(2012年10月14日)
イントロダクション
この詩篇全体は、神さまのことば、神さまの教えがいかにすばらしいかということをほめたたえる内容です。私たちは、この詩篇の記者のように、聖書を読むときに、その心が喜び踊り、多くの慰めや励まし、知恵や勇気を受け取っているでしょうか。もちろんそうだと思いますが、ますますそうなるための秘訣を学びましょう。
1.聖書は喜ばしい
聖書の教えは窮屈?
イエスさまを信じませんかと伝道すると、いろんな反応が返ってきます。その一つは、クリスチャンになると、いろいろ規制が多くて窮屈になるんじゃないかというものです。
確かに聖書の中には、「〜すべし」「〜すべからず」という命令や禁止がたくさんあります。そんなのとても守りきれないし、第一、そんなことを気にしていたら窮屈だというわけです。
蜜のように甘い
ところが、詩篇の記者は、「みことばは、鎖のように私を縛り上げる」ではなく、「蜜のように甘い」と表現しています。
イメージや第一印象と、実体とが異なるということはよくある話ですが、聖書の言葉についても同じなのかもしれません。聖書の命令や禁止を、私たちを縛り上げる鎖ではなく、私たちを元気づけ、喜ばせる愛のメッセージとして読んでみる必要がありますね。
2.愛のメッセージとして読む
シャバットの体験
20年前、イスラエル旅行をした時、金曜日の夜に泊まったホテルで、ユダヤ人の一族20名位の方々が宴会をしていました。聞けば、シャバット(安息日)のお祝いのために、こうして毎週親戚が集まって、食事をし、歌ったり踊ったりして楽しむのだそうです。
安息日は土曜日ですが、ユダヤの伝統的な暦では、一日は日没から始まりますから、日本の暦で言えば金曜日の夕方から安息日が始まるわけです。
それまでの私といえば、
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト20:8)という命令について、あまりいいイメージがありませんでした。「働いてはいけない日」、「引きこもってじっとしていないといけない日」、「楽しいことも何もしてはいけない日」だととらえていたのです。
しかし、あのユダヤ人一家は、実に楽しそうでした。心から安息日を喜んでいるようでした。まさに、目から鱗が落ちる思いでした。
「〜してもいい日」と読み直してみる
あのユダヤ人一家との出会いがきっかけとなり、私の安息日についてのとらえ方が180度変わりました。「〜してはいけない日」ではなく、「〜してもいい日」なのだと視点が変わったのです。
そもそも安息日の命令は、イスラエルの民がエジプトを脱出して、約束の地カナンに向かう途中で与えられました。それまでのイスラエルは、エジプトで奴隷状態にあって、毎日休みなく、何時間も何時間も重労働をさせられていました。しかし、神さまはモーセを解放者として選び、彼を通して様々な奇跡を行なって、ついにイスラエルの民をエジプトから救い出されました。
それから、神さまは安息日の教えを含む律法をイスラエルに授けられました。ですから、安息日規定の前提は、神さまがイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放されたということです。
「あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、【主】が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、【主】は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである」(申命記5:15)。
このように、安息日が制定された理由の一つは、神さまがイスラエルを解放してくださったことを、イスラエルの民が忘れないように、記念とするために定められたものです(別の理由は、神さまが6日間かけて世界を創造し、7日目に休まれたことを記念するためです)。
休みなく働かされていたイスラエルの民にとって、安息日は「働いてはいけない日」ではなく、「働かなくてもいい日」「休んでもいい日」「神さまが救いの神であることを思い出す日」「体も心も霊もリフレッシュする日」なのでした。
今、私たちは週に1〜2日の休みを取るのは当たり前ですが、古代はそうではありませんでした。特に主婦や奴隷たちにとって、安息日の規定はどんなにありがたい教えだったことでしょう。
安息日は、神さまが人間を縛り上げる窮屈な日ではありません。感謝と喜びに満ちあふれた日です。そう考えると、あのユダヤ人一家の喜ばしい光景が納得できますね。
その他の命令も
その他の命令、たとえば「聖書の神以外に神があってはいけない」という教えも、神さまの偏狭を表す命令ではなく、「あなたを恐れさせたり、あなたを束縛したり、祝福の対価としてお金や奉仕を要求するような、偽物の神なんか信じなくていいんだよ。あなたを無条件で、愛しているわたしについておいで」という、愛の語りかけだと言えます。
「偶像を造るな」という教えも、「聖書の神を、人間のイメージに押し込めてはいけない。なぜならば、聖書の神は、あなたが想像しているよりも、もっともっと愛にあふれ、もっともっとすばらしいお方なのだから」ということなのです。
「盗むな」「姦淫するな」といった教えの背後にも、「もう物や快楽によって心を満足させなくても、神さまがあなたの心を満たしてくださいます」という約束が込められています。
聖書のみことばは、私たちを愛してやまない神さまが、私たちを幸せにしたくてたまらなくて、私たちに語られた愛のメッセージなのです。聖書の中に書かれている様々な禁止や命令を読むときには、そのような読み方をしましょう。
3.愛されているから
解釈は読み手の価値観次第
この話をお読みください。
聖書を窮屈な命令の書と取るか、それとも神さまからのラブレターと取るか、それもまた、その人自身の神観や人生観によります。
誰に言われるか
あなたにとって神さまは、どんなお方ですか? 私たちを愛してやまないお方? それとも、リストラの候補を絞り込むために、社員の行動や業績を調査している人事担当者のように、いつも考査表を片手に、眉間にしわを寄せながら、あなたのあら探しをなさる方?
聖書はこう言っています。
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。イエスさまの十字架は、神さまが私たちを愛してやまないお方であるという証拠なのです。
私たちは、同じことを言われているのに、Aさんから言われるのと、Bさんから言われるのとで、素直に従おうという気持ちに差が生じることがあるのではないでしょうか。
この話をお読みください。
私たちが神さまの命令を読むとき、私たちはそうしないで入られてない思いになります。それは、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりになさるほどに、私たちのことを神さまが深く愛してくださっているからです。
しないではいられない教会
私たちの教会は、「すべし」「すべからず」の規則に縛り上げられ、不平不満を必死で押さえ込みながら、表面的にはクリスチャンらしいきよく正しく美しい生き方をしていくような、そんな信仰生活を目指してはいません。心の底から本音で神さまと向き合い、心の底にしみ通るような愛のぬくもりをいただき、心の底から喜んで神さまと共に歩んでいきたいのです。
私たちは、本音の所では、「従いたくない」「従えない」と思ってしまうことがあるかもしれません。しかし、そういう私たちのことを、イエスさまはたまらなくいとおしく思ってくださっています。嬉しいですね。感謝ですね。きよい生き方の原動力、他の人への愛に満ちた行動の原動力、熱心な伝道の原動力は、この感謝と喜びです。
聖書は、神さまからあなたに宛てられたラブレターです。すでにそうなさっておられるように、これからもそういう目で読んでみてください。
まとめ
聖書の言葉は、私たちを縛るためのものではなく、私たちを解放し、励ます愛のメッセージです。もっともっと慕い求めましょう。
あなた自身への適用ガイド
- あなたが、本音の所では「これは従いにくいなあ」と思える聖書の命令は何ですか? どうして従いにくいですか?
- 以前は「従いにくいなあ」と思っていたのに、「従おう」というやる気が生まれた経験がありますか? その変化はどんなきっかけで訪れましたか?
- あなたが「従いにくい」と思う命令を、「許可の言葉」「解放の約束」「愛のメッセージ」として読み直してみると、どんなことに気づきますか?
- 「神さまと本音で向き合う」という言葉を聞いて、どんなことを感じましたか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?