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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

神は最善以外なさらない

マタイによる福音書26章36節〜46節

(2018年7月1日)

参考資料

イエスさまは、弟子たちと過越の祭りの食事(いわゆる最後の晩餐)をとった後、今回の舞台であるゲツセマネに移動なさいました。ここは、エルサレムの東にあるオリーブ山の、北西の山麓にあった場所です。アラム語で「オリーブ油を搾る」という意味の名の通り、オリーブの木がたくさん植えられていました。

37節の「ゼベダイの子二人」とは、ヤコブとヨハネのこと。

39節の「この杯」とは、神さまによるさばきのこと。ぶどう酒の赤い色が血をイメージするため、旧約聖書の預言書では、「杯を飲む」「酒ぶねを踏む」などの表現が、さばきの比喩的表現としてよく用いられています。

46節の「裏切る者」とは、イスカリオテのユダのこと。ユダヤの指導者たちはイエスさまを逮捕したいと思っていましたが、民衆が大勢いるところでは暴動に発展する恐れがあったため、人知れず捕らえる必要がありました。また、イエスさまを死刑にするには、ローマ総督に反逆罪で訴える必要がありましたが、それにはイエスさまがローマ帝国に反逆する意思があったことを証明しなければなりません。ユダは代価として銀貨30枚を指導者たちから受け取り、イエスさまが民衆と離れて過ごす場所を教えると共に、おそらく裁判で偽の証言をする役割を引き受けたのでしょう(裁判前に後悔して自殺したので、証言はしませんでしたが)。

イントロダクション

私たちは、生きている以上、様々な苦しみに直面します。そんなとき、どのようにそれを乗り越えていけばいいでしょうか。十字架の苦しみを乗り越えたイエスさまから学びましょう。

1.ゲツセマネの苦しみ

イエスの苦しみ

「十字架の苦しみ」と言いましたが、福音書の記者たちは、十字架の上でのイエスさまの苦しみを、どちらかというと淡々と描いているように思えます。むしろこのゲツセマネの場面の方が、イエスさまの苦しみを、より深く描き出しているようです。たとえば、
  • 悲しみもだえ、弟子たちに向かって「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言いました。
  • 弟子たちに「ここで一緒に目を覚まし、祈っていて欲しい」と願いました。
  • 父なる神さまに「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」、すなわちさばきを下さないでくださいと祈りました。
  • 汗を血のように流して苦しみ祈りました(ルカ22:44)。

情けない殉教者?

教会史の資料をひもとくと、多くの殉教者たちが、喜び賛美しながら死んでいったことが分かります。この話をお読みください

ですから、今回の箇所を表面的に読むと、なんだかイエスさまが情けなく見えてしまいます。実際、私がクリスチャンになる前、聖書を読んだ時にはそのような感想を抱きました。

しかし、殉教者たちの死と、イエスさまの十字架の死は、根本的に性質が異なります。殉教者たちは、肉体的には、イエスさまに負けず劣らず大変な苦しみを受けました。しかし、自分たちの救いが完成して、いよいよ天国に迎え入れられようとしていることを喜ぶことができました。人生の最後の最後に、命がけで神さまに従う方を選ぶことができたという誇りもあったことでしょう。

しかし、イエスさまの十字架は、殉教者たちとは真逆の結果をもたらします。天の父なる神さまに呪われ、捨てられようとしていたのです。

救い主が、犠牲の動物のように、人類の罪を赦すために血を流して死ぬことは、旧約聖書に預言されていました。「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」というイエスさまの祈りは、単に「死にたくない」という意味ではありません(もしそうなら、イエスさまは不信仰な祈りをしたということになります)。

杯とは、罪人に対する罰として、父なる神さまの呪いを受け、関係を完全に断ち切られるということです。これは旧約聖書には書かれていないことでした。ですから、イエスさまはそれは体験したくないと祈られたのです。

私たちは生まれながらの罪人で、神さまとの関係が希薄な状態で生きてきました。ですから、神さまから完全に切り離される苦しみがどれほどのものなのか、私たちにはなかなか共感したり想像したりできません。しかし、永遠の昔から父なる神さまと共におられたイエスさまにとって、それは耐えられないほどの悲しみや恐れを抱く痛みだったのです。

しかも、イエスさまは何も悪いことをなさっていません。罪がないのに、罪人とされ、つまりは「この世がこんなにも乱れ、悲しみや苦しみや争いや矛盾に満ちているのは、全部お前のせいだ」という濡れ衣を着せられて、罰せられるのです。そればかりか、自分に逆らい続ける敵(私たちのことです)のために、それをしなければなりません。

霊の戦い

ゲツセマネの園は、イエスさまにとって霊の戦いの戦場でした。神さまのみこころではなく自分の感情の方を優先させたいという自我との戦い、そして、神さまに逆らわせようとするサタンとの戦いです。

しかし、イエスさまはついに勝利を得ました。そして、神さまのみこころに従う覚悟を決めたとき、後は決意通りに十字架に向かっていかれました。福音書が、十字架そのものの場面を淡々と描いているのはそのためです。私たちの永遠の運命は、このゲツセマネでの勝利によってもたらされたと言ってもいいでしょう。

そして、死の直前、イエスさまは神さまとの親しい関係を回復しました(ルカ23:46で「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と叫んでから亡くなっています)。それから、イエスさまは復活し、死に対しても勝利なさいました。

あなたも今、いろいろな問題、苦しみ、悩みの中にいらっしゃるでしょうか。それを、霊の戦いであるととらえ直してみましょう。試されているのは、あなたがその状況で、何を優先させるかということです。

イエスさまは、神さまに従う方を選びました。そして、勝利を得ました。あなたも、問題を解決し、しかもただ解決するだけでなく、その問題を祝福の種にしたいと思われるでしょうか。ならば、イエスさまに、勝利の秘訣を学びましょう。それは2種類の祈りです。

2.正直な祈り

祈りによる勝利

ゲツセマネの勝利はどこからもたらされたのでしょうか。それは祈りです。あなたも祈りによって勝利することができます。

イエスさまはどのように祈られましたか? イエスさまは正直にご自分の気持ちを言葉になさいました。しかもその正直な気持ちというのは、必ずしも前向きなものではありませんでした。

その祈り方はどうだったでしょうか。「この杯を取りのけてください」と祈ったとき、静かにつぶやくように祈られたと思いますか? いいえ。ヘブル5:7には「自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ」と書かれています。イエスさまは、天の父なる神さまに向かって、泣き叫んだのです。

あなたも正直になろう

神の子であるイエスさまでさえ正直に祈られたのなら、ましてあなたや私にもそのような正直な叫びが必要なのではないでしょうか。

「悲しいです」「喜べません」「裏切られて悔しいです」「もう疲れて力が出ません」「不安でたまりません」……。もしもあなたがそう祈れたとしたら、もう半分勝利したのと同じです。なぜなら、そのとき、あなたの心の中にしまい込まれていた本当の問題が、神さまの光の中にさらけ出され、神さまがその問題に介入してくださるようになるからです。

「天国には宛先不明のプレゼントが山積みになっている」と言った詩人がいます。プレゼントを発送したくても、相手が正確な住所を教えてくれなければ、送りようがありませんね。神さまはあなたを祝福したいし、助けたいと思っておられます。しかし、格好をつけて、本当の問題を神さまの前に持ち出そうとしなければ、私たちはそれを受け取ることができなくなってしまいます。

神さまは正直者が好き

聖書の神さまは、正直にぶつかってくる人が好みのようです。旧約聖書を読むと、アブラハムにしても、ヤコブにしても、モーセにしても、ヨナにしても、ヨブにしても、ハバククにしても、聖書に出てくる偉人たちは、率直に神さまにぶつかっていきました。そして、神さまも全力でお答えくださいました。

天地の支配者とお話しするわけですから、礼を失さないようにはしなければなりませんね。しかし、同時に正直であることも大切にしていいのです。神さまは、礼儀正しいけれども水くさい関係よりも、正直に何でも言い合える親しい関係の方をむしろ喜んでくださいます。

3.従順な祈り

正直なだけなら

勝利の秘訣は正直な祈りというわけですが、それだけなら、異教徒の人々の方が率直かつ大胆に祈りますね。

しかし、クリスチャンの勝利の祈りは、ただ正直なだけではありません。どんなに無茶な願いを並べ立ててもいい。泣いたり、わめいたり、さんざん悪態をついたりしてもいい。それでも、最後には、イエスさまがなさったように「神さまのみこころの通りになりますように」と祈るのです。

なぜそう祈るのか

なぜ、私たちは自分たちの正直な気持ちや願いを祈るだけでなく、「神さまのみこころのままに」と祈るのでしょうか。それは、「神さまは最善以外のことをなさらない」と信じているからです。

私たちは、感情ではイヤだと思うかもしれません。自分の考えや計画が一番だと思うかもしれません。しかし、それでも神さまのご計画が一番だというところに戻っていきます。だから、「みこころがなりますように」と祈るのです。

今、言葉に出して宣言しましょう。「神さまは、最善以外のことをなさらない」。

いやされた人といやされなかった人

神学生の頃、2人の印象的な女性と出会いました。と言っても、浮いた話ではなく、神さまのために働いているクリスチャンの先生方で、一人は牧師夫人である池田登喜子先生、もう一人はカウンセラーである矢部登代子先生です。二人とも、病気や怪我が元で歩けなくなってしまったという、共通の体験をお持ちです。

池田先生は、貧しさ故に十分な治療ができず、足の骨まで腐って、ぶよぶよになってしまいました。しかし、あるとき、宣教師の祈りによって奇跡的にいやされ、ほとんど不自由なく歩くことができるようになりました。そして、伝道者となって、神さまはどんな絶望的な状況からも、人を救い出すことができるのだということを、ご自分の体験によって語っておられました。

一方、矢部先生はいやされませんでした。むしろ、治療がうまくいかず、かえって関節が固まってしまい、車いすに座ることさえできない体になってしまいました。しかし、絶望の中で聖書に出会い、「人は生きているのではなく、生かされているのだ。生かされている以上、どんな人にも生きる意味と使命が与えられているのだ」ということを知らされます。そして、生きる希望を見出されたのでした。

そんな矢部先生の元に、たくさんの子どもたちが集まってくるようになりました。そして、悩みを抱えた人たちが集まってくるようになりました。その集まりは、やがて教会になりました。

池田先生はいやされることによって、矢部先生はいやされないことによって、それぞれに神さまの愛や力を人々に伝え、人々を慰めたり励ましたりしておられました。

どうして、一方はいやされ、一方はいやされなかったのか。どうして逆ではいけなかったのか。あるいは、どうして二人ともいやされるのではいけなかったのか。それは分かりません。しかし、大切なことは、お二人とも、与えられた人生を最終的に受け入れ、そこで神さまに従おうとなさったということです。それが、それぞれに最高の人生をもたらしました。

私たちのためにも、神さまから最高の人生が用意されています。私たちは、まずそのことを信じなければなりません。今一度宣言しましょう。「神さまは、最善以外のことをなさらない」。あなたは今、戦いの中にいらっしゃいますか? 知ってください。あなたの上にも、神さまの最善が実現しつつあります。

まとめ

正直さと従順、どちらか一方だけではいけません。
  • 正直でなければ、信仰生活が苦しくなり、いつか嫌になってしまいます。
  • 従順でなければ、単なる自己中心で、信仰とは言えません。
そのどちらも大切にしましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 今あなたは、どんな苦しみや悩みを抱えていらっしゃいますか?
  • その悩みや苦しみの背後には、どのような霊の戦いがありますか?
  • まだ神さまに打ち明けていない気持ちや願いが残っていませんか? 正直になるとしたら、どのように祈りますか?
  • 神さまがあなたに願っていることで、まだあなたが実行していないことは何ですか?
  • 自分の計画よりも、神さまの計画の方が優れていたというのに気づいたということが、最近ありましたか?
  • 正直さと従順のバランスが崩れてしまっていたなあと気づいたことが、最近ありましたか? その結果、どんな不具合が生じましたか? そして、どんなふうに対処しましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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