(2018年8月5日)
参考資料
使徒の働き2章はとても大切な箇所ですが、2:1-41については、ペンテコステ礼拝の時によく取りあげています(たとえば
こちら)。また、2:42-47については、
2017年4月2日に取り上げましたので割愛します。
「宮」(1節)は、エルサレムにあった神殿のこと。
「美しの門」(2節)は、エルサレム神殿で、異邦人も入れる領域とユダヤ人しか入れない領域の間にありました。たくさんの人々が出入りしますから、物乞いにはもってこいの場所です。
「ナザレ」(6節)は、イスラエル北部にあった村で、イエスさまが幼少期から30歳頃まで生活していた場所です。
「ソロモンの回廊」(11節)は、神殿をぐるりと取り囲んでいる列柱回廊(庭園などの周囲を、何本もの柱に屋根を乗せた通路で取り囲んだもの)のうち、南側を除く三面のこと。なお、南側の回廊は「王の柱廊」と呼ばれていました。
イントロダクション
今回は特に、使徒ペテロの言葉、
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)に注目します。ここから、私たちが特に心がけるべきことを教えていただきましょう。
1.ペテロの言葉
金銀は私にはない
今回の箇所は、ペンテコステの日に聖霊さまが弟子たちの上に降り、エルサレムに最初の教会が誕生した直後の話です。
イエスさまの弟子であるペテロとヨハネが祈るために神殿に出かけると、足が不自由な人が物乞いをしていました。ペテロたちが通りかかったとき、その人は施しを求めました。彼が求めていたものは、お金でした。
しかし、ペテロは彼に言いました。「金銀は私にはない」。初期の教会の人たちは、持ち物をすべて共有にして、必要に応じて分配していましたから(2:44-45)、ペテロたちは余分な財産を持っていませんでした。このときも、ペテロたちの財布には何も入っていなかったことでしょう。それをペテロは堂々と宣言しました。「金銀は私たちにはない」。
私にあるものをあげよう
ペテロとヨハネはお金を持っていませんでしたから、お金をあげることでこの人を助けることはできません。しかし、だからといって彼らは何もしなかったわけではありません。彼らは自分にできることをしました。
ペテロとヨハネには、イエスさまによっていやしを行なう力が与えられていましたから、この人を歩けるようにしてあげました。もう物乞いをする必要がなく、自分の力で働いて生活することができるようになったわけですね。
でも、とあなたはおっしゃるかもしれません。「私にはいやしを行なう力もありません」と。
いやしの力がを持たない人は、ペテロたちのように奇跡的ないやしを行なえないことを嘆く必要はありません。「私にはいやしの力はない」と堂々と宣言して、自分にできることは何か考え、それを実践しましょう。
私たちには、それぞれできないこと、不得意なことがたくさんあります。他の人と比較して、自分はあんなふうにできないと、自分を責める必要はありません。できないことではなくできること、持っていないものではなくすでに持っているものに目をとめて、それを使って愛を実践しましょう。
イエス・キリストの名によって歩け
さて、ペテロがいやしを行なう際、「イエス・キリストの名によって」と言いました。このフレーズは、クリスチャンが祈りの最後によくくっつけますね。これは、イエスさまの以下の言葉に基づいています。
「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。……その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません」(ヨハネ16:24,26)。ヨハネ14:13-14、15:16にも同様の約束があります。
私たちは罪人ですから、生まれつき天の父なる神さまと断絶状態、いわば敵対関係にありました。ですから、神さまに何かを願って、それを快くかなえていただけるような、そんな親密な関係ではありませんでした。
しかし、イエスさまが私たちの罪の罰を身代わりに受けて、十字架にかかって復活してくださったことにより、私たちのすべての罪は赦されて、私たちは神さまの子どもにしていただきました。子どもがお父さんと親しく交わり、自由にお願いができるように、私たちも神さまに対してそうすることができるようになりました。
しかも、イエスさまは日々私たちのために父なる神さまにとりなしをしてくださっています。
「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです」(ローマ8:34)。
ですから、私たちは、「自分のような者の祈りを、神さまが聞いてくださるはずがない」などと臆することなく、大胆に祈ることができます。イエスさまのおかげで、私たちの祈りを神さまが真剣に取り扱ってくださると信じながら祈ること。それが「イエスさまの名による祈り」です。
もちろん「イエスさまの名によって」というフレーズをくっつければ、何でも願いが叶うということではありません。普通だったら会えないようなVIPと面談するために、その人と懇意な人に間を取り持ってもらったとします。その際、もし私がVIPの前で失礼な行動をしたり、恥ずかしい行ないをしたりしたら、間を取り持ってくれた人に対しても失礼になりますね。
イエスさまのお名前を使って神さまにお願いする以上、イエスさまに恥ずかしい思いをさせないようにする義務が私たちにはあります。「イエスさまだったら、どんな祈りをなさるだろうか」。「イエスさまは、私がどんな祈りをすることを喜ばれるだろうか」。そう考えながら、祈ることが「イエスさまの名による祈り」です。
私たちは何でもかんでもできるわけではありませんが、クリスチャンであれば、全員イエス・キリストによって祈ることができます。祈りは強力な愛のわざの一つです。積極的に用いたいですね。
では、ここから今の時代を生きる私たちへの教訓を、さらに詳しく見ていきましょう。人々のために、そして神さまのために差し出すことができる「私にあるもの」とは、私たちにとっていったい何でしょうか。
2.私たちにあるもの
心からの願い
ペテロとヨハネは、お金を持っていませんでしたが、この人を助けたい、この人がイエスさまの恵みを知り、もっともっと神さまの愛し、ほめたたえることができるようにしてやりたいという、強い願いを持っていました。そして、そうなることをイエスさまが望んでおられると知っていたので、彼らは「イエス・キリストの名によって」いやしを行ないました。
たとえあなたにいやしを行なう能力が与えられていなくても、イエスさまのお名前によって祈り、イエスさまのお名前によって行動することはできます。
大切なのは、イエスさまに喜んでいただくために、自分は何かをしたいと願う真実な思いです。また、イエスさまが命がけで愛しておられる人々が、本当の幸せを手にするために何かがしたいと願う思いです。
あなたにはそういう思いがありますね? その思いをもっともっと育てましょう。そして、それを実際に行動に移しましょう。
聖霊の賜物の発見と活用
ところで、ペテロやヨハネに与えられていたいやしの力は、「聖霊の賜物」です。聖霊なる神さまは、教会に属するクリスチャンひとりひとりに異なる奉仕の能力を与えてくださいます。それが聖霊の賜物です。
聖霊の賜物は、すでに持っている能力や持ち味をさらに引き出すという方法で与えられる場合もあるし、奇跡を行なう力などのように新たに与えられる場合もあります。
もちろん、音楽の賜物が与えられていなくても、クリスチャンはみんな賛美します。伝道の賜物が与えられていなくても、クリスチャンはみんな伝道します。そして、いやしの賜物が与えられていなくても、クリスチャンは病を負った人のいやしを求めて祈ります。これらは皆、クリスチャンに与えられている役割、使命の一部です。聖霊の賜物は、その中の一つ、二つについて、より専門的に行なうことができるエキスパートとするために与えられるものです。
いやしの賜物が与えられなくても、私たちはいやしを求めて祈らなければならないし、それによって人がいやされることがあります。ただ、賜物を与えられている人は、高い確率でいやしの祈りが聞き届けられやすいということです。
私たちは、ないものにではなく、あるものに目をとめる必要があります。自分には一体どんな賜物が与えられているだろうかと考えてみましょう。それを発見するヒントを紹介します。あなたが神さまのため、あるいは人のために何をしようか考えたとき、
- 自分がどんな分野に興味があるか
- 何をやっているときに楽しいなと心から思えるか
- どんな働きについて「どうしてもこれはしなければならないことだ」と感じるか
それを思い巡らせてみましょう。
たとえば、私自身のことについて言えば、私は初対面の人とフランクに話をするのは苦手ですし、何か新しいことを思いつき、企画し、みんなを上手にリードして実行に移す力もありません。しかし、メールや手紙でやり取りすることについては苦になりませんし、テキストを書いたり、こうやって語ったりすることによって人を教えることは大好きです。また、歌うことによって神さまを賛美したり、人に大切なメッセージを届けたりするのも好きです。そして、「誰かを援助するためにがんばっている人」を励まし、応援することについて、自分がどうしてもしなければならないことだと感じています。
だから「金銀は私にはない」と言ったペテロのように、私は言うのです。「私には企画力も、リーダーシップもない」。もちろん、それで終わってはただの怠け者ですから、私は自分にできることを行ないます。
なお、過去の肯定的な体験だけでなく、失敗体験とか傷ついた体験とかも賜物として用いられます。ある方は、2度の結婚が破綻してしまいました。それによって、クリスチャンは同じ信仰を持っている人と結婚することが大切だということを学びました。しかし、日本ではなかなかクリスチャンの男性と出会う機会がありません。そこで、礼拝に忠実に出席しているクリスチャン限定の、出会いの場を企画運営し始めました。
別のクリスチャンは、ご自分が親から虐待を受けた経験をお持ちです。イエスさまと教会の人々によってその心の傷がいやされ、いやされすぎて、今は虐待されている子どもたちのために、居場所作りをする働きをしています。
あなたにできないこと、そしてできることは何ですか? 聖霊さまがあなたに与えておられる賜物、奉仕の能力は何ですか? それを見つけ出して大いに活用しましょう。
教会の働きへの参加
さて、聖霊の賜物について考えるとき、これは誰か個人が賞賛されたり、プライドを満足させたりするために与えられるものではないということに注意する必要があります。特に、奇跡を行なう力や大衆伝道、音楽、説教など、人前で大々的に目立つ働きを生み出す賜物には注意しましょう。ペテロも12節で
「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか」と語っていますね。
聖書は、教会をキリストのからだであり、私たちクリスチャンはその体の各器官(部分)にたとえています(第1コリント12:27、エペソ4:12など)。目や手は素晴らしい器官ですが、体を離れては何もできません。体の各部分は、互いに尊重し合い、助け合って様々な働きを行なっています。それと同じように、教会も互いに尊重し合い、協力し合うことで、イエスさまの働きを地上で行ないます。
聖霊なる神さまが、教会に属するメンバーひとりひとりに様々な賜物を与えてくださっているのはそのためです。賜物は、奉仕のための能力です。一人のクリスチャンにできることは限られています。それぞれに得手不得手があります。ですから、各自が自分にできることを持ち寄って、互いに支え合い、協力し合って何かを成し遂げます。それが教会です。
教会では、すべての信者が自分にできる働きを忠実に行なうことが求められています。そうして、みんなで神さまの栄光を現し、お互いや世の人々に仕えていくわけです。牧師が事業主のように教会を動かし、メンバーはお客さんとしてサービスを受けに来るだけという教会は不健全です。
中通りコミュニティ・チャーチの場合、牧師である私が、「何か新しいことを思いつき、企画し、みんなを上手にリードして実行に移す力は私にはない」のですから、事業主のようにひとりで教会を動かすのはそもそも不可能です。私たちの教会は、さまざまな賜物が与えられている素晴らしい方々の集まりです。すでに、皆さんは積極的に神さまとお互いと世の人々に仕えておられます。ですから、私はこれからも、いやこれまで以上に、教会の運営や活動について、教会メンバーの皆さんの知恵や力に頼りたいと思っています。
教会員制度
なお、多くの教会では、洗礼を受けたら自動的に教会員になりますが、この教会では改めて「教会員になりたい」と願い、教会員とは何かということについて学び、入会式を経て会員となります。本来は、救われることと教会に属することが一つであることが望ましいのですが、意識して教会員であることを選択して欲しくて、そういう制度にしています。
普段の礼拝式にいらっしゃっている方々の中で、誰が教会員なのかそうでないのかは、外から見た限りではほとんど分からないはずです。教会員かそうでないかは、教会がその人をどう扱うかということよりも、その人が教会と自分の関係についてどう考えているかということの方に重点が置かれているからです。
中通りコミュニティ・チャーチの教会員であるということは、主に次のような意識を持っておられるということです。
- この教会が自分の教会であり、自分はこの教会の一部分なのだという意識
- この教会の学びや訓練を通して、クリスチャンとして成長していくのだという意識
- この教会の働きに自分も加わり、神さまと人とに仕えていくのだという意識
もし、自分もこのような思いを共有したい、この教会の教会員になりたいと思われたなら、ぜひ牧師にお声かけを。
まとめ
一人一人、自分にできることを行なうことで、神さまと人とに仕えていきましょう。
あなた自身への適用ガイド
- 持っていないものにばかり目をとめて、すでに持っているものを使うことを軽んじていたなと思い当たることがありますか?
- あなたが得意なこと、好きなこと、興味のあることは何ですか? 神さまや人に仕えるために、それらをどんなふうに用いることができますか?
- 教会を通して神さまに仕えるため、あるいは教会内外の人たちに仕えるために、あなたにできることは何だと思いますか?
- ご自分の「イエスさまの名による祈り」について、気づかされたことは何ですか?
- あなたは特定の教会の教会員ですか? 教会員であるということ、あるいはこれから教会員になるということについて、今はどんな考えを持っていますか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?