本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

真剣に、しつっこく

マタイによる福音書15章21節〜28節

(2018年3月4日)

参考資料

21節の「ツロ」は、ガリラヤ湖の北岸にあるカペナウムから、北西に45キロほどの所にある、地中海沿岸の都市です。「シドン」は、ツロから沿岸沿いに北に40キロ行った所にある都市です。いずれも異邦人の町です。

22節の「カナン」は、パレスチナ全体を指すことが多いですが、ここではシリア、パレスチナの地中海沿岸地帯(特にフェニキア地方)を指します。

22節の「ダビデの子」は、ユダヤ人が登場を待ち望んできた救い主のことを指します。この女性は異邦人ですが、聖書の神さまを信じていたわけです。

イントロダクション

今回登場するのは、ユダヤ人ではない外国の女性です。この女性はイエスさまからほめられたばかりか、悪霊につかれて苦しんでいた大切な娘をいやしていただきました。ここから、祈りの極意を学びましょう。

1.自分の問題として祈る

私をあわれんでください

イエスさまの冷たい態度や言葉の意味については、後ほど詳しくお話ししますが、とにかくイエスさまは、カナン人の女性を無視したり、冷たい言葉を投げかけられたりなさいました。

ところが、この女性は、イエスさまに冷たくされても、途中で諦めることなく願い続け、ついに娘をいやしていただくことができました。どうしてそんなことができたのでしょうか。それは、それだけ真剣だったからです。そして、その真剣さは、彼女が娘の問題を自分の問題として捉えていたところから生まれています。

「問題」というのは、誰が悪いかということではなく、誰が困っているかということです。

今回、悪霊にとりつかれて苦しんでいたのは、母親ではなく、娘ですね。しかし、この母親は「私を」あわれんでください、「私を」助けてくださいと訴えています。他人の問題を、自分の問題としてイエスさまに助けを求めているのです。「娘も苦しんでいますが、私も苦しんでいます。娘を癒やしていただくことが、この私をいやすことになります。どうか私を助けてください」ということです。これが、諦めずに願い続ける力を生み出しました。

逆のケースに注意

他人の問題を自分の問題として捉えて助けを求めるということを申し上げたわけですが、私たちはしばしば、その逆のパターンに陥ることがあるので注意が必要です。すなわち、本来は自分自身の問題なのに、他人の問題のように捉えてしまうということです。そうすると、問題を解決することができなくなります。

例を挙げた方が分かりやすいですね。ある小学生の子どもが登校を渋るようになりました。お母さんはすっかり気が動転してしまって、何とか子どもを学校に行かせようと、口うるさく関わりました。学校に行かなくなった子どもを無理矢理行かせることが効果的なケースもありますが、すべての子どもに当てはまるわけではありません。この子の場合は、学校に行かないことを責められることで、ますます自信をなくして、学校に行くエネルギーを奮い立たせることができなくなっていきました。こうして、完全に自室に引きこもってしまうようになりました。

学校に行く、行かないというのは、本来子どもの問題です(繰り返しますが、悪いという意味ではなく、困っているという意味です)。しかし、お母さんも困っています。それは、
  • 大切な我が子がこのまま学校に行けなければ、将来必ず不幸になる。そう思って不安になっているということです。
  • 子どもが学校に行けなくなったのは、自分の子育てが間違ったせいではないか、自分は親として失敗者なんじゃないかという不安や罪責感が生じたということです。
その、自分自身が抱えている不安や罪責感が見えていれば、このお母さんは自分の不安を解消するための手当をすることができます。そうすれば、もう少し余裕を持ってお子さんに接することができるでしょう。

自分の助けを求めた

カナン人の女性は、娘の問題を自分の問題と捉えました。それは、自分の問題と娘の問題を混同しているのではありません。娘が抱えている問題が何で(娘が何に苦しんでいるのか)、娘の問題によって引き起こされた自分自身の問題が何か(自分がどうして苦しんでいるのか)、それがしっかり見えていました。

愛する大切な娘が悪霊によって苦しんでいるのを見て、この女性は母親として悲しみました。苦しみました。助けてあげられない自分をふがいなく思いました。だから、「私をあわれんでください」とイエスさまに申し上げたのです。

自分の助けを求めるというのは、他の人の必要のためにとりなしの祈りをしてはいけないという意味ではありません。私たちが他の人のためにとりなしの祈りをする際、自分自身の痛み、苦しみ、不安、悲しみとして祈るということです。そうするなら、とりなしの祈りは、より大きな力を発揮します。

2.真剣に祈る

他に助けなし

この女性は必死で願いました。どんなにイエスさまに冷たくされても、弟子たちにうるさがられても、決してイエスさま一行のあとを離れず、叫び続けました。それは、今このチャンスを逃したら、もう二度とイエスさまに会えないだろうし、他に娘を助ける手段がないことを知っていたからです。それが、真剣さ、しつこさを生み出しました。

大切なのは、大声で叫ぶ祈りをするかどうかではなく、必死に願うということです。

イエス以外の保険

私たちは、イエスさま以外に保険をかけていないでしょうか。ここで言う保険というのは、金融商品としての保険のことではありません。イエスさまに祝福してもらえたらうれしいけれど、ダメでもまあ、他の手があるさと、心のどこかで「別の救い主」を用意していないかということです。

私の母教会の牧師夫人が、あるときこんなメッセージを語られました。「祈りが聞かれないのは、私たちの信仰が弱いからではありません。逆に私たちが強すぎて、本当は神さまを必要としていないからなのではないでしょうか」と。

八方ふさがりは奇跡の入り口

このカナン人の女性には、イエスさましか希望が残されていませんでした。娘を助けるため、きっとこれまでもいろいろ手を尽くしてきたことでしょう。医者に連れて行き、拝み屋さんのような所にも連れて行き、それでもダメだったのです。八方ふさがりです。

しかし、そこに救い主だと噂されているイエスさまがやってこられました。彼女にとっては最後の希望でした。だから、多少冷たくされても、それで諦めるわけにはいかなかったのです。何日でも、何週間でも、何ヶ月でも、イエスさまが分かったと言ってくださるまで、あとをついて行って、願い続ける覚悟でした。

皆さんも、八方ふさがりでどうしようもないという状況に置かれることがありませんか? それでも、どんなときでも、上は開いています。八方ふさがりの時は、いよいよ真打ちであるイエスさまが登場する番です。あなたにもイエスさまがついておられます。だから、どんなときにも大丈夫です。

3.愛に期待して祈る

イスラエルの家の失われた羊たち

イエスさまは、カナンの女性の願いに対して、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」とお答えになりました。イスラエルの家の失われた羊たちというのは、まことの救い主を信じていないユダヤ人のことです。

さらに願い続ける彼女に対して、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」とおっしゃっています。子どもたちというのはユダヤ人で、小犬はユダヤ人ではない民族、異邦人のことです。

これらの、一見ひどい言葉の意味を理解するには、神さまがお立てになった「人類救済計画の基本路線」を理解する必要があります。

罪のために、人類は神さまから切り離されました。しかし、神さまは人類を深く愛しておられるので、さばきを下して滅ぼしたくはないと思われました。そして、人の罪を取り除き、神さまと人との関係を回復する、人類救済計画をお立てになりました。

その計画に基づいて、神さまはアブラハムという一人の人物を選ばれます。そして、彼とある契約を結ばれました。それは、神さまがアブラハムとその子孫(ユダヤ民族)を大いに祝福するという約束、そして、ユダヤ民族を通して、すべての民族、すなわち全人類を祝福するという約束です。

「【主】はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される』」(創世記12:1-3)。

ユダヤ人は、自分たちが神さまに信頼し、神さまに大いに祝福されている姿を見せ、言葉で説明することによって、神さまを知らない異邦人に神さまを紹介する使命が与えられているということですね。

ところが、代々のユダヤ人たちは、自分たちの使命を忘れてしまい、神さまを無視して自分勝手な生き方をすることがしばしばでした。そのくせ、自分たちユダヤ人は神に選ばれた優れた民族で、それ以外の人々(異邦人)は神に呪われているというふうに考える人たちが出てくるようになりました。イエスさま時代のユダヤ人の多くも、そう考えていたのです。

これでは、人類救済計画は、なかなか進展しません。そこで、神さまは、多くの預言者を送って、ユダヤ人たちにアブラハム契約の使命を思い出させようとなさいました。しかし、ほとんど理解されなかったのです。

そういうわけで、イエスさまも、人類救済計画を進めるに当たって、最初にユダヤ人の信仰を立て直すところからお始めになりました。

最初にイエスさまに従った弟子たちはみんなユダヤ人でしたし、初期の教会のメンバーも、ほとんどがユダヤ人でした。それから、ユダヤ人のクリスチャンを通して、異邦人がイエスさまを信じるようになり、やがてイエスさまを信じる信仰は、世界中に広がっていくようになりました。そして、今も広がり続けています。

使徒パウロは、異邦人に伝道することを使命としていた伝道者ですが、彼も新しい町に入ったときには、まずユダヤ人の会堂を探して、そこでメッセージを語るところから伝道活動を始めました。「まずユダヤ人の回復。そしてユダヤ人を通して、異邦人がまことの神と出会う」というのが、救いの基本計画だからです。

そんなの意味がない

ですから、今回の箇所でも、イエスさまは決して異邦人を軽蔑したり差別したりしているわけではありません。

しかし、そのような神学的な理屈は、今まさに娘が悪霊によって苦しんでいる母親にとっては、まったく意味がありません。要するに「あなたの娘は治してやらない」と、冷たく拒否されたのと同じですね。

それでも、この女性は願い続けました。それは、表面的には冷たく見えても、イエスさまは決して冷たい方ではないということを信じていたからです。「イエスさまは、必ずこの私をあわれんでくださって、私の大切な娘を助けてくださる。イエスさまはそういう愛の方だから」というふうに、この女性はイエスさまの愛に、希望を置いていました。

「小犬でも、主人の食卓から落ちるパンくずはいただけるではありませんか」という言葉は、パンくず程度のものでも、娘をいやすには十分であるという、イエスさまの力への信頼の表れであると同時に、「まして、あなたが私をお見捨てになるはずがありません」という、イエスさまの愛に対する強い確信と信頼が込められています。

そこでイエスさまは感動なさいました。「ああ、あなたの信仰はなんて立派なんだろう!」と。

信頼に基づく祈り

祈りには、信仰が必要です。信仰とは、すなわち神さまへの信頼です。神さまの力を信頼するのは当然ですが、その愛にも信頼を置きましょう。

神さまはあなたを愛しておられ、あなたを良いもので満たそうとしておられます。神さまは最善以外のことをあなたになさることはありません。そのことを信じますか? たとえ、神さまがあなたの祈りになかなか答えてくださらなかったとしても、それでも信じ続けますか?

神さまがあなたを愛しておられるのなら、あなたの祈りがなかなかかなえられないことにも、必ず意味があるはずです。神さまは、もっと別の助けを用意しているのかもしれません。最高のタイミングを待っておられるのかもしれません。あなたの忍耐力を鍛えておられるのかもしれません。

たとえ、その意味が今は分からなくとも、神さまの愛を信じて祈り続けましょう。

まとめ

カナン人の女性のように、イエスさまの愛と力を信じて、真剣に、しつこく、祈り続けましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 他の人の問題なのに、それに振り回されてはいなかったでしょうか。他の人の問題によって引き出された、あなた個人の問題は何ですか?
  • 「イエスさま以外の保険」ということで、何か思い当たることがありますか?
  • かなえられなかった祈り、長く待たされた祈りによって、何か大切なことを学んだということがありますか?
  • 祈りがなかなかかなえられないとき、神さまの愛を疑ってしまいそうになったことがありますか? あるとしたら、どうやってそこから抜け出しましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com


guests have visited here
since July 15th, 1999.