本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

偽善者への愛

マタイによる福音書23章37節〜39節

(2018年3月6日)

参考資料

23章では、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」、あるいは「目の見えない案内人たち」というフレーズを使って、イエスさまがパリサイ人たちの偽善的な行動を繰り返し非難しています。

「エルサレム」(37節)はイスラエルの首都。ここでは神の民イスラエル全体を指しています。

「預言者」(37節)は、神さまのことばを聞き、それをイスラエルの人々に伝えた人。その語る言葉は、人々、特に指導者たちの不正を糾弾し、悔い改めを迫るものが多かったため、迫害されたり、殺されたりする預言者も多くいました。

38節の預言の通り、紀元70年にローマ軍の攻撃を受けたエルサレムは陥落し、神殿も破壊されてしまいました。

イントロダクション

ここには、私たちを赦し、新たな人生を送るよう励ますイエスさまの姿が描かれています。

1.糾弾するイエス

パリサイ人への非難

23章の前半で、イエスさまは、パリサイ人や律法学者たちを激しく非難しておられます。いくつか挙げてみましょう。
  • 「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない」(13節)。
  • 「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは一人の改宗者を得るのに海と陸を巡り歩く。そして改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのだ」(15節)。
  • 「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」(23節)。
  • 「目の見えない案内人たち。ブヨはこして除くのに、らくだは飲み込んでいる」(24節)。
  • 「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく見えても、内側は死人の骨やあらゆる汚れでいっぱいだ」(27節)。
よくぞここまでと思うほどの罵詈雑言ですね。
律法遵守運動
パリサイ派というのは、ユダヤの宗教的グループのひとつです(他に、サドカイ派、エッセネ派などの存在が知られています)。

かつて、イスラエルは、神の教えであるモーセの律法をないがしろにし、様々な不正や偶像礼拝にまみれました。神さまは度々預言者を使わして戒めましたが、王たちも民も悔い改めようとしませんでした。そのため、バビロンによって国が滅ぼされてしまいました。そして、多くの国民がバビロンに捕らえ移されました(捕囚といいます)。

バビロン捕囚が始まってから70年後、エレミヤの預言通り、神さまの憐れみによってバビロンから解放されたユダヤ人たちは、イスラエルの国を再興しました。そのとき、今度こそ神の教えを忠実に守ろうという気運が盛り上がりました。そして、律法学者エズラや総督ネヘミヤらによって、律法が民衆に分かりやすく解説され、それを忠実に行なうよう指導されました。
運動の変質
もともとは良い動機で始まった律法遵守運動でしたが、エズラやネヘミヤがいなくなると、その後だんだんと変質していきます。モーセの律法を分かりやすく解説し、人々に律法を守るよう勧めるという目的が忘れられ、研究のための研究が行なわれるようになりました。その結果、聖書には書かれていないような様々な細かい教えを作り上げ、それを守るように人々を教えるようになったのです。たとえば、「安息日には仕事をしてはいけない」という律法の規定から、何が禁止されている「仕事」に当たるのかということが研究されましたが、最終的に1500もの新しい戒律(してはいけないことリスト)が作られることになりました。

パリサイ派は、この伝統を受け継いで、紀元前2世紀頃に誕生しました。イエスさまの時代の律法学者も、神学的にはパリサイ派に属しています。

イエスさまは、彼らが表面的には立派な言動をしているけれども、心が伴っていないと非難なさいました。前回、イエスさまはモーセの律法は2つの命令(神への愛と他の人への愛)に要約されると教えておられますが、パリサイ人たちは表面的な行動にばかり注目して、愛の心を忘れてしまっていました。たとえば、「安息日には仕事をしてはいけない」という律法の教えに対して、パリサイ人たちは「安息日には、病気や障がいの人を治療してはいけない」とか、「安息日に、道ばたの麦の穂を取って食べてはいけない」とかいう戒律を定め、弱者を助けることを尊ぶ律法の精神をかえってないがしろにしていたのです。イエスさまは、こうしたパリサイ派の教えに対して、正面から反対を唱え、それらの教えをわざと破るような行動さえなさっています。

また、イエスさまは、人々の尊敬を集めるために、わざと人目につくように善行をするパリサイ人たちの偽善的な態度を、激しく攻撃なさっています

イエスの願い

イエスさまは、罪人たちを罪人だという理由では、決して非難罵倒したりしておられません。しかし、ことパリサイ人たちのこととなると、このように激しい対決姿勢を見せておられます。それはなぜでしょうか。

天の父なる神さまとイエスさまの願いは、神さまから離れていた私たち人間が、もう一度神さまを見出して、神さまとの関係を回復することです。そして、私たちが、一瞬一瞬神さまと交わり、神さまから知恵と力をいただきながら、生き生きと喜びに満ちて生きていくことです。だから、それを邪魔するものに対して、イエスさまは激しく怒られました。

パリサイ人たちは、モーセの律法には書かれていないような、大量の細かい戒律を作って人々に守るよう教えました。その上、表面的な行動にばかり注目して、神さまや他の人への愛の心を忘れ、さらには偽善的な行動をとっていました。

その結果、パリサイ人たちの教えを受けた民衆は、神さまがモーセの律法によって「こういう生き方をして欲しい」と願った、その生き方からかえって遠ざかってしまいました。パリサイ人たちのような偽善的な生き方に陥るか、「こんな生き方は不可能だ」と絶望して、神さまに従うことそのものを諦めるかしてしまうからです。すなわち、パリサイ人たちの教えと生き方によって、多くの人々が神さまとの愛の交わりから遠ざかってしまったのです。そこでイエスさまは、「おまえたちは人々の前で天の御国を閉ざしている。おまえたち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない」(13節)と避難なさったのです。

あなたの周りには、あなたが本当の幸せを感じることがないように、邪魔をするものがありませんか? それは人かもしれませんし、状況かもしれません。そして、その背後には、私たちを神さまから遠ざけようとする悪魔の存在があります。

そのような、あなたを神さまと、神さまがくださる幸せから遠ざけようとする存在に対して、イエスさまは激しく怒ってくださいます。そして、イエスさまは私たちのために何かをしてくださいます。

あなたのためにイエスさまが怒ってくださると知るとき、あなたはどんな思いになりますか?

2.号泣するイエス

私もパリサイ人

私たちは、新約聖書を読むと、パリサイ人を批判的な目で眺めてしまいがちです。しかし、正直に自分自身のことを振り返ったとき、私もまた人からほめられることを求める偽善者であり、心を忘れて表面的な行動にばかり注目する律法主義者であったと思わざるを得ません。

私は、クリスチャンになってからも、聖書のことばを使って、「すべし・すべからず」という基準で自分や他人をさばいていました。そのため、何度もプチうつの状態に陥りましたし、たくさんの方々を傷つけてもきました。

そんなわけで、過去の自分や今の自分を振り返ると、恥ずかしさと罪責感で消えてしまいたくなります。何度も伝道者をやめたいと思ったし、クリスチャンをやめたいとさえ思ったことがあります。

エルサレム、エルサレム

しかし、神さまは、この私を見捨てませんでした。私の側で、何度イエスさまを裏切っても、罪を重ねても、人々を傷つけても、それでもイエスさまは私を見捨てませんでした。こんなパリサイ人のような私を。

礼拝メッセージでマタイの福音書のシリーズを連続で語るにあたって、「マタイの福音書」というDVD(ライフ企画)を視ました。その中に今回の箇所も登場します。エルサレム神殿で、イエスさまはパリサイ人・律法学者たちを激しく非難なさいました。そしてその後、イエスさまは、地面に倒れ込むようにして、大声で泣き叫びます。「ああ、エルサレム、エルサレム! めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか!」 文字通りの号泣でした。

イエスさまは、激しい言葉でパリサイ人たちを非難しました。しかし、同時にイエスさまは、あのパリサイ人たちのことを、本当に愛しておられたのだなあと思いました。イエスさまは、パリサイ人たちにも、本当の幸せを知って欲しかったのです。

パリサイ人は、本当の内面の自分を見られるのを恐れて、一生懸命に表面を着飾って、良い人間だということを証明しようとしていました。イエスさまは、その心の奥底にある恐れを知っておられました。そして、何とか彼らに、神さまにそのままで受け入れられる平安を味わって欲しかったのです。だから、何とか気づいて欲しくて、厳しい言葉を投げかけもしたのでしょう。

私もあなたも愛されている

そして、イエスさまは、この私のことも愛してくださっています。もちろん、あなたのことも!

教会も、またクリスチャン個人も、もちろん牧師や宣教師も、欠けだらけです。時に偽善的になり、時に律法的になります。それでも、イエスさまに愛されています。イエスさまは、心から私たちと交わりたい、私たちを祝福して幸せになってもらいたいと願っておられます。今の私たちがどんな状態であったとしても。

3.赦すイエス

十字架の血による赦し

38-39節でイエスさまは恐ろしい警告をなさっています。「見よ。おまえたちの家は、荒れ果てたまま見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない」。

「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」とは、救い主が登場したときには、この言葉を叫んで歓迎するよう、パリサイ人たちが民衆に教えていた言葉です。ですから、数日前にイエスさまがエルサレムに入ってこられたとき、多くの民衆がこの言葉を叫んで熱烈歓迎しました(21:9)。しかし、パリサイ人の多くはイエスさまを救い主だとは認めませんでしたから、この言葉をイエスさまに向かって叫ぶことはありませんでした。その結果、40年後の紀元70年にイスラエルの国がまたもや滅びてしまいます。

しかし、この警告は同時に約束でもあります。これ以上ないというくらい激しい言葉でイエスさまにののしられたパリサイ人・律法学者たち。しかし、彼らがイエスさまを見上げ、イエスさまの存在を喜ぶなら、彼らであってもイエスさまに受け入れられるのです。
動物犠牲とイエスの犠牲
ユダヤの礼拝では、罪ある人間が、聖い神さまの前に出て行くために、動物を殺して血を祭壇に注ぎかける必要がありました。犠牲の動物が死ぬことで、私たちが罪の罰を受けて死んだと見なされたのです。だから、もう罪に対する刑罰を恐れることなく、そのままの姿で礼拝をささげ、神さまに祈ることができました。

しかし、動物の犠牲は不完全です。だから、礼拝のたびごとにささげられなければなりませんでした。イエスさまは、完全な犠牲として地上に来られました。イエスさまのことを「子羊イエス」とか「神の子羊」と呼ぶことがありますね。これは、イエスさまが私たちのために、完全な犠牲となってくださったことを表しています。

イエスさまは十字架にかかって血を流してくださいました。それにより、私たちのための犠牲となり、身代わりに罪の罰を受けてくださったのです。

イエスさまは完全な犠牲ですから、たった一度で完全に私たちの罪を赦しました。過去の罪も、現在の不完全さも、これから犯すであろう間違いも、全部赦されました。すでに!

パリサイ人のための十字架

イエスさまは、パリサイ人のためにも十字架にかかられました。そして、その罪の罰を身代わりとして受けてくださいました。彼らもまた神さまに赦されているのです。愛されているのです。 

そして、十字架にかかり、復活して今も生きておられるイエスさまによって、自分は赦され、神さまとの交わりが再会するのだと信じるなら、彼らもまたそうなります。

彼らだけではありません。現代のパリサイ人である私もそうです。あなたもそうです。

新しい人生


自分が今あるがままの姿で、全知全能なる神さまに愛されていることを知るとき、私たちの生き方は変わります。それを深く知れば知るほど変わります。

どうしたら、私は自分が神さまに愛されていることを、もっともっと確信できるでしょうか。どうしたら、私の家族や、私の友達や、私が出会うすべての人に、このことを伝え、もっともっと確信してもらえるでしょうか。

この話をお読みください

まとめ

イエスさまは、私たちがどんな姿でも愛しておられます。あなたもあなたを赦し、その将来を期待しましょう。そして、さらにそれが確信できるような生活を送るよう、工夫しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたの幸せを邪魔する存在に対して、イエスさまが激しく怒ってくださると知るとき、あなたはどんな思いになりますか?
  • 聖書の教えを使って、他の人や自分自身を責めっ放しにしまったことがなかったでしょうか?
  • 偽善ということについて、何か思い出すこと、思い当たることがありますか?
  • どんな偽善者も、どんな教会も個人も、イエスさまによって赦さ、愛されているというメッセージを聴き、どのようなことを感じ、また考えましたか?
  • 神さまに赦され、愛されていることを、他の人やあなた自身がもっと確信できるようになるため、具体的に何をどう変えようと思いましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com


guests have visited here
since July 15th, 1999.