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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

愛に満ちたさばき主

マタイによる福音書12章14節〜21節

(2018年1月7日)

参考資料

14節の「パリサイ人」は、ユダヤの宗教的グループであるパリサイ派に属する人々。モーセの律法以外に、たくさんの細かい戒律(ミシュナ。福音書では「言い伝え」と呼ばれています)を作って、これを守るよう民衆に教えていました。イエスさまはモーセの律法は完璧に守られましたが、言い伝えは全く無視していたため、パリサイ人はイエスさまを救い主だと認めたくありませんでした。

17節の「イザヤ」は、紀元前7世紀半ばから50年ほど活躍した預言者(神さまの言葉を取り次ぐ使命を与えられた人)です。

18節の「異邦人」は、ユダヤ人以外の民族のこと。当時、異邦人のほとんどはまことの神さまを知らず、偶像を拝み、自分の欲望や考えを最優先にして生きていました。

イントロダクション

イエスさまは、紙が人となってこられたお方です。そして、人としてのイエスさまは、私たちのモデルです。今年私たちが模範としたいイエスさまのご性質や言動は何でしょうか。

1.愛にあふれた救い主

誰にも言うな

今回の前の箇所で、イエスさまは片腕の動かない人をいやされました。ところが、それは安息日の出来事でした。パリサイ人は、安息日には人をいやしてはいけないという、モーセの律法には海底ないような戒律(ミシュナ。言い伝え)を作っていました。そこで、言い伝えを無視するイエスさまのことを、パリサイ人たちは救い主だと認めず、それどころか殺す計画まで立て始めました(14節)。

ところが、多くの群衆がイエスさまの後についていきました。イエスさまが多くの奇跡をなさっていたからです。そして、イエスさまも彼らの病気や障害をいやされました。しかし、イエスさまはここで不思議なことをなさいます。「そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた」(16節)。

もしも、イエスさまが人々にご自分を救い主だと信じて欲しいのなら、むしろ積極的に奇跡を宣伝するようお命じになったはずです。実際、多くの新興宗教では、いやしや社会的成功などを宣伝して人々を集めようとします。それなのに、イエスさまは逆に、宣伝しないようお命じになっています。今回だけでなく、これまでもイエスさまは同様の命令をなさっています(8:4、9:30)。

マタイは、これについて、イザヤが語った預言の言葉が成就したのだと言いました。18-21節で引用された預言は、救い主について語られていますが、19節には「彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない」とあります。

聖書は、イエスさまがなさった奇跡のことを「しるし」と呼んでいます。イエスさまが救い主だということ、そして救い主が王として君臨する理想的な王国、神の国(天の御国)がいよいよ実現しようとしているということを証明する奇跡だからです。

しかし、イエスさまは奇跡を宣伝効果を狙って大々的に行なわれたわけではありませんでした。結果として、多くの人々がイエスさまを救い主だと信じましたが、イエスさまご自身は、目の前の一人の人の苦しみをご覧になり、その人をあわれみ、「苦しみから解放してやりたい」という愛の思いによっていやしを行なわれたのです。

19節はそのことを表しています。そしてそれは、20節の言葉にも表れています。

傷んだ葦を折らない

「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで」(20節)。

葦は柔軟で丈夫な植物なので、様々な用途に使われました。かごなどの工芸品のほか、それで舟を作ることもありました。しかし、傷ついてしまった葦はすぐに折れて使い物になりません。また、灯芯とはランプの芯のことですが、くすぶるって燃え上がらない灯芯は役立たずどころか、ススが出てかえって迷惑な存在です。しかし、そんな痛んだ葦やくすぶる灯芯を、救い主は見捨てないとイザヤは預言しました。

ところで、皆さんは時代劇が好きでしょうか。時代劇にもいろいろなものがありますが、やっぱり人気なのは勧善懲悪ものです。人気の時代劇には、毎回同じパターンが出てきます。
「予の顔、見忘れたか?」 カーン!
「この紋所が目に入らぬか!」 カカーン!
「この金さんの桜吹雪、見忘れたたぁ言わせねぇぞ!」 カカカカーン!

陰で悪事を働く大悪党どもを、現役将軍だの、先の副将軍だの、町奉行だのという権威者が痛快に裁くシーンは、なんだか胸がすっとします。

まあ、現実にはそんなのあり得ないと思うからこそ、せめてドラマの中にそれを求めるのかもしれません。それだけこの世は矛盾に満ちており、正直者が馬鹿を見るような世界です。

しかし、旧約聖書の預言書や黙示録などを見ると、最後にはイエスさまがこの世のすべての悪を裁き、滅ぼしていてくださると書かれています。「このイエっさんの釘のあと、見忘れたたぁ言わせねぇぞ!」と、たんかをお切りになるかどうかは知りませんが、胸のすくような「おさばき」を期待することができます。

福音書の時代、イエスさまを救い主だと信じたユダヤ人はたくさんいましたが、指導者たちや大多数の民衆は、信じませんでした。次回詳しく申し上げますが、指導者たちは「イエスは救い主ではない」と公式に決定していました。イエスさまは、ご自分を信じないこの世をあっという間に滅ぼし、正義を実現なさることもおできになりました。

しかし、イエスさまはその後2000年近くも最後のさばきを先送りにしておられます。そして、ずっとまことの神さまのことを忘れ、自分勝手な生き方をしてきた私たち異邦人にも、ご自分を信じるチャンスを与え続けてくださっています。「彼は異邦人にさばきを告げる」(18節)。

「さばき」(新改訳2017)という言葉を、新改訳第3版は「公義」、口語訳と新共同訳は「正義」と訳しています。何が善で何が悪かをお決めになるのは神さまですし、それに基づいて罰を加えたり報酬を与えたりなさるのも神さまです。ですから、「さばき(公義、正義)を告げる」という言葉は、罪人に永遠の刑罰を与えるというだけでなく、罪の赦しを受け取って救われた人に永遠の祝福をもたらすという意味でもあります。

ですから、イエスさまを救い主と信じた人、すなわちイエスさまのおかげで自分の罪がすべて赦され、神さまとの関係が回復したと信じた人は、たとえ神の民ユダヤ人でない異邦人であっても、神の国に招待され、永遠の祝福をいただくという希望があります。ですから、イザヤの預言もこう語っています。「異邦人は彼の名に望みをかける」(21節)。

また、新約聖書もこう宣言しています。「神は言われます。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける』。見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(第2コリント6:2) 。

水戸黄門などを観て痛快に思うのは、自分を悪人グループの外に置いているからです。「神がいるならなぜこんな悪が世の中にあるのか。なぜ神は、すぐに悪を取り除かないのか」と、そう言う私は、間違いなく自分を悪人ではないと考えています。

イエスさまはいつでも「聖霊印の紋所」を、神さまに従おうとしない人たち、神さまに信頼しようとしない人たちに突きつけることができます。いつか恵みの時は終わり、最後のさばきがやってきます。しかし、その日が来るまでイエスさまは待っておられるのです。一人でも多くの人がイエスさまと出会い、罪を赦し、新しい命を与えてくださる救い主だと信じるようになることを。

では、ここから私たちが学ぶべき教訓は何でしょうか

2.イエスの愛に学ぼう

人に対しての愛

有島武郎(ありしまたけお)という明治から大正時代に活躍した文学者が、「愛は惜しみなく奪うものだ」という言葉を残しています。一方、ロシアの文豪トルストイは「愛は惜しみなく与える」と言いました。聖書は、トルストイの言葉の方を支持しているように思われます。

イエスさまは、人をご自分の目的のために利用しようとはなさいませんでした。イエスさまは、目の前の一人の人を大切になさいました。それが、「誰にも言うな」という命令に込められています。

そして、人の罪を赦して永遠の刑罰から救い、それどころか神さまの子どもとして永遠に祝福するために、ご自分の命さえ惜しまずに差し出されました。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マルコ10:45)。

奪う愛と与える愛の違いについて、私は結婚式でこんなふうに解説しています。奪う愛というのは、「この自分が幸せになるために、相手に何をしてもらえるだろうか」と考える態度のことです。別にそれがいけないわけではありません。わざわざ不幸になるために結婚するのはおかしな話ですものね。しかし、この思いが強すぎると、相手に対して「まだ足りない。何もしてくれない」と不平不満が生まれてしまいます。

一方、与える愛というのは、「相手が幸せになるために、この自分に何ができるだろうか」と考える態度のことです。そうすると、相手が喜んでくれればうれしいし、相手がしてくれるほんの些細な親切も、とてもうれしく感じます。不平不満ではなく、感謝と喜びが生まれるのですね。

あなたはどちらがいいでしょうか。イエスさまを信じる私たちは、与える愛、相手が本当に幸せになるために、自分にできることは何かということを考え、それを実践していきましょう。もちろん、相手の本当の幸せが目的ですから、手助けすることが相手のためにならない場合には、手を出さずにじっと見守ることも愛です。

自分に対しての愛

しかし、愛すべき対象は他人だけではありません。イエスさまは、あなた以外の人のためにいのちを投げ出してくださいましたが、あなたのためにも死んでくださいました。イエスさまが命がけであなたのことを愛してくださっているのであれば、あなたもあなた自身を大切にしなければなりません。

しかし、何だか自分が愛せないときもありますね。

葦は杉の木のようにしっかりと立っておらず、ちょっと風が吹いただけで、右に左に揺れ動きます。しかも、傷がついていれば、ほんの少しの風でもぽっきりと折れてしまいそうになるでしょう。それと同じように、私たちも、ほんの少しの問題がやってきただけで、今にも折れてしまいそうな精神状態になる時があります。「神さまがついているから、何があっても大丈夫」。頭ではそう納得していても、私たちの心は振り回されてしまうことがありますね。感動も喜びも失い、賛美や感謝の代わりに、不平不満や八つ当たりの言葉が口から出てしまうこともあります。私はそんな自分が嫌いです。

また「くすぶる灯芯」とあるように、今ひとつ情熱に欠けたような鬱々とした気分に毒されることもあります。愛の炎がパーッと燃え上がり、周りの人々を照らして、「ああ、この人はさすがクリスチャンだ」と分かるというよりも、よーく見ないと、そこに火が残っていることすら分からないような状態で毎日を過ごす、ということもあります。私は、そんな自分も嫌いです。

しかし、イエスさまはそんな痛んだ葦を折らず、くすぶる灯芯を消すこともなさいません。イエスさまは、私たちが神さまに信頼し、神さまが喜ばれる生き方をし、喜びや感動や希望に満ちた人生を送るようになることを期待してくださいました。そして、それが実現する日まで、イエスさまは最後まで私たちのことをあきらめずに、期待し続けてくださっています。

この点で、私たちは、何度も何度もイエスさまを失望させてきたのではないでしょうか。私たちはイエスさまの期待を裏切って、何度も何度も自分勝手な行動をしたり、神さまが喜ばれない思いを抱いたりしてきました。少なくとも私はそのような人間です。もう、いい加減、さじを投げられても仕方がない者です。しかし、イエスさまは私をあきらめておられません。

ですから、私たちも、時々でいいから、「イエスさまは私たちのことをあきらめていらっしゃらない」という事実を、思い出したいものです。21節の望みといただいた異邦人とは私のことであり、あなたのことです。あきらめの悪いイエスさまに望みを抱きましょう。すると、そのたびごとに、私たちの葦の傷はいやされ、くすぶっていた炎が大きく燃え上がります。礼拝は、そして日々の聖書の学びや祈りは、決してあきらめないイエスさまの愛を思い出すためにあります。

そのようにして、自分自身をあきらめない態度が身につくに従って、他の人のこともあきらめずに期待し続け、愛し続ける力が養われていくことでしょう。

まとめ

イエスさまが自分を愛してくださっているように、自分や他の人のことを愛し続けましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 一人の顔を思い浮かべましょう。その人が本当の幸せを味わうために、今週あなたにできることが何かありますか?
  • ご自分が、折れた葦、くすぶる灯芯のようだと感じることがありますか? それはどういう理由からですか?
  • イエスさまは、決してあなたを捨てないというメッセージを聞き、どんなことを感じましたか?
  • あなたがあなた自身をあきらめないために、今あなた自身にしてあげられることが何かありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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