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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

全身全霊の愛

マタイによる福音書26章6節〜13節

(2018年6月24日)

参考資料

「ベタニア」は、エルサレムから南東3キロほどの所にあった村です。ここには、一度死んで、イエスさまがよみがえらせたラザロ(ヨハネ11章)と、その姉妹であるマルタとマリアが住んでいました。香油を注いだ「ひとりの女」は、ヨハネ12:3によればこのベタニアのマリアのことです。

今回の出来事が起こった家は、「ツァラアトに冒された人シモン」のものです。平行記事のヨハネ12:2では、このときマルタは給仕をし、ラザロは食卓についていましたから、ラザロたちはシモンと深い関係にあることが分かります。おそらく父親、あるいは親戚でしょう。イエスさまがシモンのツァラアト(重い皮膚病)をいやしてくださってから、ラザロたちとの親しい交流が始まったかもしれません。

マリアが注いだ香油とは、ナルド(ナルデ)というオミナエシ科の植物から取れる香料を原料にしたもの。非常に貴重なため、マルコ14:5では300デナリ以上で売れると言われています。1デナリは労働者1日分の給料に相当するので、300デナリは労働者の年収とほぼ同じ額です。

12節でイエスさまは、マリアの行為を「わたしを埋葬する備えをしてくれた」と感謝しています。イエスさまが亡くなったのが金曜日の午後3時で、まもなく安息日が始まろうとしていました(ユダヤでは日没で日付が変わりました)。通常は香油を塗って死体をきよめてから、没薬(防腐剤)を塗った亜麻布を体に巻いて埋葬します。しかし、当時は安息日に死体を葬るのは禁じられていましたから、弟子たちはイエスさまの遺体に亜麻布を巻いただけで、急いで墓に納めなければなりませんでした。そのため、香油を塗ることができなかったのです(そこで、安息日が終わって、女の弟子たちが改めて埋葬をし直すため、香油を持って墓に向かいました。マルコ16:1)。ベタニアのマリアが注いだナルドの香油は、香りが非常に強いため、イエスさまが十字架にかかって亡くなり、墓に葬られたときにも、香りが続いていたでしょう。それが埋葬の備えということです。

このことが起こったのは、イエスさまが十字架にかかる過越の祭りの6日前です(ヨハネ12:1)。マタイ26:2では、イエスさまが十字架にかかることを預言なさり、ユダヤの指導者たちがイエスさまを殺す相談をしているのが祭りの2日前と書かれています。マタイ(とマルコ)が4日前の話をここに挿入したのは、十字架の意味を理解しない弟子たちや、イエスさまを罪からの救い主だと受け入れない指導者たちと、マリアを対比させるためでしょう。

イントロダクション

以前学んだとおり、イエスさまは、神さまの教えは2つの教えに要約されるとおっしゃいました。一つは、全身全霊を込めて神さまを愛すること。もう一つは他の人を愛することです(マタイ22:36-40)。今回登場した「ひとりの女」とは、ベタニアのマリアですが、彼女はは、まさに全身全霊込めてイエスさまを愛した人でした。その愛はどんな愛だったでしょうか。

1.心からの愛

もったいない

弟子たちは、マリアの行為に対して「もったいない」と言いました。マルコ14:5によると、300デナリで売れる、高価な香油だったからです。

今、あなたの家の1年分の給料で買った香水を、一度にぶちまけたと考えてくだされば、「もったいない!」と弟子たちが言う気持ちが理解できるのではないでしょうか。

感謝ゆえ

しかし、マリアはそのもったいないことを平気で行ないました。それは、感謝の気持ちからでした。

兄弟ラザロが病気で死んでしまったとき、イエスさまは彼をよみがえらせてくださいました(ヨハネ11章)。そして、イエスさまが自分たちのことを心から愛し、自分たちの救いのために、犠牲として命を捨てようとしていらっしゃいます。それらに対するあふれる感謝です。

主の良くしてくださったこと

私たちの、神さまに対する愛、礼拝、奉仕の根拠は、まず神さまが私たちを愛してくださったということです。イエスさまは、あなたに何をしてくださったでしょうか。
  • 命を与えてくださり、今日も生かしてくださっています。
  • 私たちの罪が赦されるために、身代わりに死んでくださいました。
  • 私たちが神の子として新しく生きることができるように、復活して永遠のいのちをくださいました。
  • 今日も私たちのために、父なる神さまに取りなしをしてくださっています。
  • また、人生のいろいろな場面で、イエスさまは不思議なわざで私たちを導き、祝福してくださっています。
聖書にこんな言葉があります。「わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)。

以前、イエスさまがマリアたちの家を訪問した際、姉のマルタは忙しく給仕をしていたのに、マリアはイエスさまの近くに座り、その話に耳を傾けていたことがあります。マルタは忙しさのあまりイライラし、イエスさまに「妹に、私の手伝いをするようにおっしゃってください」と言いました。イエスさまはマルタにおっしゃいました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」(ルカ10:41-42)。

このように、イエスさまの話にじっと耳を傾けるマリアだったからこそ、ずっとイエスさまと一緒に旅をしてきた男の弟子たちが理解できなかったこと、すなわち、イエスさまが自分たちのために犠牲になろうとしておられるということを、理解することができたのでしょう。

私たちは、つい「足りないもの」「無いもの」に目をとめがちです。しかし、どれだけ私たちの周りにイエスさまの愛が満ちあふれているか、意識して探し出しましょう。マリアのように、イエスさまの語りかけにじっと耳を傾けるため、神からのラブレターである聖書に親しみましょう。

2.行動的な愛

本当に貧しい人たちを思うのなら

「もしこれだけのお金があれば、貧しい人たちに施しができたのに」という弟子たちの言葉は正論です。給料1年分のお金があれば、困っている人たちに援助したり、宣教師のために献金したり、各種団体に寄付したりできる……確かにその通りです。

しかし、イエスさまは弟子たちに反論なさいました。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます」(11節前半)。これは、第一には、イエスさまはまもなく死のうとしていましたから、生身のイエスさまに対する奉仕は今しかできないということを意味しています。「しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません」(11節後半)。

しかし、ここにはもう一つの意味があります。本当に貧しい人たちのことを考えているのであれば、今までだって何かできたはずだし、これからだって何かができるはずだ。しかも、他の人の持ち物を当てにするのではなく(だって、あの香油は弟子たちのものではなく、マリアのものです)、あなた自身が持っているもので何かできるはずだ、ということです。

責難は成事にあらず

私の好きなファンタジー小説に「十二国記」というシリーズがあります(小野不由美著)。その中で「責難は成事にあらず」という台詞が語られています。その意味は、「人を責め、非難することは、何かを成すことと同じではない」ということです。他の人や組織を批判すること、それ自体が悪いのではありません。しかし、批判だけしていて、自分がそれに代わる何かを提案したり、実際に行なったりできているかどうか、常に自問する必要がありますね。非常に含蓄のある言葉ではないでしょうか。

イエスさまは、決して罪人を罪人だということで責めたりはなさいませんでした。しかし、パリサイ人や律法学者たちとは激しい論争を繰り広げておられます。それは、彼らが、口では正論を吐きながら実体が全く伴っておらず、しかもそのことを認めて悲しむどころか、律法を守れない他人を非難し、軽蔑していたからです。

一方、マリアの奉仕は、客観的には奇異で、効率の悪いへたくそなものだったかもしれません。しかし、彼女は神への愛、人への愛を、言葉巧みに語る代わりに、ただ実行しました。私たちも、行動によって、死んだ正論に命を吹き込みたいものです。

もし〜だったら症候群

「もし〜だったら症候群」という霊的な病気があります。「もしもっと若かったら、これこれの良いことができるのに」「もっと時間があったら、人のためにこんなことができるのに」「もしもう少しお金に余裕があったら、人のためにこんなことをしてあげられるのに」というように、何もしないための理由探しをする魂の病気です。

今のあなたにできること、今のあなただからできることが何かあるのではないでしょうか。マリアはそれを行ないました。私たちも愛を行動で表しましょう。

3.精一杯の愛

身を削る愛

マリアは、まもなく死のうとしておられるイエスさまのために、何ができるか一生懸命に考え、自分の宝物を捧げることにしました。おそらく、自分の結婚式の時につけるために用意していた香油でしょう。

大切なお客さまをお迎えするのに、昨日の残飯をチンして出したりはしませんね。時間と労力と知恵を注ぎ込んだおもてなしをするはずです。

愛とは、犠牲を払うことです。時間か労力か知恵かお金か、とにかく何か身を削ることです。「全身全霊を込めて」愛するのです。

あなたの愛が世界を変える

マリアの行為は、常識的な人たちから見れば、へたくそで効率の悪いものだったかも知れません。しかし、全身全霊込めた精一杯の愛でした。そして、イエスさまはそれを喜んでくださいました。

その結果、この出来事は記念として3つの福音書に載せられ、「自分なんかに、イエスさまや世界のために、大したことができるはずがない」と思ってきた全世界の人たちを励ましてきました。

あなたが、あなたの周りの人や、遠くの人や、神の働きをしている人や団体のために精一杯捧げる時間、労力、知恵、お金、祈りなどを、イエスさまは喜んでくださいます。そして、それを通してすばらしいことを起こしてくださいます。

この話をお読みください

あなたがイエスさまを愛し、周りの人たちを愛していくとき、何かが起こります。香油の香りが部屋いっぱいに広がったように、あなたを通して世界が変わります。

このわずかなものを?

中通りコミュニティ・チャーチでは、礼拝式の献金のときに、会衆代表の方に祈りを捧げていただくということはしませんが、時々他の教会の集会に参加した際、「このわずかなものをおささげします。何倍にもしてお用いください」というふうにお祈りする方がいらっしゃいます。それは謙遜の表れであり、おかしな祈りではありません。

ただ、私としては、できれば「私たちひとりひとりは、精一杯の献金をささげました」と祈っていただきたいなあと感じます。なぜなら、実際、決して「わずか」ではないでしょう? 額を問題にしているのではありません。捧げられたものが100円であろうが、1万円だろうが、1000万円だろうが、そのときそのときの精一杯のはずです。たとえ「惜しいなあ」と思いながら捧げたのだとしても、それが今のあなたにとっての精一杯のはずです。だから、「精一杯ささげました」と祈っていいし、そう祈るべきじゃないか。私はそう考えるのです。

不思議なことに、良くやっていらっしゃる方ほど、自分は不十分だと自分を責めるようです。私たちの行ないや心が不十分なことは、最初から分かっています。私たちは、どこまで行っても完璧にはなれません。不十分なのです。しかし、イエスさまはあなたの精一杯の愛を喜んで受け取ってくださいます。

だから、自分を足りないと責める代わりに、もっとイエスさまや、イエスさまが愛しておられる方たちのために、何かができることを喜びましょう。
他の人に対する評価も
そして、他の人に対する評価でも、結果にだけ注目して、できなかったところを数え上げて責めるようなやり方だけでなく、相手のためを思う愛情とか、やる気とか、根気とか、正直さとか、創意工夫とかいう、内面にも注目し、それを積極的に評価することができればいいですね。

この話をお読みください

まとめ

私たちも、心からの愛、行動に表される愛、そして精一杯の愛を、イエスさまと人々のために実践しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • イエスさまがあなたにしてくださったことは何ですか? 今思いつくものを10個挙げて下さい。
  • 「もし〜だったら症候群」の話を聞いて、思い当たることがありますか?
  • 「今の自分にできること」は、今のあなたにとっては何ですか?
  • 今のあなたにとって「精一杯の愛」とは何をすることですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

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