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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

初穂としての復活

コリント人への第一の手紙15章12節〜23節

(2018年4月1日)

参考資料

18節の「キリストにあって眠った者たち」とは、死んだクリスチャンのことです。

20節、23節の「初穂」とは、それぞれの農作物のうち、その年最初に収穫したものです。

イントロダクション

3月11日のメッセージで、モーセの律法が毎年行なうよう定めている7つの例祭は、キリストによって与えられる救いのプロセスを表しているという話をしました。今回は、3番目に行なわれる祭りである、初穂の祭りとイエスさまの復活の関係について見ていきましょう。

1.初穂の祭り

祭りの意味

「初穂の祭り」とは、大麦の初穂(それぞれの農作物のうち、その年最初に収穫したもの)を神殿に献げる祭りです。モーセの律法の中に定められた7つの例祭の3番目です。

「【主】はモーセにこう告げられた。『イスラエルの子らに告げよ。あなたがたがわたしが与えようとしている地に入り、収穫を刈り入れたなら、収穫の初穂の束を祭司のところに持って行きなさい。その束は【主】の前で揺り動かす。あなたがたが受け入れられるためである。祭司は安息日の翌日、それを揺り動かさなければならない。あなたがたは、束を揺り動かすその日に、【主】への全焼のささげ物として傷のない一歳の雄の子羊を献げる。その穀物のささげ物は油を混ぜた小麦粉十分の二エパであり、【主】への食物のささげ物、芳ばしい香りである。その注ぎのささげ物はぶどう酒で、一ヒンの四分の一である。あなたがたは、神へのささげ物を持って行くその日まで、パンも炒り麦も新穀も食べてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても代々守るべき永遠の掟である』」(レビ23:9-14)。

初穂というのは、このあと同じ作物が続けてどんどん収穫されることの保証になっています。ですから、初穂の祭りは、大麦の収穫はこれで終わりではなく、このあとも豊かに収穫が続くことを、神さまに先取って感謝するという意味があります。

ユダヤ暦第1月の14日には、毎年出エジプトの奇跡を記念する過越の祭りが行なわれました。この日、人々は子羊をほふり、その日の夕食に各家庭で過越の食事をしました。そして、翌朝9時には、神殿で子羊がほふられ、祭壇に血が注がれます。ところが、初穂の祭りは、日付が決まっているわけではありません。この祭りは、過越の祭りの直後の安息日の翌日、すなわち日曜日に行なわれました。

イエスさまが十字架にかかったのは、過越の祭りで子羊が神殿に献げられるのと同じ日時でした。紀元30年のことです。その年は金曜日がそれに当たる日でした。ですから、英語でイエスさまが十字架にかかった日(受難日)のことを、グッド・フライデーと呼びます。

そして、その年の初穂の祭りは、その翌々日の日曜日に行なわれました。イエスさまは、この日に復活なさったのです。ですから、初穂の祭りは、イエスさまの復活を関連付けることができます。

初穂としての復活

事実、新約聖書はイエスさまの復活を「初穂」と呼んでいます。そして、大麦の初穂が収穫されると、そのあと測りきれないほど多くの大麦が実って収穫されるように、イエスさまに続いて数え切れないほどたくさんの信者が復活すると教えています。

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです」(第1コリント15:20-23)。

イエス・キリストの復活物語は、後の時代の弟子たちが、イエスさまの教えを権威づけるために勝手に作り出したものではありません。旧約聖書の預言者たちがあらかじめ預言してきたことです。特に、イエスさまが十字架にかかる千数百年前、すでにユダヤの祭りという形でこうして預言されていました。そして、イエスさまは、預言通り、歴史的に確かによみがえりました。

第1コリント15:1-19

先ほど第1コリント15:20-23のみことばを引用しましたが、その直前、1-19節には何が書いてあるでしょうか。

この手紙を書いたパウロは、まず私たちが救われるために信じなければならない内容、すなわち福音についておさらいをし、自分も神さまのあわれみによって福音を信じて救われたばかりか、その福音を言い広める使命を与えられて励んでいるということを語っています(1-11節)。

福音の内容は、これまでも何度も確認してきました。すなわち、私たちの罪を赦すために、イエスさまは十字架にかかり、死んで葬られたけれど、3日目に復活なさったということ、すなわちイエスさまの十字架と復活です。それを信じるだけで、私たちは罪を赦され、神さまから圧倒的に祝福される神さまの子どもとなります。

ところが、死者の復活を信じない人がいるとパウロは語っています(12節)。この手紙の宛先である教会は、ギリシャのコリントという町にありました。ギリシャ哲学では、霊は善で肉体は悪だと考えていました。そして、死とは「悪である肉体に囚われて苦しんでいた霊が解放されること」です。せっかく死んで肉体から解放されたのに、わざわざ肉体を取り戻す死者の復活など、ギリシャ哲学の立場からはナンセンスだったわけです。

一方、パウロたち使徒は、イエスさまが復活したと教えています。もし復活があり得ないことなのであれば、使徒たちは大嘘を宣べ伝えているということになります。救いの教えの最も大事な部分で嘘をついているということになれば、他の教えだって信用できないことになります。

そして、初穂であるイエスさまが復活なさらなかったのなら、後に続く収穫物であるあなたも私も復活しないことになります。ですからパウロはこう語っています。「そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です」(第1コリント15:17-19)。

もちろん、これは逆説的な言い方です。パウロは、イエス・キリストは確かに復活なさったと宣言しているのです。

イエス・キリストを信じてクリスチャンとなったあなたも、たとえ死んでも、やがて栄光の体に復活します。それは確かなことです。なぜなら、イエスさまの復活が初穂だからです。

では、初穂であるイエスさまの復活が確かであるなら、後に続く私たちにはどんな素晴らしいことが待っているでしょうか。

2.イエスの復活がもたらす祝福

罪の赦しが確かだと知る

イエス・キリストの復活が単なる作り話なら、十字架と復活を信じるだけで罪が赦されるという教えも嘘っぱちです。逆に、イエスさまが本当に復活なさったのなら、罪の赦しも確かなものになります。

いったんイエス・キリストを信じたなら、あなたは、過去の罪も、現在の罪も、これから死ぬまでの間に犯すであろう罪も、すべて、完全に赦されています。それは、ただ単に将来地獄に堕とされて永遠の罰を受けることがないというだけの話ではありません(それだけでも大変な祝福ですが)。罪が赦されているということは、神さまと仲直りして、関係が良好になったということです。

私たちは、神さまを無視して自分勝手に生きてきました。神さまにとっては敵です。しかし、そんな私たちを愛してくださり、私たちがイエス・キリストの十字架と復活を信じた時に、神さまの子どもにしてくださいました。

この1月に、長女が出産して孫ができました。孫はかわいいと聞いてはいましたが、本当ですね。婿さんの仕事の都合でアメリカで出産したため、まだ直接会ってはいませんが、時々LINEで送られてくる写真や動画を見ながら、デレデレしています。

子どもはみんなかわいいですが、自分の孫のかわいさは格別です。私たちが神さまに子どもとして愛されているということの意味を、孫ができてますます深く考えるようになりました。

長女一家は、健康診断のためにもうすぐ一時帰国しますが、財布のひもを堅く締めておかないと、かわいらしいオモチャや洋服などを見つけると、すぐに孫のために買ってやりたくなって困ります。私たち人間が、子どもや孫のためなら何でもしてやりたいと思うように、神さまも、私たち神さまの子どもたちを心から愛し、私たちが本当に幸せになるためなら、何でも与えたいと思っておられます。

罪が赦されているということは、私たちがどんな問題に直面していたとしても、全知全能の神さまが味方についてくださるという、とんでもない特権が与えられているということです。

死は終わりではないと知る

イエスさまが復活なさったので、あなたも私もやがて死んでも復活し、イエスさまが治める神の国に市民として迎え入れられ、永遠の祝福を味わうことができます。

イエス・キリストの十字架と復活を信じた者にとって、死はもはや訳の分からない恐ろしいものではありません。

昔、私が中学生や高校生の頃、人が死んだらどうなるのだろうといつも考えていました。いろいろな宗教がいろいろな死後の世界を教えていますが、どうも作り話っぽくてうさんくさい。私が当時考えていたのは、死ぬというのは存在が消えて無くなってしまうことではないかということです。

その頃、風邪を引いて熱にうなされている時、必ずと言っていいほど見る夢がいくつかありました。その一つは、最初から私がこの世に存在しないという夢です。それでも家族も友だちも、何の問題も無く生活し、毎日が滞りなく進んでいきます。この地上の誰も私のことを知らない。そのことがとてつもなく恐ろしかったことを覚えています。

私が死んで存在が無くなってしまっても、家族や友だちは私がこの地上にいたということを時々思い出してくれるかもしれません。しかし、その家族や友だちも死んで存在が無くなってしまったら、やがてこの地上に私を知るものは誰もいなくなります。では、私の人生って、一体何だったんでしょうか。考えれば考えるほど暗くなります。もちろん、そんなことばかり考えていては生活できませんから、できるだけ死ぬことについては考えないようにして、目の前のことに没頭することにしましたが、それでも時々考えては震え上がっていました。

しかし、イエスさまが初穂として復活なさったため、イエスさまを信じた私もやがてそれに続いて復活します。私という存在は、たとえ死んでも終わりではありません。むしろ、今の人生よりも、死んでからの人生の方が比べものにならないくらい長いのです。何しろ永遠に続くのですから。

先日、岡山県で牧師をしていた弟が急死しました。100キロを超えていた巨体も、焼かれて骨だけになってしまい、もうすぐ教会の納骨堂に納められます。もう二度とこの地上で生前の姿の弟と会うことはできません。それは悲しいことであり、寂しいことです。一緒に暮らしていた義妹や子どもたちにとってはなおさらでしょう。しかし、私たちクリスチャンには復活の希望があります。やがて私たちは弟と再会することができます。きっと、弟も私もほっそりした健康体で復活しますから、最初はお互いに探し出すのに苦労するかもしれませんが。

イエスさまが初穂として復活なさったことを信じる私たちにとって、死は終わりではありません。それは第二の人生のスタートの日です。

すべてのことに意味があると知る

もし、復活の教えが嘘っぱちで、長くても100年ほどで人生が終わり、あとは消えて無くなってしまうのなら、私たちの人生には、どんな意味があるのでしょうか。どんなに一生懸命勉強し真面目に働き道徳的に生きても、いい加減で罪深く自堕落な生き方を続けても、同じように死んでおしまい。人生は死ぬまでの間の暇つぶしに過ぎません。ただ、今この瞬間だけ楽しければいい。それはなんと空しいことでしょうか。

ソロモン王が書いたと言われている伝道者の書には、そんな人生の空しさが延々と歌われています。たとえば、「私は心の中で言った。『私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか』。私は心の中で言った。『これもまた空しい』と。事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ」(伝道者2:15-17)。

ただし、それは神さまを無視した生き方の場合です。ソロモン王は、最初のうちは神さまに忠実に従っていましたが、たくさんの外国人の妻たちの影響もあって、偶像礼拝に陥り、肉欲と贅沢三昧にうつつを抜かすようになってしまいました。そして、はたと気がつくと、空しさが自分を取り囲んでいたのです。

伝道者の書は次の言葉で締めくくられます。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである」(伝道者12:13-14)。

イエスさまの復活は、私たちもまた復活し、死んだ後にも人生が続くことを保証しています。そして、死んで復活した後、生きていた間にしたすべての行ないがイエスさまによって評価されます。もちろん、クリスチャンはすべての罪を赦されていますから、行なった良くないことを理由に地獄に堕とされることはありません。生きている間に行なった良いことについては、イエスさまは必ず認めてくださり、ごほうびをくださいます。

イエスさまは、有名なタラントのたとえ(マタイ25:14-30)の中で、主人が不在の時も一生懸命商売に励んでいたしもべたちを、主人が大いにほめる場面を描いておられます。主人は彼らに言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」。

私たちもまた、そんなふうにイエスさまから認めていただけます。たとえ、喉が渇いている人に水一杯を差し出すというような小さな行ないでも、イエスさまにお仕えするように愛を込めて行なうなら、イエスさまは決して小さなこととして見過ごしになさいません(マタイ25:34-40)。

マザー・テレサや仲間のシスターたちは、コルカタの貧しい人たち、病んでいる人たちのことを「私のイエスさまたち」と呼んで世話をしました。私たちもまた、あらゆることをイエスさまへの感謝と愛に基づいて行ないましょう。

まとめ

イエスさまは初穂として復活なさいました。それは、私たちクリスチャンもまた、復活するという保証です。そして、復活は将来の祝福だけでなく、地上を生きている今このときも、私たちに多くの祝福をもたらします。

あなた自身への適用ガイド

  • イエス・キリストが肉体的に復活したという歴史的事実について、正直に言ってどのように感じていますか?
  • 罪が赦され、全知全能の神さまとがあなたの味方だということを再確認する時、現在直面している問題について、どのように見方、感じ方が変わりますか?
  • 自分がやがて死ぬということについて、今どのように感じますか?
  • 地上で行なったすべての行ないが、死んで復活した後にイエスさまによって評価されるということを強く意識するとき、特に改めなければならないと思うことや、このまま続けていきたいと思うことがありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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