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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

あなたの罪は赦された

マルコによる福音書2章1節〜17節

(2012年12月9日)

参考資料

3節の「中風」は、体の一部が麻痺すること。脳溢血など脳血管障害の後遺症が考えられます。

6節の「律法学者」は、ユダヤの宗教的リーダー。元々律法学者は、モーセを通してユダヤ人に与えられた律法(トーラー)を研究し、ユダヤの民衆に解説し、彼らがそれらを忠実に守るように指導した人々です。

しかし、時代が進むに従って、律法学者たちは律法の教え以外に、様々な細かい規則を作り出し始めました。モーセの律法には、613の規定があると言われていますが、それぞれに対して、何十も、何百も細かい規則を付け加えていったのです。たとえば安息日の律法には、1500以上の細則が付け加えられました。これが後にミシュナと呼ばれる、口伝の律法です。新約聖書では「言い伝え」「伝承」と呼ばれています(マタイ15:2、マルコ7:3、ガラテヤ1:14など)。

律法学者たちが教えていた口伝律法は、神さまが授けたものではないにも関わらず、イエスさまの時代になると、モーセの律法以上に尊ばれ、律法の目的、精神を逸脱したものになっていきました。イエスさまは、モーセの律法は尊び、自ら完璧に実践なさいましたが、口伝律法には明確に反対され、しばしば律法学者や、彼らが属するパリサイ派の人々と激しく対立しました。

イントロダクション

今回は、2つのエピソードを同時に扱います。一つは中風の人がいやされたという記事、もう一つはアルパヨの子レビが弟子に加えられ、彼の家で宴会が行なわれたという記事です。

どちらも、イエスさまと律法学者との会話が記されています。そこから、イエスさまが私たちの幸せのために何をしてくださったのか、そして私たちがそれにどう応答すれば、その幸せを手にすることができるのか学びましょう。

1.中風の人のいやし

律法学者たちのつぶやき

今回の箇所に登場する律法学者たちの一部は、エルサレムから来ていました(ルカ5:17)。サンヘドリンというユダヤの最高議会から派遣されて、ナザレ村の大工だったというイエスという人物が、聖書が約束しているメシヤ(救い主、キリスト)その人なのか、単なる人間に過ぎないのかということを判断するための調査をするためでしょう。

サンヘドリンによるメシヤ調査の第一段階では、調査員は調査対象者と直接言葉を交わすことは禁じられていました。ですから、今回の箇所で彼らは心の中でつぶやくだけで、イエスさまに対して直接声をかけていません。

どちらがやさしいか

さて、イエスさまは、天井からつり下げられてきた中風の人に向かって、「あなたの罪は赦された」とおっしゃいました。

それに対して、律法学者たちは、「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」と、心の中でつぶやきました。この認識自体は正しいものですね。

問題は、罪の赦しを宣言したこのイエスが、単なる人間に過ぎないのに神であるかのように語っているのか、神が人となられたメシヤなのかという点です。律法学者たちは、イエスさまは単なる人間に過ぎないと判断しました。ですから「神をけがしているのだ」と心の中でつぶやいたのです。

イエスさまはその心のつぶやきを見抜き、こう言いました。「中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか」。
結局、どっちがやさしいの?
さて、あなただったらどちらがやさしいです? 私なら、もちろん「あなたの罪は赦された」と言う方が簡単です。

「起きて、寝床をたたんで歩け」と言ったとしたら、結果が明確に判定されます。いやされれば○、いやされなければ×。誰の目にも明らかですね。それに対して、罪の赦しは目に見えませんから、誰も結果について○×の判断を下すことができません。たとえ失敗したとしても、失敗を指摘され、非難されることがありません。

あなた方に知らせるために

イエスさまは、言葉で罪の赦しを宣言するよりも、いやしを宣言する方が難しいということを、そこにいる人々(特に律法学者たち)に確認しました。そうしてから、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」と言って、中風の人を言葉一つでいやされました。

ここで使われているのは、次ような論理です。
難しい問題が解けるなら、簡単な問題は解けるはずだという論理
高校の微分積分の問題が解ける人は、小学校の足し算の問題は当然解けるはずですね?

この論理を使って、イエスさまは「わたしは、より難しいいやしを行なうことができたのだから、それより簡単な罪の赦しだってできると考えるのが当然だろう?」とおっしゃっているのです。

今回のエピソード、すなわち中風の人のいやしで注目したいのは、イエスさまがこの人個人の体の苦しみを取り去ってくださったということだけではありません。このエピソードの強調点は、「イエスさまは、私たち人間の罪を赦すことができるお方である」ということです。第一のポイントでは、それを確認しておきましょう。

2.マタイの召命と宴会

取税人

それからしばらくして、イエスさまは取税人であるアルパヨの子レビという人物に声をかけました。この人は、後に十二使徒の一人に選ばれ、福音書の一つを書くことになるマタイのことです(マタイ9:9)。

この当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあって、ローマに様々な税を納めなければなりませんでした。そのお金を人々から取り立てたのが収税人です。取税人だったマタイは、カペナウムの取税所で働いていました。町を出入りする人々から通行税を徴収していたのでしょう。

税を徴収する取税人は、ユダヤ人の中から選ばれました。そこで、敵にしっぽを振る犬として、他のユダヤ人からは嫌われていました。その上、規定以上に取り立てをして裕福になる取税人が多かったので、罪人の代表として忌み嫌われていたのです。

律法学者たちの発言

ここにも律法学者たちが登場します。彼らは、引き続きイエスさまがメシヤかどうかを調査していました。そして、「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか」と弟子たちに向かって尋ねています。

前回はつぶやくだけでしたが、今回は質問をしていますね。これは、サンヘドリンによるメシヤ調査が、第二段階に入ったということです。第二段階の調査員は、調査対象者や関係者に直接質問をすることを許可されました。

とにかく、彼らはこう考えました。「もしもイエスという人物がメシヤであるならば、罪人の代表のような取税人を弟子として選び、さらに食事まで一緒にするはずがない」と。

これに対して、イエスさまはこうお答えになりました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」。

旧約聖書を素直に読めば、メシヤは悪人を滅ぼして理想的な神の国(天の御国)を地上に建設するだけでなく、罪人の身代わりとして苦しみを受け、罪人の罪を赦し、神さまとの関係を回復してくださるお方だと理解できます。だからこそ、メシヤであるイエスさまは罪人を頭から非難して拒否するのではなく、罪人のところに行き、彼らと語り合い、彼らに罪が赦され、神さまとの関係が回復し、神さまと共に新しい人生をスタートし、やがて神の国に入ることができるということを訴えました。

しかし、律法学者たち、聖書そのものではなく、人間の伝統によって作り上げられた様々な口伝律法の方を重んじるようになった彼らは、そのようなメシヤ理解ができなくなっていました。自分たちは口伝律法を守っているから正しい。そう思っていました。そして、メシヤは、正しい人だけを救うお方だと思い込んでいたのです。

医者を求めた病人マタイ

一方、マタイはどうだったのでしょうか。

彼はお金持ちでした。しかし、孤独でした。街のみんなからさげすまれ、嫌われ、神に呪われていると罵倒されてきました。集まってくるのはお金目当ての人たちばかりで、本当の友人なんかいません。

寂しさや罪責感を紛らわせるために、お金を使ってどんちゃん騒ぎをしたことでしょう。その時は楽しくて、気が紛れたかもしれませんが、宴会が終わって一人になった時、いいようもないむなしさが心を覆い尽くします。

こんな人生はもう嫌だと何度も思ったかもしれません。ところが、どうしても生き方を変えることができません。一時的とはいえ、彼の気を紛らしてくれるものは、取税人として働いて得たお金以外にないのですから。彼は、自分が霊的な病人、しかも不治の病であることを自覚していました。

しかし、イエスという人物が現れ、彼に声をかけます。「私についてきなさい」。多くの人々が行き交う場所で働いていたマタイは、カペナウムやガリラヤの各地で活動していたイエスさまのことを、これまで何度も耳にしていたはずです。直接説教を聞いたこともあったかもしれません。そしてマタイは、イエスさまの中に自分の人生を根本から造り変える希望があることを感じ取りました。

このお方は、体の病気をいやされるだけでなく、自分のような霊的な病人の病、すなわち罪の問題をも解決してくださるまことの医者だ。マタイはそう信じたのです。

そこで、すぐに何もかも捨ててイエスさまに従っていきます。かつて漁師だったペテロたちも、船と網と家族を捨ててイエスさまに従っていきましたが、万が一の時にはまた元の仕事に戻ることができます。ところが、取税人を辞めたらもう二度と戻ることはできません。背水の陣です。マタイは、イエスさまに自分の全生涯をかけたのでした。

そして、神さまと共にある新しい人生の希望をいただいて、あまりにも嬉しかったので、イエスさまを招いて宴会を開きました。しかし、これはもう、寂しさや罪責感をごまかすための宴会ではありません。心の底から喜んで開かれた宴会です。ですからイエスさまも喜んでそこに参加し、すでにイエスさまに従っていた罪人たちも参加したのでした。

この第二のポイントで確認したいのは、「罪の赦しを求め、それを受け取ることができるのは、自分が罪人であることを自覚し、イエスさまに解決を求める人である」という点です。

3.信仰によって救われる

2組の共通点

中風をいやしていただいた人と、解放されたマタイに共通するのは何でしょうか。それは、
  1. 彼らが罪の赦しを受け取ったということ
  2. その祝福をもたらしたのが信仰だということ
です。

イエスさまが中風の人に罪の赦しを宣言なさったのは、「彼ら(病人と4人の友だち)の信仰を見て」のことです(5節)。マタイもまた、自分が罪人だと自覚し、イエスさまがその解決策をお持ちだと信じました。

私たちに求められていること

私たちもまた彼らと同じように、「イエスさまは罪を赦される」ということを信じることが期待されています。

聖書には、信者に対する多くの祝福が約束されています。しかし、どれもこれも、まずは私たちと神さまとの関係が回復しているということが前提の約束です。どんなにすばらしい祝福が約束されていたとしても、神さまが私たちを敵だと思っておられたとしたら、何の意味もありません。それどころか、恐ろしいことですね。

また、神さまの側では私たちを赦し、愛してくださり、すばらしい祝福の約束を実現しようとしておられたとしても、私たちの側がそれを信じていなければ、祝福を受け取ろうとしませんし、かつてのマタイのように毎日が不安や不満でいっぱいのままでしょう。

チェックしてみよう

自分自身に向かって、次の質問をしてみましょう。
  • あなたは、自分が罪人で、人生の中に起こってくるいろいろな問題の根本原因が罪であること、すなわち神さまに逆らっているために、神さまとの関係がおかしくなっていることだと自覚していますか?
  • そして、イエスさまはあなたの罪を赦す権威を持っておられることを信じていますか?
  • また、イエスさまの十字架の死と復活のおかげで、神さまはあなたの罪を完全に赦してくださり、あなたを神さまの子どもにしてくださり、聖書に約束されている様々な祝福をあなたに与えようとしてくださっているということを信じますか?
ここが私たちの信仰生活の土台であり、幸せな人生の土台です。そこで、サタンはものすごい力で攻撃して、いつも罪の赦しの確信を揺るがそうと狙っています。おかげで、神さまがついているから大丈夫だという確信が奪い取られて、ちょっとしたことで意気消沈したり、振り回されたりしてしまったり、以前のマタイのようにつまらないもので気持ちを紛らわせるような生活に戻ってしまったりします。

プロのアスリートは、基本を大切にし、いつも基本を確認します。特にスランプの時にはそうです。私たちも、いつもこの基本、すなわちイエスさまのおかげで罪が赦されているというところに戻りましょう。

折に触れて、何度も何度も確認しましょう。そして、だから大丈夫だと自分を励まし、他のクリスチャンを励まし、まだイエスさまを知らない人たちにも伝えましょう。

まとめ

イエスさまはあなたの罪を赦してくださいました。ですから、祝福はあなたのものです。大丈夫です。

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