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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

490回の赦し

マタイによる福音書18章15節〜35節

(2018年4月8日)

参考資料

28節の「デナリ」ローマの貨幣単位で、1デナリは労働者1日分の給料に相当。24節の「タラント」は元々重さの単位で、1タラントの銀はデナリ銀貨6000個分に相当。ですから、1万タラントは6000万日分の日当ということ。

これだけの借金を返済するには、無利子だとしても、毎日休みなく働いて16万4千年以上かかります。年に1.5%の金利がかかるとすると、利子だけで毎日7年分の年収に相当するお金を支払う必要があります。個人が返すのは無理ですね。

イントロダクション

神さまは私たちを子どもとして愛しておられます。神さまが私たちに様々な命令をなさるのは、私たちを縛って不自由にするためではなくて、本当の自由を与え、幸せに導くためです。特に今回は、他の人の罪を赦せという命令について考えてみましょう。

1.赦せという命令

方法

罪を犯して悔い改めようとしない人に対して、クリスチャンがどのように対処すべきかについて、イエスさまが教えてくださいました。「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」(15-17節)。

「二人だけのところで」という言葉に注目してください。陰でその人のことを悪く言ったり、心の中でグチグチと責めたりするのではなく、直接話をしなさいとイエスさまはおっしゃいました。しかも、新改訳第三版で「責める」と訳されている言葉は、相手を悪し様に非難することではなく、相手が間違った行動を改めるよう説得するというニュアンスです(口語訳と新共同訳「忠告する」、新改訳2017「指摘する」)。

私たちは、相手にされて嫌だったこと(あるいは、されなくて嫌だったこと)は伝えても、「して欲しいこと」を伝えないことが多いかもしれません。犯罪や不倫などの不正行為に関することだけでなく、子育てや部下育てでも、相手に言動を改めてもらいたいときには、以下の3つのポイントを整理して、「これからはこうして欲しい」と相手を説得しましょう。
  1. 相手のどんな行動が問題か。相手に行動を変えてもらうことが目的ですから、「いい加減だ」とか「悪い子だ」とか「優しくない」とかいうふうに、相手の性格や性質を責めないようにしましょう。
  2. どうしてその行動が問題なのか。
  3. 代わりにどういう行動をして欲しいか(代替え行為)。「ちゃんとして」「もっと優しくして」というような抽象的な表現では、こちらが伝えたいことが相手に伝わらないかもしれません。「外で知り合いに会ったら、家でお母さんたちとお話しするくらいの声の大きさで、あいさつしようね」というふうに、できるだけ具体的に伝えましょう。
一対一で説得してもダメだったら、今度は2、3人で説得しなさいとイエスさまはおっしゃいました。

それでもだめなら教会に対処を委ねます。実際には、教会の牧師や役員などのリーダーがその人を説得することになるでしょう。この時点で、問題は自分の手を離れます。しかし、その人が説得を受け入れ、悔い改めて行動を変えてくれるよう祈り続けましょう。「信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます」(ヤコブ5:15)。

それでもだめなら、除名です。当時のユダヤ人は、異邦人や取税人と親しく交わることを避けていました。

目的

ただし、人の罪を指摘したり、悔い改めようとしない人を除名したりするのは、その人が過ちに気づいて、悔い改めるための機会を与えるためです。その人の人格を否定することが目的ではありません。

コリント教会の中には、パウロが何度指導しても罪を悔い改めない人がいました。父の妻、すなわち義理の母親との不倫関係ではないかと考えられています)。しかも、コリント教会は、その問題に対して見て見ぬふりをしていました。そこで、パウロはその人を除名するよう厳しく命じました(第1コリント5章)。

コリント教会の人々は、悲しみながらもパウロの命令に従い、その人を除名し、交わりを絶ちました。その結果、その人は悔い改めました。それを知ったパウロは、その人を再び教会の交わりに迎え入れるよう勧めています(第2コリント2章)。処罰することが目的なのではなく、本来の生き方を取り戻してもらうことが目的だからです。

イエスさまが、異邦人や取税人とどのように接したか思い出しましょう。イエスさまは、悔い改めてご自分を信じた取税人マタイやザアカイと親しく食事をなさいました。またカナン人の女性の娘をいやし、サマリヤ人の女性と会話をなさって、その人生を変えました。

回数

その話を聞いたペテロが、罪を犯して悔い改めるということを繰り返す人を、何回まで赦せばいいですかとイエスさまに尋ねました。仏の顔も三度までと言いますが、ペテロは7回まででしょうかと確認します。

それに対するイエスさまの答えは、「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです」(22節)。ということは、490回? いえいえ、そういうことではありません。

以前、我が家の近くにあったパン屋では、パンを買うたびにスタンプ帳にスタンプを押してくれました。そして、一定数のスタンプがたまると、おいしい食パンを1斤プレゼントしてくれました。

私も誰かに嫌なことをされたり言われたりしたら、大人げないのでその場ですぐに爆発したりしません。その代わり、心のスタンプ帳に、1つポンッとスタンプを押します。相当嫌なことをされた場合には、3つくらい押すでしょう。そうやって我慢するわけです。しかし、そのうちスタンプ帳が一杯になります。すなわち、怒りが臨界値を突破。すると、私はドカンと爆発します。「いい加減にしろ!」 その爆発は、これまでの累積した怒りだけでなく、利息も付いていますから、きっと大変な攻撃になることでしょう。

七回を七十倍するまで赦せというのは、数えないで限りなく赦しなさいということです。数えているということは、復讐を先延ばしにし、怒りを積み立てているだけで、赦しているわけではありませんね。おそらく、491回目には、今までの490回分もまとめて、ついでにその間我慢してきた鬱憤の分も付け加えて怒りをぶつけるはずです。

怒りをぶつけられた方は、まともにそれを受けては痛いですから、防御に走ります。逃げたり、攻撃は最大の防御というわけで逆ギレしたりするでしょう。結果として、問題行動はちっとも改まらないということになりかねません。だから、イエスさまは、不平不満を心のスタンプ帳に溜め込むる代わりに、一対一で率直に話し合いなさいと勧めておられるのです。

では、どのようにすれば、徹底的に赦すことができる人になれるのでしょうか。

2.赦すために

未来を見つめる

シンナー依存の青少年を治療している方の話を聞きました。この方は、施設に連れてこられたシンナー依存症の人たちに、一切説教しないで、一本のビデオを見せるそうです。それは、シンナーを吸い続けた結果、歯がぼろぼろになり、幻覚を見て暴れ、やがて廃人のようになって死んでいく患者たちの姿を収録したビデオです。そこには、火葬後、骨もぼろぼろの灰にしかならない場面も収録されています。これを見せると、ほとんどの人が、真剣に治療に取り組むといいます。

新しい行動を身につけるとき、今まで通りの行動を続けた場合の否定的な未来と、新しい行動を身につけた場合の肯定的な未来を見つめると役に立ちます。では、怒りや恨みを抱えて生きていると、将来どうなるか。そして、それらから解放されると、将来どうなるか。それを見つめてみましょう。

怒りや恨みは、一種のストレスです。ストレスを抱え続けると健康に良くありませんね。もしも、怒りや恨みを手放すことができたら、私たちは健康に近づくことができます。

いろいろと目立つ働きもしているある方が、身に覚えのないことで批判を受けておられました。「そんな的外れな中傷を受けて、悔しくないのですか」と尋ねると、「やりたいことややらなければならないことがたくさんありますからね。そんなことを気にしている暇がありません」という答え。

怒りや恨みを抱き、それをいつまでも持ち続けるということは、いつもその人のことを考えて疲れるということです。これは時間とエネルギーの無駄遣いです。もしも怒りや恨みから解放されたなら、もっと生産的なこと、自分の幸せにつながることのために時間やエネルギーを使うことができるのです。

そして、怒りや恨みは、私たちの生活に、無意識のブレーキをかけてきます。極端な例を挙げれば、親友に裏切られ、その傷がまだうずいているとしましょう(怒りや恨みは、傷や悲しみから生まれます。コインの表と裏のようなもので、実は同じものです)。すると、人間不信に陥って、他の人に対しても心が開けなくなってしまうかも知れません。そうしたら、せっかく味わうことができる温かい交わりとか、他の人から与えられるはずの援助も受けられなくなってしまいますね。

しかし、怒りや恨み(すなわち特定個人へのこだわり)から解放されていくと、その分だけ、無意識のブレーキが解除されていきます。そして、本来あなたが味わうことのできる、すばらしい人生を手に入れることができるようになるでしょう。

そればかりではありません。イエスさまはおっしゃいました。「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(19-20節)。

クリスチャン同士が仲直りして、心を合わせて祈ることができるようになったら、一人っきりで祈っているよりもずっとずっと祈りが聞かれやすくなる。イエスさまはそう約束しておられます。赦しの先には、そんな素晴らしい未来が待っています。

赦されている自分を見つめる

しかし、赦すことはすばらしいということは分かっても、なかなか自分を傷つけたり、損害を与えたりした相手を赦すのは難しいものです。ペテロや他の弟子たちも同じだったようです。そこでイエスさまが話されたのが、1万タラントの借金をした人のたとえ話です。

この人は、友だちに100デナリのお金を貸していました。1デナリが労働者1日分の給料ですから、100日分の給料ということになりますね。日当5000円としても、50万円を貸していたということになります。安いですか? いいえ。決して安いお金ではありません。

だから、「赦せ」と言われても、「はい、そうですね」とはなかなか言えなくて当然です。「そんな小さなことにこだわってどうする。もう忘れてしまえ」と言われたって、「それは人ごとだから言えるんだよ」と反論したくなります。100デナリは、決して安い借金ではないのです。

「赦さなければならない」ということばかり考えても、なかなか赦すことはできないでしょう。イエスさまの弟子たちが「七回を七十倍するまで赦せ」と言われて困惑したのも当然です。

イエスさまは、貸した100デナリの方ではなく、免除された1万タラントの方に注目するようにとおっしゃっています。1万タラントといえば、日当5000円で計算すると3000億円になります。そんな大金を、この主人は免除してくれました。なんという気前よさ、何という愛の深さでしょうか。

「自分がどれだけ気前よく赦してもらったのかを考えたら、50万円のことなんてどうでも良くなるでしょう?」と、イエスさまはおっしゃっているのです。50万円など、3000億円の借金の、1日分の利子にもならないのですから。

自分が人を赦せないということ、そして赦さなければならないということに意識を向ける代わりに、自分が神さまにどれだけ赦され、愛され、祝福されているかを意識してごらん。イエスさまはそうおっしゃりたいのです。私たちが、神さまの祝福に感動し、感謝している分だけ、他の人を赦し、受け入れ、愛することができるようになるんだよ、と。

あなたは、どれくらい自分が神さまに愛されて、祝福されていると自覚していますか? どれだけそれを感謝し、感動していますか?

感謝の種を見つめる

ですから、あなたが赦しの人、愛の人として成長するために、意識して神さまの愛、赦し、約束を数え上げて、それを感謝するようにしましょう。

それと共に、あなたが誰かに対する怒りや恨みを忘れられないとき、そのことを感謝しましょう。いいえ、書き間違いではありませんよ。あなたが他の人のことを赦せないでいるという、そのことを感謝するのです。一体なぜ?

イエスさまのたとえ話によれば、私たちが他の人をどれだけ赦せるかというのは、どれだけ神さまが自分を祝福してくださっていると感謝・感動しているかに比例するということですね。ということは、誰かに対する否定的なこだわりを持っているということは、その分だけまだ自分は神さまの祝福を味わいつくしていないということです。

そうです。逆に言えば、あなたに赦せない人がいるということは、あなたはまだまだ祝福される余地があるということです。すなわち「まだまだ神さまの祝福はこんなもんじゃない」ということ。だから、そのことを感謝するのです。

1万タラントのたとえの最後に、イエスさまは、ちょっと恐ろしげな言葉を残していますね。「あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです」(35節)。このようになさるというのは、主人が、友だちの借金を赦さなかったしもべを牢獄にぶち込んだということを指しています。だから、私たちも、他の人を赦さないと、神さまからさばかれて地獄行き……というふうに読めますね。

ただし、聖書というのは、そこだけピックアップして解釈してはいけません。他の箇所と関連づけながら解釈しないといけないのです。神さまは、いったん救うと決めたものを、後になって見捨てるような方ではありません。そして、救いというのは、神さまから一方的に与えられたものであって、私たちの行ないとか態度によって左右されるものではないのです。

神さまはあなたが他の人をどれだけ赦しているかどうかにかかわらず、とにかくあなたを赦し、愛し、祝福し、絶対に幸せにすると決めておられます。ただ、他の人を赦せていないということは、その分だけ神さまの愛を味わってないということです。神さまの側ではすでにあなたを大いに愛し、祝福しようとしておられるのですが、あなたの方で受け取ってないということですね。「父も同じようになさる」というのは、そういうことなのです。

あなたには、今、赦せない人がいますか。喜びましょう。あなたは、まだまだまだまだ祝福されます。あなたは、今よりももっともっと幸せになれます!

まとめ

イエスさまの愛、神さまの祝福について教えてくださるのは聖霊さまです。聖霊なる神さまに、「もっともっと、私に与えられている神さまの祝福、これから与えられる神さまからの祝福について教えてください」と祈りましょう。それによって、あなたは他の人に対して、赦しの愛を示すことができるようになり、怒りや恨みから解放されていきます。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたが今、赦しにくいなあと感じている人は誰ですか? その人はあなたに何をしましたか? どうして赦しにくいのですか?
  • その人を赦さないことによって、現在あなたにどんな不利益が起こっていますか? また、将来どんな不利益が起こりそうですか?
  • その人を赦すことができたら、あなたはどんな利益を得ることができそうですか?
  • その人を赦すことを、具体的にどのような行動によって表すことができますか?
  • あなたのすべての罪は赦されているというメッセージを聞いて、あなたは何を感じましたか? あなたはそれを信じられますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

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