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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

非難されても平安でいるために

使徒の働き26章6節~13節

(2018年9月2日)

参考資料

前回、貧しい人たちへの配給を専門に指揮するために選ばれた7人のうちの1人、ステパノは、「恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行って」(6:8)いました。反対者が議論を挑みますがかないません。そこで、彼らは「私たちは、彼がモーセと神を冒瀆することばを語るのを聞いた」(6:11)という嘘の証言をしてステパノを逮捕させました。最高法院に引き出されたステパノは、旧約聖書の歴史を語り始めました。今回の箇所は、その結末です。

51節の「うなじを固くする」とは、神さまの命令や導きに対して、頑固に抵抗することです。ロバなどを目的の場所に導こうとしても、首を固く突っ張って抵抗する様子から来ています。

51節の「割礼」は、ユダヤ人の男子が、生まれて8日目に、生殖器の包皮を切り取られる儀式。イスラエル民族が、神さまと契約を結んだ民であることを示すしるしです。「心と耳に割礼を受けていない人たち」というのは、表面上はさも宗教的に振る舞いながら、本心では神さまに聞き従おうとしない偽善者たちという意味です。

58節で、人々はステパノに石を投げつけましたが、これはモーセの律法に定められた死刑の方法です。ステパノは神を冒涜した罪で死刑になりました(レビ24:14-16)。証人たちの上着を預かった「サウロ」は、後の使徒パウロです。

イントロダクション

私たちは他人から自分の失敗や問題点を指摘されることがあります。その指摘が的を射ている場合もあるし、冤罪や誤解ということもあるでしょう。いずれにしても、そのようなときに逆ギレしたり、間違いをごまかすために嘘をさらに重ねたり、慌てて変な言動をしてかえって問題を複雑化してしまったりしないで、冷静に、そして建設的に対応するにはどうしたらいいのでしょうか。

それを学ぶため、無実の罪を着せられたステパノと、彼から逆に罪を指摘された指導者たちの反応を比較してみましょう。

1.両者の比較

罪の指摘

ステパノは、神を冒瀆した罪で訴えられ、逮捕されましたが、これは嘘の証言に基づく全くの冤罪でした。

ステパノは、裁判の席で、イスラエルの歴史を語り始めました。特に、モーセに関しては長く語られています。モーセは、神さまがイスラエルの解放者として遣わしたリーダーでしたが、イスラエルの民はしばしば彼に逆らいました。また、モーセの後に遣わされた多くの預言者たちも、たびたび迫害され、殺される者たちもたくさんいました。

ステパノが国の歴史を振り返った目的は何でしょうか。それは、彼の弁論を聞いている指導者たちもまた、モーセや預言者たちを受け入れなった先祖たちと、同じ過ちを繰り返しているのだということを示すためです。

歴代の預言者たちは、やがて神さまが「正しい方」(52節)を遣わしてくださると預言してきました。すなわち、神の国の王であり、人を罪から解放する救い主(メシア、キリスト)です。ところが、実際にイエスさまが救い主として来られたのに、時の指導者たちは、イエスさまを救い主として受け入れず、十字架につけて殺してしまいました。

つまり、神さまに逆らう者として裁かれているはずのステパノが、裁いているはずの指導者たちを、逆に神さまへの反逆者として糾弾したわけです。

ステパノも、また指導者たちも、本当に罪を犯したかどうかは別として、それぞれ他人から罪を指摘され、非難されました。ここまでは同じです。しかし、両者の反応は異なりました。

指導者たちの怒り

ステパノに罪を指摘された指導者たちは、激しい怒りを覚えました。そして、ステパノを罪人として死刑にしてしまいました。

彼らはなぜ怒ったのでしょうか。ステパノの逆襲を受けた指導者たちは、「はらわたが煮え返る思い」(54節)をしました。これは、直訳すると「心がのこぎりでひかれる」という意味の言葉です。それだけ、心に深い痛みを覚えたわけですね。

私たちは、自分の間違いや、足りないところ、罪を指摘されると、それが的を射ていてもいなくても(むしろ、当っていればいるほど)、心が激しく痛みます。
怒りは二次感情
人はなぜ怒るのでしょうか。怒りは「二次感情」と呼ばれています。まず最初に別の感情があって、それが原因となって怒りが引き起こされるからです。

たとえば、人から約束を破られたとします。すると期待が裏切られて悲しい思いをします。これが一次感情ですね。そして、悲しみという嫌な思いをさせた相手に対して、復讐するためにわき上がるのが怒りなのです。怒りは、復讐感情、処罰感情なのですね。

指導者たちが怒りを覚えたのは、自分のことを罪人呼ばわりして、心が引き裂かれるような痛い思いを与えたステパノに復讐するためです。
否認
つまり、彼らは、自分たちの間違いを認めようとしなかったのです。その結果、罪を指摘したステパノに怒りを向けました。

ペンテコステの日に聖霊さまが下ってこられ、教会が誕生したときと比べてみましょう。物音に驚いた人々がたくさん集まってくると、使徒ペテロが立ち上がり、話を始めました。その内容は、ステパノの弁論と同様、イスラエルの人々がイエスさまを受け入れず、殺してしまった罪を指摘するものです。「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(2:36)。

では、その反応はどうだったでしょうか。「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った」(2:37)。そして、ペテロの勧めに従って、罪を告白してイエスさまを信じ、そのしるしとして洗礼を受け、教会の交わりに加わりました。今回の指導者たちと大違いですね。

ステパノは指導者たちに言いました。「あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」(51節)。イエスさまは、ご自分が天にお帰りになった後に来られる聖霊さまについて、こう説明なさいました。「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます」(ヨハネ16:8)。聖霊さまは私たちの罪を指摘し、悔い改めに導こうとなさいます。しかし、指導者たちは、ステパノが語ったように聖霊さまに逆らって、自分の罪を否認してしまったのです。

ステパノの平安

一方、ステパノの反応はどうだったでしょうか。彼の場合には全くの冤罪です。悪意を持って罪人呼ばわりされました。怒って当然の状況です。

しかし、痛みと怒りに満ちた指導者たちと違って、ステパノの心は平安に満ちていました。今まさに殺されようとしている時でさえ、彼の心は穏やかでした。その精神的余裕は、石で打ち殺される肉体的な痛みの中でも、石を投げる人々に罪を負わせないで欲しいと、神さまに取りなす祈りを生み出しました。
神との平和
いったい、この平安はどうして与えられたのでしょうか。それは、ステパノが神さまとの間に平和を体験していたからです。聖霊さまに逆らっていた指導者たちと違い、彼は聖霊に満たされていました。神さまとイエスさまが姿を現し、彼を励ましてくださいました。

三位一体の神さまと良い関係にある。神さまが自分を愛し、受け入れ、この存在を喜んでくださっている。ステパノにはそういう確信がありました。ですから、どんな困難がやってきても、大丈夫だと思うことができたのです。

たとえ死んで、肉体が滅びたとしても、魂が神さまの身元に引き上げられ、今よりももっと神さまとお近づきになれるから大丈夫、と。でも大丈夫だと。だから彼は、大胆に振る舞うことができたし、精神的な余裕を持っていられたのです。
赦しの確信
ステパノと神さまとの間の平和は、どのようにしてもたらされたのでしょうか。それは、ステパノが正しい人だったからではありません。彼は人間的な基準からすれば高潔な人物でしたが、神さまの要求基準からすれば、一人の罪人です。

神さまの前では完璧な人間など誰もいません。ステパノにも罪があるのです。間違いや不完全さ、弱さがあるのです。その意味では、指導者たちや私たちと変わることはありません。

しかし、ステパノはクリスチャンです。クリスチャンとは、「イエスさまが身代わりに死に、復活したことによって、ただで罪を赦され、神さまに受け入れられ、大いに祝福される」という、とんでもなく図々しいことを信じている人たちです。

自分が赦され、神さまに愛されていることを信じたステパノは、自分が罪人だということも素直に認め、悔い改めることができました。その結果、神さまとの間に平和を体験していました。全知全能の神さまと仲良くなったと信じていたということです。

その結果、何が起ころうとも、必ず神さまは自分を幸せに導いてくださると信じていました。自分が望んだとおりのことが起こらなくても、それでも最高の未来が待っていると信じていました。そこで、「たとえ誤解されても大丈夫」「たとえ人に非難されても大丈夫」「たとえ殺されても大丈夫だ」という平安に満たされていたのでした。

私たちも、誰かに問題点を指摘されたとき(あるいは自分で自分の過ちに気づかされたとき)、指導者たちのように感情的で間違った対応をするのではなく、その指摘が本当だったときだけでなく、仮に誤解や意地悪で問題点を指摘されたときでさえ、ステパノのような穏やかで、そして真実な対応をしたいですね。そのための心得を整理してみましょう。

2.ステパノのような対応をするために

赦しを確認しよう

指導者たちとステパノの違いは、罪が示されたとき、否認するか、否認しないで認めるかの違いでした。そして、その違いは、イエスさまによって、すでに赦され、愛されているということを信じるかどうかの違いです。

私たちも、イエスさまによって完全に罪が赦されているのだということ、世界中のすべての人が自分を責めたとしても、神さまは自分を赦し、受け入れてくださっているのだということを、いつも意識していましょう。

明るい未来を思い描こう

私たちが素直に自分の間違いや、自分が足りないところを認められないのは、それを認めたら人生がこの先大変なことになると、どこかで思っているからです。

イエスさまによる罪の赦しを信じ、神さまと良い関係にあることを確認していたステパノは、どんな状況に陥っても、必ず素晴らしい未来が待っていると信じることができました。ですから、ありもしない罪で責められても、過剰に反応したり、相手を呪ったりしなくて済みました。

私たちも、たとえ何が起こったとしても、先には素晴らしい未来が待っているということを意識していましょう。すぐに忘れて慌てたり、感情的になったりするものですから、自分自身に向かって「神さまが最善に導いてくださるから大丈夫だ」と声をかけ続けましょう。

他の人に愛を示そう

政治の世界で「ブーメラン」と呼ばれる現象があります。たとえば、Aという政治家が、収入の一部を正しく確定申告しておらず、それを国税局に指摘されて修正申告したとします。すると、Aさんと対立するBさんがそれを議会で取り上げ、激しく非難して、どう責任を取るつもりかと追及します。ところが、まもなくBさんも不適切な申告をしていたことが発覚する……というようなケースを指す言葉です。

イエスさまはおっしゃいました。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです」(マタイ7:1-2)。これは、人の間違いを一切指摘したり注意したりしてはいけないという意味ではありません。自分を量る秤と、他人を量る秤が違っていてはいけない、二重基準で人を評価してはいけないという意味です。人の過ちを指摘するなら、同じ過ちを自分が犯していてはいけないのです。

さらに聖書はこう教えています。「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」(ガラテヤ6:1)。特に、「柔和な心で」という言葉に注目しましょう。

ステパノは、指導者たちの罪を激しく非難しました。しかし、それは相手がダメ人間だということを突きつけるためではありません。彼の願いは、ペンテコステの日に3000人の群衆が行なったように、指導者たちが自分たちの過ちを素直に認め、イエスさまを救い主と信じて罪の赦しを受け取り、神さまとの平和を獲得することです。だからこそ、死の間際に、自分たちを殺そうとする指導者たちの赦しを祈ったのです。

相手の過ちを指摘して責めるとしても、またあえて責めないで赦すにしても、動機は相手に対する愛、すなわち相手にとっての最善を願う心でなければなりません。

この話をお読みください

そのような接し方ができるようになればなるほど、私たちは自分自身の過ちを突きつけられたときも、自分にとって最善の反応は何だろうかと冷静に判断することができるようになるでしょう。

まとめ

今、あなたは自分の間違いや弱さ、罪を示されていませんか? その時、否認するかしないかによって、人生が大きく変わってきます。否認することにエネルギーと時間を費やすか、それとも素直に認めて、新しい人生を始めるか。

イエスさまによって、すでに赦され、愛され、祝福されているのだということを信じましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 最近、罪責感を感じたのはどんな状況ですか?
  • その罪責感に対して、あなたはどんな対応をしましたか?
  • 怒りの元が、悲しみなど他の嫌な感情だということを学んで、何か気づいたことがありますか?
  • 神さまがあなたの味方だとすれば、今のあなたの状況に関して、あなたの受け止め方が何か変わりますか?
  • 赦しを実感できない罪の記憶が、あなたの中にありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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