(2012年7月1日)
イントロダクション
今回の神さまの呼び名は、ヘブライ語で「
エル・エルヨーン」。「いと高き神」と訳されていて、今回の箇所で4回用いられています。今日も、神さまがどういうお方なのかを学び、それによって私たちの信仰を強めていただきましょう。
1.事件のあらまし
エラム連合軍の侵攻
アブラハム(ここでは改名前で、アブラムという名)の甥のロトは、この当時、アブラハムと別れて、ソドム(今の死海の南岸にあったと思われます)の町に住んでいました。
そのソドムは、ゴモラなど他の4つの町と共に、エラム(今のイラン南西部にありました)の王ケドルラオメルに仕えていましたが、13年目に反逆しました。その報復のため、エラムは、シヌアルとエラサル(いずれも今のイラク)、そしてゴイム(今のシリア)と連合軍を組織して攻め込んできました。
そして、ソドムに住んでいたロトの財産も略奪され、ロト本人も捕虜となって連れ去られてしまいました。
アブラハムによる追撃
ロトを救い出すため、アブラハムは立ち上がりました。奴隷のうち、戦闘訓練を受けていた者たち318人を招集し、さらに同盟を結んでいたエモリ人マムレとその兄弟たちの軍隊と共に、エラム連合軍を追撃します。
そして、戦いに勝利したアブラハムは、略奪された人々や財産を取り返し、ロトも無事に救出しました。
戦いの後の出来事
凱旋したアブラハムを、シャレム(今のエルサレム)の王メルキゼデクが迎え、祝福しました。アブラハムはメルキゼデクに、戦利品の十分の一を献上しました。
また、ソドムの王もアブラハムを迎えに出てきました。彼は、「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」と申し出ました。当時の習慣では、こういう場合、人々もアブラハムのものになるはずですから、かなり図々しい申し出です。しかし、アブラハムは、財産もいらないと言いました。
2.祭司を要求なさる方
祭司
メルキゼデクは、
「いと高き神の祭司」(18節)でした。「いと高き」は、英語訳では「Most High」、すなわち「最も高いお方」「至高の存在」です。
神さまは、私たち被造物とは、比べものにならない、はるかに尊く、高いお方です。ですから、通常は私たち被造物が親しく交わることなどできません。
高貴な身分の人、たとえば皇室の人と面会するなどというのは、一般市民である我々にはおいそれとかなうことではありません。ただ、取り次いでくれる人がいて、その人が口添えをしてくれるとしたら、あるいは面会が可能かも知れません。
いと高き神さまの場合、人間と神さまの間を取り持ってくれるのが祭司でした。
祭司の仕事
祭司は、2つの仕事をしました。
- 人の代理となって神さまに向かって語り、人と神さまの間にある溝を埋めること
- 神さまの代理となって人に向かって語り、祝福すること
です。
メルキゼデクもその2つの働きをしています。19節で、彼は神さまの代理としてアブラハムを祝福しました。また、続く20節では、人の代表として神さまをほめたたえています。
血の犠牲
特に、祭司が神さまと人間の間を取り持ち、溝を埋めるときに行なった大切な行為が、血の犠牲でした。動物を殺して、血を祭壇に注ぎかけ、体を焼くのです。
血の犠牲の意味は、身代わりの死です。本来なら、神さまの要求水準に達することができない我々人間は、交わりを拒否されるどころか、罪ある者として神さまに滅ぼされても仕方ありません。しかし、祭司が身代わりの動物を殺してささげるとき、罪人が死んだと見なされ、罪の責任を問われなくなるのです。
私たちの大祭司
しかし、私たちキリスト教会の礼拝では、動物の犠牲をささげません。なぜでしょうか。
代わりに献金をささげている? いいえ。献金は、動物犠牲の代わりではありません。 献金は、
- 神さまが私たちにたくさんのものを与えて養ってくださっていることへの感謝
- 「これをささげても神さまは養ってくださる」という信仰の表現
- このお金によって困っている人を助けたり、伝道の働きを進めたりするという、奉仕の一つ
としてささげるものです。決して罪が赦されるため、神さまの怒りを鎮めるためにささげるものではありません。
教会の礼拝で動物の犠牲をささげないのは、完全な大祭司によって、完全な犠牲がささげられたからです。完全な大祭司とは、主イエス・キリストです。
「この方については、こうあかしされています。『あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である』」(ヘブル7:17)。
「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:11-12)。
ですから、ヘブル4:14-16では、こう言われています。
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。
あなたは、いと高き方に何を求めますか?
3.アブラハムを富ませる方
詩篇78:35
いと高き神「エル・エルヨーン」という言葉は、今回の箇所で4回用いられている他は、詩篇78:35にしか用いられていません。
この詩篇の中では、出エジプトの出来事が語られています。神さまは、奇跡を引き起こして、イスラエルの民をエジプトから救い出してくださいました。ところが、イスラエルの民は、やれ肉がない、やれ水がないと不平を鳴らし、「こんなことならエジプトにいた方が良かった」などいとつぶやいたり、モーセに詰め寄ったりします。
そこで神さまは、イスラエルの民に教育的指導をなさいました。さばきが起こって、つぶやいた人たちがたくさん死んでしまったのです。すると……
「神が彼らを殺されると、彼らは神を尋ね求め、立ち返って、神を切に求めた。彼らは、神が自分たちの岩であり、いと高き神が自分たちを贖う方であることを思い出した」(詩篇78:34-35)。
ただ、その後もイスラエルは繰り返し罪を犯し、神さまに反逆してしまいます。荒野でのイスラエルの民は、私たち自身の姿でもありますね。
とにかく、「いと高き神」は、私たちを守り、支えてくださるお方です。詩篇はそのことを教えてくれています。
アブラハムを富ませるのは誰だ
アブラハムは、ソドムの王から財産はあなたが取ってくださいと申し出を受けました。これは王に言われるまでもなくアブラハムの権利ですし、捕虜となっていた人々さえ自分の奴隷として手に入れる権利も持っていました。しかし、彼はその権利を自ら放棄しました。
その理由は、
「あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないため」(14節)です。
では、いったい誰がアブラハムを富ませるのでしょうか。富ませるというのは、単に財産が増えるという意味ではありません。健康においても、人間関係においても、家庭生活においても、仕事においても、経済においても、人生のありとあらゆる面において繁栄させてもらうという意味です。
アブラハムは、メルキゼデクによって示されたいと高き神さまが、彼を守り、支え、導いてくださって、人生のあらゆる面において富ませてくださると信じました。だから、ものをため込み、欲望を満たすことで、一時的な喜びや安心を得ようとはしなかったのです。
あなたを富ませるのは?
さて、あなたを富ませるのは誰ですか? あなたもまた、いと高き神さまによって、人生のあらゆる面において祝福をいただくことができます。祝福を受ける鍵は、アブラハムのように、いと高き神さまを信じることです。
まず、ものに固執していた生き方を悔い改めましょう。
ソドムやゴモラの人たちは、アブラハムによって助けられたことで、いと高き神に信頼して生きる人生がどんなに安心かということを知って、欲望やものにとらわれた欲深い生き方を悔い改め、神さまを信じる生き方に悔い改めるチャンスが与えられました。しかし、彼らは悔い改めませんでした。せっかく14章で生き延びた彼らは、19章になると神さまの裁きを受けて滅んでしまいます。
それから、いと高き神さまが私を富ませてくださると告白しましょう。
まとめ
王であり祭司であるメルキゼデクは言いました。
「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より」(19節)。
王の王であり、永遠の大祭司であるイエスさまもおっしゃいます。「祝福を受けよ。○○(ここにあなたの名前を入れてください)。天と地を造られた方、いと高き神より」。
アーメン(その通り)!
あなた自身への適用ガイド
- いと高き神さまは、あなたをあらゆる面において祝福してくださいます。今、特にどのような面における祝福を求めていますか?
- ソドムの人たちは、ものや欲望にとらわれ、欲望を満たすことで幸福感や安心を得ようとしていました。過去や現在のあなたに、思い当たることはありますか?
- アブラハムは、戦利品を手に入れる当然の権利を手放しました。「ものや欲望にとらわれていた自分を悔い改める」とは、あなたにとっては具体的に何を手放すことですか?
- これまでの人生を振り返りましょう。いと高き神さまは、あなたにどんな祝福を与えてくださいましたか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?