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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

神の国の原則

マタイによる福音書19章27節〜20章16節

(2018年4月22日)

参考資料

「デナリ」(デナリウス)はローマ帝国とその属国(ユダヤもその一つ)に流通していた銀貨で、1デナリは労働者1日分の給料に相当しました。

イントロダクション

「先の者があとになり、あとの者が先になる」という聖書の言葉を読むと、「水戸黄門」のテーマソングの歌詞、「後から来たのに追い越され、泣くのが嫌ならさあ歩け」という言葉を思い出します。ただし、イエスさまのこの言葉は、進歩の遅い人を責めたり、叱咤激励したりするためのものではありません。イエスさまは、「この世の原則と神の国の原則は違う」ということを、教えてくださっているのです。

1.この世の原則

出来高制の原則

この世の原則は、出来高制です。すなわち、「成果によって評価される」ということです。成果主義や競争原理自体は決して悪いものではありません。それによって、社会は進歩してきました。

そして、この世の出来高制の原則は、教会の中にも、そしてクリスチャンの心の中にも影響を与えています。すなわち、
  • 何人に伝道したか
  • どれだけ祈っているか
  • どれだけ聖書を通読したか
  • どれだけ献金したか
  • どれだけ「ハレルヤ!」「感謝します!」と叫んだか
  • どれだけ元気でうれしそうに振る舞っているか
  • どれだけ周りの人に評判になっているか……。
そういったことが人としての、あるいはクリスチャンとしての評価の基準になっているということです。

価値を測るはかり

もちろん、これらの行ないや態度は大切なものであり、ないがしろにしてはならないし、みんながさらなる高みを目指すべきポイントです。

しかし、そういった行ないや能力、成績や結果の出来不出来によって、人としての存在価値まで測られてしまうとしたらどうでしょう。「こういう能力がある人はOK、ない人はNG」「これを実践しているクリスチャンは立派、できないクリスチャンはダメ」という評価をしてしまうということですね。

他の人に敗北したり、平均点以下だったりしたら価値がない、そう思い込まされているならば、私たちは自分や他人の成果に振り回されることになります。日常生活も、信仰生活も、とたんに疲れるものになってしまうでしょう。他の誰かをねたんだり、自分の現状に不平不満を抱いたり、自分自身の姿に落ち込んだりするからです。

ネット上での活動が長いせいか、私はいろいろなクリスチャンの方からメールをいただきます。そして、多くの方から「教会に行くと疲れる」「教会に行くと惨めな気持ちになる」という相談を受けます。イエスさまは、「重荷を負っている人は休ませてあげよう」とおっしゃったはずなのに(マタイ11:28)、どうしてイエスさまのからだである教会の交わりの中で、疲れ切ってしまうのでしょう。

それは、「できる人はOK、できない人はNG」というこの世の原則、出来高制の原則で、自分自身や他の人のことを見てしまったり、教会の中でそういう扱いを受けたりしているからです。

では、この世の原則ではなく、神の国の原則は本来どういうものなのでしょうか。

2.神の国の原則

恵みの原則

神さまが人を受け入れ、愛し、祝福するのには、条件がありません。出来高制に基づく愛ではなく、どんな人をも無条件に、一方的に愛する愛です。これを「恵み」と言います。神の国の原則は、恵みの原則です。

今回のたとえ話に出てくる主人は、12時間働いた人にも、9時間の人にも、6時間の人にも、3時間の人にも、そして1時間しか働かなかった人にも、同じように1デナリ(1日分の給料)を支払いました。神さまと同様に、どれだけ働いたかという条件なしに、祝福を与えたのです。

アンフェアじゃない?

ただ、この主人のやり方は、長時間働いた労働者にとっては納得できないものでした。丸一日働いても、1時間しか働かなくても同じ給料だなんてアンフェアです。あなたが12時間丸々働いた労働者だったら、1時間しか働かなかった人と同じ給料で納得しますか?

こんなことを実際の職場でやったら、誰もまじめに働かなくなります。事実、富を平等に分けることを理念とした共産主義の国々は、生産性が極端に落ちて、国の経済が破綻してしまったではありませんか。

しかし、このたとえ話は、会社や国をどのように運営するかを教えている話ではありません。神さまの愛がどのようなものなのかということを教えるための話です。確かに、この主人の方法は、「仕事量に対する報酬」という点ではアンフェアですが、そもそも神さまの愛は「報酬」ではないのです。

報酬ではなく恵み

このたとえ話は、すべてを捨ててイエスさまに従った弟子たちに対して語られました。イエスさまは、彼らの犠牲に対して、必ず報いると約束してくださいましたが、同時に、神さまの愛は人間の善行に対する報酬ではないのだということを、このたとえ話を通して語ろうとなさいました。

1時間しか働かなかった人たちは、確かに肉体的には楽だったでしょう。しかし、彼らは日雇いの労働者です。その日働き口がなければ、明日食べるパンはどうなるのだろうという心配があります。彼らは、そういう不安を抱えながら一日を過ごしていました。

一方、長時間働いた人たちは、確かに暑い中、大変な労働をしなければなりませんでした。しかし、彼らはその代わりに、明日のパンを心配する必要はありませんでした。

彼らはそれぞれに痛みを抱えていました。この主人は、彼ら日雇い労働者たちみんなを愛し、心配していました。ですから、長時間働いた人にも、1時間しか働かなかった人にも、彼らの明日の生活が支えられるだけの給料を支払ったのです。

神の国の原則に基づいて生きるとき、最初から働いていた労働者たちも、遅れてきた仲間たちが救済されるのを見て、共に大喜びできるはずでした。まさにそのために、彼らは後回しにされたのです。私たちもそういう精神的に豊かな生き方をしたいと思います。

ところが、この世の原則で生きていた最初からの労働者たちは、あとから来た仲間をねたみ、自分に対する扱いに不平不満を感じてしまいました。「先の者があとになる」という言葉は、そうならないようにという、イエスさまからの警告です。決して、進歩の遅い人を叱咤するための言葉ではありません。

3.神の国の原則で生きよう

この世の原則に従わない

出来高に対する報酬として祝福が与えられるこの世の原則、そして恵みに基づいて一方的に祝福が与えられる神の国の原則。今日の箇所を通して、イエスさまは私たち「あなたはどちらの原則で生きるのですか?」と尋ねています。

聖書はこう命じています。

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」(ローマ12:2)。

「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません」(第1ヨハネ2:15)。


ですから、成果によって人間の存在価値まで評価されるこの世の原則ではなく、一方的に、無条件に存在が喜ばれる神の愛の原則に従って生きていきましょう。

加点法の言葉

神さまは、今のあなたのことを素晴らしい存在だと評価してくださっています。素晴らしいあなただからこそ、もっともっと行動や態度が素晴らしくなれるのです。軽石はどんなに磨いても宝石にはなりません。しかし、どんなにゴツゴツで見栄えが悪くても、ダイヤの原石であれば、磨けば必ず光り輝く宝石となります。

ですから、神の国の原則で生きる私たちは、自分に対して、あるいは他の人に対して「加点法」的な評価をし、それに基づく言葉かけを心がけましょう。

この話をお読みください

まとめ

私たちが神の国の原則、恵みの原則に生きるとき、私たちの生活には喜びや感動が満ちあふれます。そして、他の人との関係が良くなっていきます。

あなた自身への適用ガイド

  • この世の原則で評価されることで、窮屈な思いを味わっている点がありますか?
  • 他の人を、この世の原則によって評価していたなと思い当たる点がありますか? それに関して、今後はどのように態度を改めていきたいですか?
  • 誰かが祝福されていることに対して、ねたみや不平を感じることがありますか?
  • 自分が神さまの恵みの愛をさらに実感できるようになるために、工夫できることが何かありますか?
  • 「加点法」的な言葉かけを実践しましょう。誰に対して、どんな言葉かけをしますか?
  • あなたや、あなたの大切な人の一年前と今を比較してみましょう。どんなことができるようになりましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

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