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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

私たちの原動力

マタイによる福音書22章34節〜40節

(2018年5月27日)

参考資料

「パリサイ人」とは、ユダヤの宗教的なグループの一つ、パリサイ派に属する人。モーセの律法以外にも膨大な数の決まり事を作って、それ守るように民衆に教えていました。一般民衆の多くも、彼らを尊敬していました。

「サドカイ人」は、サドカイ派に属する人。このグループには、貴族や祭司たちが多く属していました。聖書の中でもモーセ五書しか受け入れず、死後のさばきや復活を信じていませんでした。直前の箇所では、サドカイ人たちは復活がないことを証明しようとイエスさまに論争を仕掛け、逆に論破されてしまいました。

彼ら宗教的指導者たちは、イエスさまのことを、国の存在を危うくする危険人物だと思うようになっていました。しかも、民衆の人気が高く、それに嫉妬も覚えていました。そこで、何かの理由をつけて、足を引っ張ろうとしていました。

40節の「律法と預言者」とは、聖書全体を指す言葉です。ちなみに、この当時はまだ旧約聖書しかありません。

イントロダクション

律法学者の質問に答えて、イエスさまは私たちがいかに生きればいいかということを教えてくださっています。

1.モーセの律法の要約

律法とは

律法というのは、神さまが人間に求めておられる生き方の基準となる命令です。通常、「律法」というと、出エジプトの時代にイスラエル民族に与えられた「モーセの律法」を指すことが多いですが、実は聖書の中にはいくつも律法が書かれています。

そして、平安時代の法律と今の法律の内容が違うように、神さまの律法も、時代によって対象や内容が変わります。たとえば、最初の人間であるアダムに対して、神さまはこんな命令をなさっています。
  • 「生めよ。増えよ。地に満ちよ」(創世記1:28)。
  • 「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ」(創世記1:28)。
  • 「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる」(創世記1:29)。
  • 「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:16-17)。
一方、大洪水を生き延びたノアに対しては、
  • 「生めよ。増えよ。地に満ちよ」(創世記9:1)。これはアダムに対する命令と同じですが、「地を従え、すべての生き物を支配せよ」という命令は除かれています。
  • 「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。ただし肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」(創世記9:3-4)。アダムに許可された食物は植物だけでしたが、ノアはあらゆる生き物を食べていいと言われています。
律法とは、その時代その時代に、神さまが人間に「このような生き方をして欲しい」と思われたことを、命令として与えたものです。今の私たちクリスチャンは、モーセの律法を文字通り守る必要はありません。イエスさまが十字架にかかり、人類を救う犠牲の血を流してくださったとき、モーセの律法は廃棄されたからです(エペソ2:14-15)。代わりに、新約聖書の中で使徒たちが教えていること、またイエスさまが教会時代の私たちに向けて教えておられること(これらを「キリストの律法」と呼びます)を守ります。

ただし、今回の箇所の時代は、まだイエスさまは十字架にかかっておられませんから、イスラエルの人々はモーセの律法に従って生きることが求められていました。

律法学者の罠

さて、ユダヤ教の学者たちによると、モーセの律法の中には613の命令があるそうです。そして、律法学者の一人が、その中で大切な教えは何かと質問しました。

過去2回の学びで触れたように、ユダヤの宗教的指導者たちはイエスさまを危険視して、何とか罠にはめ、亡き者にしようと考えていました。今回も、もしイエスさまが一つの命令を取り上げ、「この教えが大切だ」と言ったとしたら、「イエスは、他の612の命令は大切ではないと言った」と難癖をつけることができます。もちろん、答えられなければ、これまた避難の種にすることができます。

イエスさまは、そんな罠に引っかかりませんでした。イエスさまは2つの命令を挙げ、これらが大切な2つの命令だとおっしゃいましたが、他は大切ではないという意味ではないということも明確になさいます。イエスさまは、40節で「この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです」とおっしゃいました。これは、「この2つの命令はモーセの律法の要約である。だから、他の611の命令を守ることは、この2つの命令を守ることであるし、この2つの命令を大切にすることが、モーセの律法全体を大切にすることだ」ということです。

律法の要約

モーセの律法の要約その1は、申命記6:5の言葉「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」です。日本人になじみの言い方をすると、「全身全霊を込めて」ということです。感情も、意志も、知性も、体も、すべて使って、本気で、全力で神さまを愛しなさいということです。

要約その2は、レビ記19:18の言葉「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」です。他の人に対する愛ですね。

神さまの命令は、どれも神さまへの愛と他の人への愛を現すことが目的なのだということです。これは、今の私たちにとっても同じです。では、ここから、私たちはどんな生き方を目指せば良いのでしょうか。

2.判断のよりどころを持とう

聖書を判断のよりどころとする

神さまは、私たちの行動のすべてを、「ここは右」「ここは左」というふうに具体的に命じたりはなさいません。多くの場面で、私たちは自分で判断を下さなければなりません。

その判断材料として、私たちには神さまから聖書が与えられています。聖書の中には、今私たちがどんな行動を取るべきかについて、明確に教えている箇所があります。聖書の言葉と感情が対立することもありますが、その場合には思い切って聖書の命令の方を選びましょう。

昨年召天なさった伝道者の羽鳥明先生から聞いた話です。ある時、三重県の小さな教会から、伝道集会での説教を依頼されました。その日の集会では、一人の高校生が救われましたが、その子を集会に誘ったのは、同じ学校の高校生でした。

そこで先生は、その二人にこう提案なさいました。イエスさまは、『あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます』(マタイ18:19)とおっしゃいました。ですから、これから学校の昼休みに、二人で一緒に聖書を読んでお祈りしてみませんか?」

その2年後、羽鳥先生は同じ教会に呼ばれます。すると、何と15人以上の高校生がその教会に集っているではありませんか。2年前、友だちを連れてきた高校生が言いました。「先生のおっしゃった通り、昼休みに友だちと2人で祈り始めました。そうしたらこうなりました」。

2つの愛を目的とする

長いこと教会のサイトを運営していますので、日本中のいろいろな方から相談のメールをいただくことがあります。特にクリスチャンの方で案外多いなと感じているのが、「これは罪でしょうか?」という質問です。たとえば、飲酒、喫煙、パンクやヘビーメタルを聴くこと、学生が異性とおつきあいをすること、カラオケに行くこと、漫画を読むこと、主婦が昼寝をすること……などなどなど。これらは罪なのでしょうか、と。

私がこの手の質問に対していつもお答えするのは、「何が罪か、すなわち何が神さまを悲しませるかを考えて日を過ごすよりも、何が神さまを喜ばせるかを考えて過ごした方がいいと思いますよ」です。

今回の箇所は、聖書の命令は、すべて神さまへの愛と他の人への愛を目的としているということを教えています。ですから、聖書にはっきり書かれていない事柄について考える際は、「どういう行動をすることが、神さまへの愛を現すことになるだろうか。どういう行動をすることが、神さまに喜んでいただけるだろうか」ということを考えましょう。

そしてもう一つ、「どういう行動をすることが、私の周りの人たちへの愛を最も現すことになるだろうか。どういう行動をすれば、あの人に本当の意味での幸せを提供することになるだろうか」という基準で考えてみましょう。

Aさんの息子さんは、いわゆるニートでした。ところが、完全引きこもりというわけではなく、趣味のためであれば出かけていって友だちと遊ぶことはできます。Aさんは、そのための資金を毎回求められるまま提供していました。自分たちもまもなく年金暮らしで、先々のことが心配でしたが、もしも小遣いを与えなければ、息子さんが退屈になってかわいそうだという思いからでした。

しかし、祈りながら考えたことは、これは本当の意味で息子さんの幸せにはつながらないということでした。人は困らなければ現状を変えなければならないとは思えません。息子さんのためだと思って小遣いを与えることは、かえって「私たちが経済的に支えるから、あなたはニートのままでいいよ」といっているに等しいことだとAさんは気づきました。確かに小遣いを与えなくなれば、息子さんは退屈でたまらなくなるでしょう。そうしてはじめて、お金を自らの手で稼がなければならないという思いになることができます。

教会の友だちに祈りで支えてもらいながら、ついにA三は息子さんに言いました。「私たちも経済的に厳しいから、もう小遣いは上げられない。むしろ、少しでいいから生活費を入れてもらいたい」。すると、じっと考えていた息子さん、その日のうちに散髪に行き、次の日にはアルバイトを決めてきました。その後、定職に就き、結婚までなさいました。

キリストの愛に倣って

しかしながら、「律法」を実践しようとすると、私たち人間が必ずぶつかる壁があります。それは、思い通りに実践できないということです。神さまへの愛、人への愛を実践しようとしても、面倒くさくなったり、自分が払うべき犠牲を考えて惜しくなってしまったり、怖くなったり、恥ずかしくなったりして、それ以外の道を選んでしまうことがあるのです。

そんなときは、がっかりします。あー、またやってしまったと落ち込んだりします。

そんなときは、「文字は殺し、御霊は生かす」(第2コリント3:6)という言葉を思い出しましょう。文字とは、律法に書かれている文字のことです。御霊とは聖霊なる神さまのことです。

律法は、どういうふうに生きればいいかは教えますが、そう生きるための力までは人間に与えませんでした。ですから、これまでの歴史で与えられた律法は、アダムの律法も、ノアの律法も、モーセの律法も、ことごとく人間に破られてきました。このままでは、行き着く先はさばき、そして永遠の滅びです。

しかし、聖霊なる神さまは、律法の前で無力な私たちのために2つのことをしてくださいます。それは、
  1. 律法を守れなかった罪を一方的に赦してくださること
  2. 私たちを内側から造り変え、律法を実践するための力を与えてくださること
です。

イエスさまがここで紹介した、律法の要約2つ目は、「自分自身のように隣人を愛せよ」ですが、現代の私たちクリスチャンに与えられている隣人愛の命令はこうです。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。

イエスさまは、どのように私たちを愛してくださったでしょうか。本来神さまの敵だった私たちのために、命をささげてくださいましたね? そのために、私たちの罪は赦されました。

そのように隣人を愛しなさいと、「キリストの律法」は求めています。もちろん、その通り実践しようと思っても、やっぱり失敗します。自分で自分を愛するように他の人を愛するのでさえ難しいのに、イエスさまがなさったような愛し方で愛するなんて、とてもとても……。

しかし、それでも私たちは神さまによって赦され、愛されています。

今日のメッセージのタイトルは、「私たちの原動力」です。それは神さまからの一方的な、そして偉大な愛です。神さまに愛されていることを知った人は、自分自身を大切にします。なぜなら、この自分は、自分や他の人がどう評価したとしても、イエスさまが命を捨てても救いたいと思ったほどの存在だからです。

もちろん、自分を大切にするとは、自分勝手に生きることではありません。あなたには体、心(精神)、そして魂があります。それぞれが健康を維持し、さらに成長するために、神さまは私たちがどんな生き方をするのを望んでおられるでしょうか。

それを知り、実践しましょう。

そして、神さまの愛を知って自分を大切にできるようになった分だけ、私たちは他に人のことも大切にできます。神さまが自分を大切にされているように、その人のことも命がけで大切にしてくださっているということが分かるからです。

さらに、神さまの愛を知って自分を大切にできるようになった文だけ、こんなに大切にしてくださる神さまへの愛がわき上がります。そして、神さまの喜ばれる生き方をしようという思いがわき上がってくるのです。

まとめ

私たちは神さまと隣人を愛するため、神さまのことをもっとよく知りましょう。特に、神さまがあなたのことをどう見、評価し、何を約束し、望んでおられるか、そしてこれまで何をしてきてくださったかを知りましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 感情・意志・考えを、神さまのみこころにかなうものにするために、あなたにできることは何でしょうか。
  • 今あなたが判断に迷っていることは何ですか? 神さまの好みや願いを基準にすると、どういう判断ができそうですか?
  • この1週間、誰に対して、何をして愛を現そうと思われましたか?
  • 自分を大切にするために、これから気をつけて実践しようと思ったことは何ですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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