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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

自分にがっかりしたとき

マタイによる福音書26章69節~27章5節

(2018年7月8日)

参考資料

イエスさまが逮捕され、夜通し不当な取り調べを受けている背後で展開している物語です。

新改訳第三版で、26:74の「のろいをかけて誓い始めた」は、新改訳2017「噓ならのろわれてもよいと誓い始め」。

ユダが自殺した場所はヘブル語でアケルダマ(血の畑、血の地所)と呼ばれるようになりました(27:8、使徒1:19)。エルサレムの南に走るベン・ヒノムの谷の東端(エルサレム東のケデロンの谷との合流地点近く)にあります。ここは昔、子どもをモレク神にささげる祭壇がありました(第2列王23:10、エレミヤ32:35)。

イントロダクション

私たちは神さまではなく、人間です。当然、完璧ではあり得ませんし、失敗もたくさんしてしまいます。そんなとき、私たちは自分自身にがっかりして落ち込んでしまいます。

また、自分が思い描いたとおりに物事が進まず、自分はなんと不幸な星の下に生まれたんだろうかと、自分の人生に絶望してしまいそうになることもあります。

しかし、私たちクリスチャンは、失敗したり、嫌な出来事に遭遇したりして悲しむことがあったとしても、ただ悲しいだけで終わらせるのではなく、それを糧にもっと素晴らしい人生を手に入れることができます。

この話をお読みください

今回は、同じようにイエスさまを裏切り、失敗してしまったペテロとユダに注目します。そして、失敗して落ち込んでしまったり、自分の人生にがっかりしてしまったりしたときに、どう対処すればいいかということを学びましょう。

1.ペテロとユダ

失敗して回復したペテロと自殺したユダ

二人とも、イエスさまの弟子として従い、その中でもいつもおそば近くに従う十二使徒に選ばれ、3年半の間、寝食を共にしました。そして、イエスさまから悪霊を追い出し、病気をいやす力を与えられ、人々を助けました。

しかし、十字架の直前、二人ともイエスさまを裏切りました。ペテロは、イエスさまが逮捕される前、「他の弟子が裏切っても、私は決してあなたを見捨てない」と豪語しました。しかし、イエスさまは「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」と彼に告げます。そして、その通りになりました。

ユダは、イエスさまがゲツセマネの園にいることを祭司長たちに密告し、捕り方に同行して、誰がイエスさまなのかを口づけによって示して、逮捕を援助しました。

そして、二人とも自分がイエスさまを裏切ってしまったことを深く後悔し、自分を責め、悲しみました。
ペテロのその後
しかし、その後の二人は異なる道を歩みました。ペテロは、弟子たちの交わりに戻ってきました。そして、その後、教会の中心的なリーダーの一人として活躍します。

今回の失敗は、むしろペテロを優れたリーダーにしました。おっちょこちょいで、熱しやすく冷めやすい人物だったペテロですが、熱血漢の良い部分は保ちながらも、同時に思慮深く、自分を過信することのない慎みを手に入れました。そして、罪の問題を抱えた人間に対して、上から目線で指導するのではなく、深い哀れみと忍耐に満ちた関わり方をするようになりました。自分が失敗してしまったからです。

ペテロは、とんでもない失敗をしましたが、それがかえってペテロを成長させ、よりすばらしいことがこの地上で起こることになったのです。
ユダのその後
一方、ユダは祭司長たちに自分の罪を告白し、裏切りの報酬として受け取った銀貨30枚を返そうとしますが、相手にされずに追い返されます。そこで、銀貨を神殿に投げ込んでから、首をくくって自殺してしまいました。

当然、その後の話は出てきません。彼は、ペテロのように失敗から立ち直ることも、むしろ失敗を糧にして成長することもありませんでした。

同じように失敗をして、自分を責め、悲しんだ二人ですが、結末は全く異なります。いったい何が二人の行く末を変えたのでしょうか。

私たちも失敗します。私たちも不十分です。なすべきことができなかったり、してはいけないことをしてしまったりして、後でそんな自分にがっかりして、落ち込み、悲しむことがあります。

失敗や不十分であることが避けられないのなら、私たちもペテロのように立ち直り、失敗を糧として成長したいと思います。ペテロとユダの違いを、さらに詳しく見ていきましょう。

潔いユダと図々しいペテロ

ユダは、祭司長たちのところに行って、今回の裏切りが神さまに対する罪だったということを告白しました。しかし、祭司長たちは彼に言い放ちます。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ」(27:4)。

「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23 新共同訳)と言われています。罪を償うには、死ぬしかないとユダは考えました。そこで、失敗の問題を始末するために、自分を殺してしまったのです。

これはペテロにも当てはまるはずです。私たちは大きな罪、小さな罪というふうに比較しますが、どんなに小さい罪、軽い罪でも、罪は罪です。罪という言葉は的外れという言葉から来ていますが、1センチ外れていようが、1メートル外れていようが、的外れは的外れ。ダーツや射的なら得点はもらえませんね。罪もこれと同じで、人間同士でどちらの罪がよりひどいかを比較するのは意味がありません。

だから、ペテロも死んでお詫びするしかないはずでした。しかも、「嘘だったら神さまに呪われてもよい」とまで言って誓ったのですから、なおさらです。ところが、彼はさんざん泣いた後、ぬけぬけと生き延びてしまいます。そして、これまたぬけぬけと弟子たちの交わりにとどまり、教会の指導者にさえなってしまいます。

この図々しさはいったい何なのでしょうか。ペテロが失敗して味わった悲しみや罪責感は、本物ではなかったのでしょうか。

いいえ、二人の悲しみの質が問題なのではありません。失敗の悲しみや落ち込みは、私たちをより良い生き方に導くきっかけに過ぎません。大切なことは、悲しんだ後、そこにとどまり続けないで、建設的な方向に心と頭を切り換えることです。

すなわち、「今回は失敗した。それは非常に残念なことだ。しかし、それはそれとして、これからどうしよう。どうしたら同じ過ちを繰り返さないですむだろうか。今回の失敗をどう生かしたらいいだろうか」と考え、実践するということです。

失敗した、不十分だったという過去から目を上げて、これからどちらの方向に進んでいくのか、そのために今何をしようかという、未来と現在に目を向けるということですね。

ペテロはそうしました。イエスさまを裏切ってしまった過去に苦しみました。それに目をつぶり、自分は悪くないと自分に嘘をついて、失敗がなかったことにしたわけではありません。ここまではユダも同じだったのですが、ペテロはさんざん泣いた後、これからのことを考えることができたのです。

赦しを受け取ったペテロと受け取らなかったユダ

ペテロになぜそれができたのか。それは、彼がイエスさまの赦しを受け取ったからです。

ユダは、祭司長たちの元に行って罪を告白しましたが、「自分でどうにかしろ」と突き放されて、自分を殺すしかありませんでした。しかし、ペテロは復活して姿を現したイエスさまの元に行きました。

ヨハネの福音書には、湖の湖畔にイエスさまが現れたとき、船の上にいたペテロが服を着たまま水に飛び込み、泳いで近づいたことが記されています。

イエスさまは、祭司長たちのようにペテロを突き放したりなさいませんでした。イエスさまはペテロに「あなたはわたしを愛するか」と3度お尋ねになりました。これは、ペテロが3度「イエスなんて知らない」と言って失敗したので、3度やり直しをさせてくださったということです。イエスさまはペテロの罪を赦してくださいました。

イエスさまに赦されたから、ペテロは過去をくよくよ考えることをやめました。ただし、記憶に蓋をして、無かったことにしたのではありません。それは苦い思い出としてこれからも持ち続けるけれど、それはもう赦されている。だからこの経験をこれからどう生かそうかと、今と未来に頭と心を切り替えることができたのでした。

ユダもペテロも自分の失敗や不完全さや罪深さを悲しみ、後悔しました。しかし、ペテロの場合には、赦しを前提とした悲しみでした。だから立ち直ることができたのです。

では、ここから私たちはどのような生き方をすればいいでしょうか。

2.健康な悔い改めをしよう

悲しみから逃げないこと

皆さんは、より良い生き方がしたいと願っておられると思います。私もそうです。しかし、不完全な存在である以上、何度も同じような失敗を繰り返したり、理想の自分と現実の自分のギャップを思い知らされたりして、悲しんだり落ち込んだりします。

そんなとき、いいわけをしたり、ごまかして無かったことにしたりしないで、そういう自分をしっかりと悲しみましょう。ペテロは悲しみを受け入れました。

赦しを受け取ること

しかし、そこにとどまるのは一瞬です。長々と落ち込んだり自分を責めたりする必要はないし、そんなことをしてはいけません。

神さまは、罪責感やそれに伴う悲しみや落ち込みを、今の生き方を見つめ直すきっかけにしてもらいたいのです。いったん、間違った生き方にブレーキをかけたなら、いつまでもそこにとどまることを神さまは望まれません。

そこで、自分の失敗や不完全さを認めたら、さっさとイエスさまのところにその問題を持って行きましょう。そして、イエスさまの十字架と復活によって、その罪や不完全さが完全に赦されていることを確認します。失敗を繰り返すこのような私を、イエスさまは愛してくださっているのだということを確認しましょう。

現在と未来とに目を向けること

赦されているのだから、もう自分を責めるのはおしまいです。自分を責めているうちは、私たちは変化・成長することはできません。自分を責めたり、「こうすれば良かった」「ああすれば良かった」と、いまさらどうしようもないことを考えたりすることに、エネルギーと時間を費やすことになるからです。

赦されている私たちは、
  • 「じゃあ、今できることは何だろうか」
  • 「今度同じことが起こったらどう行動しようか」
  • 「同じ失敗をしないために、どんな工夫ができるだろうか」
  • 「この失敗を、どんなふうに今後に生かせるだろうか」
と考えましょう。そして、今できることをさっそく始めましょう。

この話をお読みください

まとめ

ペテロだけでなく、聖書に出てくる多くの信仰の先輩たちは失敗しました。アダムも、ノアも、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、モーセも、ダビデも、パウロも、みんな失敗者です。しかし、失敗を通して神さまの赦しを体験し、失敗を糧にしてさらに神さまと人とに仕えることができるようになりました。

人である以上、私たちも失敗や不十分さからは逃れられません。自分の思い通りに物事が進んでいかないこと、むしろこんなことは怒って欲しくないというようなことが起こることもたくさんあります。しかし、いつも神さまの赦し、神さまの愛を前提にして考えることができる私たちは、失敗や問題を成長の糧にすらすることができます。

あなた自身への適用ガイド

  • 最近、自分の不十分さや失敗を思い知らされて、落ち込んだり悲しんだりしましたか?
  • 失敗したことで、その後かえって成長したと思えるようなことがありますか?
  • 過去の失敗で、何かにつけて思い出され、苦しんでしまうようなものがありますか?
  • それに対して、イエスさまはなんとおっしゃっていますか? そして、あなたはその失敗をこれからの生き方にどう生かせばよいと思いますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com


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