殺されました。生き残ったクリスチャンたちも、仕事を失い、生活に困窮することになります。それでも、彼らの心は燃えていました。喜びと平安と感動が満ちあふれていました。

神はあなたを愛している

全知全能の神さまが、この私を愛している。この確信こそ、内なる情熱の源です。復活のイエスさまに出会い、十字架の愛を知ったパウロはこう宣言しています(ローマ8:31-39)。

「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。


あなたは壁にぶつかって萎えていませんでしたか? いつの間にか倦怠感を抱いていませんでしたか? イエスさまを通して表された神さまの愛は、あなたの心の内に燃える炎を与えます。

まとめ

イエスさまが、私たちの心の内を、情熱の炎で満たしてくださるように祈りましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 良いと分かっていることなのに、やる気や根気がわいてこないで立ち向かえないでいることがありますか?
  • かつては情熱を持って始めたのに、いつの間にかそれを失って停滞してしまったということがありますか?
  • イエスさまの臨在を感じて、心が燃えたという経験が最近ありますか?
  • 聖書の約束によって、心の内に感動がよみがえったという経験が、最近ありますか?
  • 最近、どんな出来事を通して、神の愛を再確認しましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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