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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

悪すぎもなく、正しすぎもせず

伝道者の書7章15節〜18節

(2018年6月10日)

参考資料

伝道者の書は、伝統的にはソロモン王の作だと言われています。神さま抜きの人生は空しく、神さまのみこころの内を歩むことこそ幸福であることを教えています。

イントロダクション

7節の「あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない」という勧めは理解できます。しかし、16節の「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない」とは一体どういうことでしょうか。正しすぎ、賢すぎると、どうしていけないのでしょうか。

1.成長が止まってしまうから

正しすぎ、賢すぎとは?

正しすぎず、賢すぎるなというのは、人が神さまの望まれる正しい生き方を実践したり、様々なことを学んで知識や知恵を獲得したりすることを禁じる言葉ではありません。これは、本当はまだ成長や改善の可能性があるのに、「自分はもう十分正しい、十分賢い」と思い上がってしまうことです。

よく、「分かっているんだけどできない」「分かっているんだけどやめられない」なんて言うことがありますね? しかし、私の師匠の一人がこんなことをおっしゃいました。「それは嘘だ。もし本当に分かっていたらできるはずだし、分かっていたらやめられるはずだ。できないというのは、本当は分かっていないということだ」と。

たとえば「どうしてもこれをやらなければならない、やめなければならない」という必要性が十分に分かっていなかったり、それを実行するための方法が分からなかったりするということです。それなのに「分かってはいるんだけど」と言い訳するから、それ以上学ぶことをせず、結局できないままになってしまうのだというわけです。

同様に、自分は十分正しいと思っている人は、自分の生き方を見つめ直すことをしません。人生において必要なことは十分知っている思っている人は、それ以上学ぶことをしません。もう十分だと思った時点で、成長が止まってしまいます。

無限大の可能性

しかし、私たち人間は、生きている間に完全になることなどあり得ません。逆に言えば、あなたにも私にも、無限大の成長の可能性があるということです。あなたのできることはこの程度ではありません。あなたが知りうる知識はこの程度ではありません。あなたの持ち味は、今あなたが知っているだけのものではありません。あなたは、今よりももっともっと素晴らしい人生を送ることができます。

それを信じ、それを求め続けましょう。

2.他人を傷つけてしまうから

OK牧場

交流分析というパーソナリティ理論では、人が「自分」および「他人」に対して持っている基本的な立場について教えています。自分自身と他人について、それぞれ「OK」な存在だと考えているか、それとも「OKでない」存在だと考えているかによって、以下の4種類に分類されます(OK牧場と呼ばれています)。
  1. I am OK, you are OK.(私もあなたも素晴らしい存在だ)
  2. I am OK, you are not OK.(私は素晴らしいが、あなたはダメだ)
  3. I am not OK, you are OK.(私はダメだが、あなたは素晴らしい)
  4. I am not OK, you are not OK.(私もあなたもダメな存在だ)
(1)が理想的な人間関係を生み出します。(3)だと、自己主張ができない萎縮した人間関係に陥りがちです。(4)だと、自分も他人も信じない虚無的な生き方になるでしょう。

今回の箇所で言われている「正しすぎ、賢すぎる生き方」というのは、(2)の立場です。自分がいかに正しく賢くて、逆に相手がいかに間違っていて愚かであるかを証明するような関わり方になります。相手を馬鹿にしたり、責めたり、思い通りに支配しようとしたりするような態度になるということです。

また、自分は絶対に正しいと思い込んでいますから、自分のアドバイスや援助が本当にその人にとって必要なものかということを考えず、善意の押し売りをしてしまうことにもなります。

あなたは、他人からそういう関わり方をされるのはお好きですか? ほとんどの人はそんな関わり方をされるのは嫌でしょう。むしろ、自分の人格を否定された気がして、心に傷を負ってしまいます。当然、人間関係がギクシャクしてしまうことになります。

OKだからますますOKになれる

かといって、いつも自己否定をして相手を立てる、(3)のような生き方をしていたら、こちらのストレスがたまります。

私たちが目指すのは(1)の立場です。私たち人間は、みんな神さまが創造なさった神さまの芸術作品です。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペソ2:10)。罪の結果、最初に神さまが創造なさったときの状態からは遠ざかってしまいましたが、それでも、神さまの作品であることには変わりがありません。

しかも、罪はイエス・キリストの十字架と復活によって、神さまに赦されています。神さまは、イエスさまによる赦しを信じた私たちを、罪人だからといって、その存在を否定し、滅ぼすことは決してなさいません。神さまの目に、私たちはOKであり、あの人もこの人もOKです。

ですから、自分の価値も他人の価値も否定しないようにしましょう。しかも、第1のポイントで学んだように、さらに成長の可能性が無限大にあることを信じましょう。そして、ダメだから直す、不十分だからもっとマシになるという発想ではなく、すでに素晴らしいからますます素晴らしくなれるという考え方、そして関わり方をするのです。

あなた自身も、そしてあなたがちょっと一言言ってやりたいと思っているあの人も、すでに素晴らしい宝をたくさん持っていらっしゃる、可能性に満ちた人たちです。宝は必ずあると信じて探してみてください。そうしたら必ず見つかります。そして、「だからもっと素晴らしくなれる」と信じることができるようになります。

算数のテストで子どもが 0点を取ってきました。さあ、この子をほめることができるでしょうか。0点という結果はほめられません。しかし、隠さないで親に見せた正直さ、あるがままの自分を否定しないでそのまま認める勇気は賞賛に値します。

また、これまでどんなに勉強しなさいと言っても机に向かわなかったこの子が、今回のテストの前は、一日15分勉強したとしましょう。もちろん、算数は積み重ねですから、それくらいの努力ではとても追いつかず、今回は0点でしたが、それでも全く机に向かわなかった以前と比べれば、今回の努力は賞賛に値します。

それを指摘してほめれば、きっとその子はやる気を出して勉強を続けるでしょうし、勉強時間も延びていくでしょうしし、必ず結果もついてくるでしょう。しかし、もしも「だからもっと勉強しなさいって言っているでしょう!」と怒鳴りつけたら、おそらくやる気を失って、以前のように全く勉強しなくなるかも知れません。

あら探しではなく、宝探し。私たちクリスチャンは、それを心がけたいですね。

3.神との関係が薄くなるから

謙遜がカギ

正しすぎる生き方、賢すぎる生き方、すなわち、本当は成長・改善の可能性がたくさんあるのにそれを認めない生き方は、別の表現をすると「傲慢」と言うことですね。傲慢に陥ると、私たちは、神さま抜きでもそこそこやっていけるような気になり、神さまに祈ったり、助けを求めたりしなくなります。

本来であれば、私たちは、
  • イエスさまの十字架によって罪の赦しを得て、自分の価値を認めてもらうことができます。
  • あるいは、聖霊さまの働きによって内側から造り変えられ、より正しく、より賢く成長していくことができます。
  • また、父なる神さまの奇跡を、もっともっと体験することができます。
しかし、傲慢に陥ると、それらを体験する機会を失ってしまいます。水が低いところに流れるように、神さまの祝福を体験するには、「自分には助けが必要です。だから助けてください」と認め、心の膝をかがめる謙遜さが必要です。

ところが、謙遜の徳というのは、獲得が非常に難しいものです。「最近、自分もなかなか謙遜になってきたなあ」と感じたら、それは傲慢だという証拠ですからね。

かといって、「自分は生きる価値のないほどのダメ人間だ」と自己卑下することも、謙遜とは呼べません。17節でも「あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない」と言われていますね。神さまがあなたをご覧になって下しておられる評価を超えて、必要以上に自分を悪者だ、愚か者だと評価することもまた、謙遜ではないのです。自分のことは、神さまより自分の方がよく分かっているという傲慢な態度だからです。

謙遜とは、事実を事実として認めることです。その事実とは、聖霊なる神さまが私たち自身に「これが本当のあなただよ」と教えてくださる姿です。それをそのまま認め、過剰に高評価も低評価もしないようにしましょう。

たとえば、神さまは私たちのことを「大切な我が子よ。わたしの宝物よ」と呼んでくださっています。イエスさまの十字架と復活がその証拠です。しかし、仮に私が自分自身のことを嫌いだったとしましょう。その時、「私は自分が好きです」と嘘をつくことも、「私はダメ人間です」と否定することもしてはいけません。

そのまま「私は自分のことが嫌いで、ダメ人間だと思い、自分をいじめ、粗末にするような生き方をしています。しかし、あなたは私を価値ある存在だとおっしゃっています。こちらの方が真実だと認めます」と告白し、「ですから、どうか私も私自身をもっと大切にできるよう、その方法や力を与えてください」と祈るのです。

これが伝道者の言う、正しすぎも悪すぎもせず、賢すぎも愚かすぎもしない、両方を会得している生き方です。

聖なる飢え渇き

本当に謙遜になることと、謙遜になった感じがすることとは違います。謙遜であるとは難しいことです。ですから、その難しさを認めて「イエスさま、私は自分の力では謙遜になることはできません。ですから、あなたが謙遜さを私に教えてください」と祈る。そこから謙遜な生き方が始まっていくのでしょう。

私たちの心の中に、もっと成長したい、もっと喜びを味わいたい、もっと奇跡を体験したいという、神さまの祝福に対する聖なる飢え渇きが与えられますように。そのとき、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」(マタイ5:6)というイエスさまの約束が、私たちのものとなります。

まとめ

神さまに期待することによって、真の謙遜を身につけさせていただき、他の人や自分の中にある可能性を見つけ出す目を養っていただきましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 分かっているけれどできない、やめられないということがありますか?
  • あなたの中にある成長の可能性のうち、特に今回気づかされたことは何ですか?
  • 正論によって傷つけられた経験がありますか?
  • 最近、誰かを「指導」したくなりましたか? その人の中には、どんな可能性、どんな良いところがありますか?
  • あなたは今、どんな点で神さまの助けを必要としていますか?
  • 今よりももっともっと祝福されたいと願うのは、どんな点ですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
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