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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

元魔術師シモンへのレッスン

使徒の働き8章1節〜25節

(2018年9月9日)

参考資料

1節の「サウロ」は、後の使徒パウロ。「ステパノ」は、エルサレム教会で7人選ばれた、日々の配給の責任者の一人で、7章で嘘の証言によって逮捕され、殉教しました。

1節の「サマリア」地方は、エルサレムがあるユダヤ地方の北に位置します(さらにその北がガリラヤ地方)。
昔イスラエルの北王国がアッシリアに滅ぼされ、多くの国民がアッシリアの都に連れ去られました。その代わりに、北王国があった場所にはアッシリアからの移民がやってきます。異邦人である彼らとそこに残されたユダヤ人と雑婚して誕生したのが、サマリア人です。ユダヤ人は、民族的にも宗教的にも純粋でないとしてサマリア人を軽蔑しましたし、様々な歴史的な衝突もあって、ユダヤ人とサマリア人は仲が良くありませんでした。
しかし、この当時のサマリア人は、宗教的にはユダヤ教徒やクリスチャンと同じく「アブラハム、イサク、ヤコブの神」を信じ、モーセ五書(旧約聖書の最初の5つの書)を聖典として受け入れ、モーセの律法に従った生活を送ろうとしていました。もっとも、モーセ五書以外は聖典として受け入れず、エルサレム神殿の代わりにゲリジム山に自分たちの神殿を建設していましたが。

5節の「ピリポ」も、日々の配給の責任者の一人。彼が向かった「サマリアの町」は、北王国の6代目の王オムリ(在位:前876-869年)が築いた都で、サマリア地方の中心地です。

イントロダクション

今回は、元魔術師だったシモンに焦点を合わせます。彼を反面教師として、私たちが祝福された人生を歩む原則を学び取りましょう。

1.迫害後の出来事

迫害と信仰の拡大

前回、ステパノが嘘の証言によって逮捕され、殉教した場面を学びました。このことがきっかけとなり、エルサレムで教会に対する激しい迫害が始まりました。迫害の中心人物はサウロです。彼は、後に新約聖書の多くを書き、異邦人伝道を強力に行なう使徒パウロとなりますが、この時はイエスさまを憎み、イエスさまを救い主と信じるクリスチャンたちを捉えて殺すことこそ、神さまに対する正しい奉仕だと思っていました。

その結果、十二使徒以外のクリスチャンたちは、次々とエルサレムを脱出しました。11章などを見ると、エルサレムに使徒たち以外の信徒がいたことが分りますから、この時全員が脱出したのではないにしても、何千人もの信徒が逮捕されたり逃げ出したりしました。エルサレム教会は壊滅的なダメージを受けたのです。

この点だけを見れば、ひどい不幸が彼らを襲ったように見えます。サタン(悪魔)が霊的な戦いに勝利したようにも見えます。しかし、その結果を見ると、実は神さまが背後でしっかりと状況を導いておられることが分ります。
イエスの言葉通り
それを理解するために、イエスさまが天にお帰りになる直前におっしゃった言葉を思い出しましょう。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(1:8)。

今回の迫害でクリスチャンたちがエルサレムを脱出したことにより、イエスさまのこの言葉通りのことが起こっています。「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」(4節)。こうして、エルサレムの中だけにいたクリスチャンたちは、ユダヤ地方やサマリア地方に広がり、行った先々で伝道したために、ユダヤ・サマリヤの各地に新しいクリスチャンたちが誕生していきました。

8章では、特にピリポという人に焦点を合わせています。彼はサマリアの町に逃れると、そこで驚くべき奇跡を行ないながら、伝道を続けました。その結果、たくさんのサマリア人がイエスさまを救い主だと信じました(サマリア人については、参考資料をご覧ください)。

ペテロとヨハネの働き

サマリアの町で多くの人々がイエスさまを信じたというニュースは、エルサレムに残っていた使徒たちの元にも届けられます。そこで、ペテロとヨハネが派遣され、救われた人々を教え導くことになりました。

さて、ここに不思議なことが書かれています。「二人は下って行って、彼らが聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった」(15-16節)。なぜこれが不思議な行動なのでしょうか。

人が救われるのは聖霊なる神さまの働きです。誰も、聖霊さまによらなければ、イエスさまを信じることができません。「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』言うことはできません」(第1コリント12:3)。

そして、信じて救われたクリスチャンの内側に、聖霊さまは住んでくださいます。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(第1コリント3:16)。ローマ8:9では「キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません」とさえ教えられています。

では、ピリポによって伝道されたサマリア人たちは、本当には救われていなかったのでしょうか? そういうことではありません。彼らは、聖霊さまの導きにより、イエスさまが自分の罪を赦すためにイエスさまが十字架にかかり、死んで葬られ、復活なさったということ(恵みの福音。第1コリント15:3-8)を信じました。彼らはクリスチャンであり、彼らの内には確かに聖霊さまが住んでおられます。

1:8のイエスさまの言葉に再び注目してみましょう。イエスさまは、「聖霊があなたがたの『上に』臨むとき」とおっしゃいました。サマリアの人たちは、聖霊さまが「内に」住んでくださるという体験はしていましたが、「上に」臨むという体験はしていなかったということです。聖霊さまが上に臨む体験をするとき、クリスチャンはイエスさまのことを証言する力に満たされるのです。

10章に登場するローマ人コルネリウスとその家族・知人たちは、イエスさまを信じて救われた時、すなわち聖霊さまが内に住んでくださるようになった時と、聖霊さまが上に臨まれる体験が同時でした。しかし、今回のサマリアの信徒たちや、19章に登場するエペソの信徒たちは、救われてしばらくたってから聖霊が上に臨まれる体験をしました。どちらのケースもあり得るということですね。

そういうわけで、ペテロとヨハネは、聖霊さまがサマリアの人たちの上に臨み、力を与えてくださるよう手を置いて祈りました。すると、たちまち聖霊さまが彼らの上に臨まれました(17節)。

元魔術師のシモンがそれを見たと書かれていますから(18節)、目で見てはっきりそれと分るような現象が起こったということです。おそらく、ペンテコステの日に最初に聖霊さまが下ってこられたときと同じように、炎のようなものが下ってくるのが見えたり、聖霊に満たされた人が外国語で神さまのみわざをほめたたえたりしたのでしょう(2:4-11)。

元魔術師シモン

さて、一連の出来事を見ていた元魔術師のシモンは、自分もペテロたちのように、人に手を置くだけで、その人が聖霊さまを受けることができるような力が欲しいと思いました。
力を求めること自体は正しい
クリスチャンの集まりである教会は、「キリストの体」であり、クリスチャンひとりひとりはその体の各部分にたとえられています(第1コリント12:27)。イエスさまは昇天なさり、まだ再臨なさっていませんから、イエスさまの実際の体は、今は天にあります。そこで教会、すなわち私たちクリスチャンの群れは、地上に残されたイエスさまの体として、イエスさまが望まれることを、イエスさまがなさるように具体的に実践するのです。

そして、それを可能にするために、聖霊なる神さまは、教会のひとりひとりに「賜物」を与えてくださいます。賜物とは、聖霊さまがクリスチャンに与えてくださる、奉仕のための特別な能力です。いやしを行なったり、習ったことのない言葉を語ったり、預言をしたりするような奇跡的な能力もありますし、伝道したり、教えたり、管理したり、ささげたり、励ましたり、慰めたりするような能力もありますが、いずれも、それを使ってイエスさまのわざを行なうために与えられる能力です(具体例は、ローマ12章、第1コリント12章、エペソ4章など参照)。

使徒パウロは「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」(第1コリント12:31)と教えています。ですから、奉仕のために力を求めることそのものは正しいことです。

ところが、力が欲しいというシモンの願いを、ペテロは拒否しました。ペテロが問題にしたのは、シモンが力を求める動機と、力を手に入れるために使おうとした手段でした。
動機
ペテロはシモンに、「おまえの心が神の前に正しくない」(21節)と語っています。動機が間違っているということです。

シモンは元魔術師でした。悪霊の力を借りて、不思議なわざを行なっていました。そして、人々に「自分は偉大な存在だ」と語り、人々もまた彼をほめたたえていました(9-10節)。

しかし、そこに彼よりも偉大な人物が現れます。ピリポです。人々の尊敬と関心はピリポに移り、シモン自身もピリポの方が偉大だということを認めざるを得ませんでした。そのおかげで、シモンはピリポが宣べ伝えていたイエスさまを救い主として信じ、救われることになります。それ自体は良いことでした。

と言っても、ピリポ本人は、別に自分が尊敬されたいと思って様々な奇跡を行なったわけではありません。目の前に、病気の人、障害を負った人、悪霊に取り憑かれた人がいて苦しんでいたからです。ピリポは、彼らをその苦しみから解放してあげたいと心から思いました。そして、イエスさまの体の一部として、聖霊さまがくださった力を使っていやしを行なっただけです。ピリポの動機は愛でした。

しかし、シモンはピリポに対抗心を燃やします。彼の心の中には、「ピリポに勝って、以前のように町の人々に偉大な人物としてほめたたえられたい」という思いがありました。

ピリポは、信じた人々が聖霊さまを受けられるようにする働きをしませんでした。できなかったのか、あえてしなかったのかは分りませんが、とにかくペテロやヨハネが来るまでは、人々は「上に聖霊が臨む」という体験ができませんでした。シモンは思いました。「もし、自分がペテロたちのような力を手に入れられたら、きっと前のように、いやそれ以上に自分は尊敬を集めることができるだろう」。

ペテロはその隠れた動機を見抜きます。そして、シモンに言いました。「おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ」(23節)。
手段
シモンのもう一つの問題点は、神さまのくださる力をお金で買おうとしたことです。「おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい。おまえが金で神の賜物を手に入れようと思っているからだ」(20節)。

賜物は聖霊なる神さまが与えてくださる能力ですが、賜物という言葉は、一方的なプレゼントという意味です。聖霊さまは、ただで賜物をくださいます。それは、賜物を教会のクリスチャンたちが十分に生かして用いることによって、イエスさまのわざが世界中に広がり、その結果多くの人が、救われ、罪の生活を悔い改め、神さまのみこころを学んでそれに従うようになるからです。ですから、聖霊さまは一方的なプレゼントとして、喜んで賜物を与えてくださいます。

そこで、お金で力を買い取ろうというのは、その聖霊なる神さまの願いを、かえってないがしろにすることになりますし、一方的に人を愛し救ってくださる、恵みに満ちた神さまの素晴らしさを、値引いてしまうことにもなります。ですから、ペテロはシモンを叱責しました。

ちなみに、今回登場した元魔術師シモンの名前から、ラテン語の「シモニア」という言葉が作られました。シモニアとは、13世紀の神学者トマス・アクイナスによれば、「霊的なもの、または霊的なものと一体化しているものを故意に売買すること」です。たとえば、聖職の地位や、聖礼典、そのほかの霊的な祝福を手に入れるために、お金や物品、不動産などの資産の他、推薦、口添え、隷属的な奉仕など、世俗的な対価を提供したり求めたりすることですね。シモニアは、今回のペテロの対応を見て分るとおり、神さまに対する罪です。

罪を指摘されたシモンは、さばきを恐れて悔い改めました(24節)。シモニアは、中世の教会が堕落した原因の一つです。シモンが悔い改めたことで、サマリア教会はシモニアの影響を受ける危険から逃れました。めでたしめでたし。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神の思いに沿って行動しよう

神の最善の計画を信じる

神さまは全知全能であり、宇宙のあらゆる法則から自由な宇宙の支配者です。ですから、神さまにとって思いもよらない緊急事態というものはありませんし、決して間違いを犯しませんし、サタンでさえも神さまが計画なさっとことを押しとどめることはできません。この世では、すべて、神さまのご計画通りに事が進みます。

しかも、天の父なる神さまは、御子イエスさまを私たちの救いのために犠牲になさるほど、私たちを愛してくださっています。その神さまが、私たちが不幸になるようなご計画を立てるはずがありません。

ですから、私たちの目に、これは問題だ、これは大変なことになったと見えるような状況になったとしても、なおも「神さまはこの問題についてよくご存じである。神さまは、この問題を通して、素晴らしいことをしてくださるに決まっている」と、自分自身に向かって宣言し続けましょう。

この話をお読みください

神の栄光を追い求める

神さまが計画を立てておられるということは、何か目的があってのことです。神さまの最終的な目的は、ご自身の栄光を現すこと、すなわち神さまの素晴らしさがますます明らかになり、あらゆる被造物が神さまの素晴らしさをほめたたえるようになることです。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った」(イザヤ43:7)。

ピリポは、そしてペテロやヨハネは、父なる神さま、御子イエスさま、聖霊さまの栄光を現すために行動していました。一方、シモンは自分自身の栄光のために行動しようとしました。

私たちはどうでしょうか。私たちは、自分自身がほめられること、自分自身が幸せになること、自分自身が得をすること、自己実現することのためだけに生きていなかったでしょうか。そのような人生は、いつまでたっても満足を得られません。そして、23節でペテロがシモンに「おまえが苦い悪意と、不義の束縛の中にいることが、私には見えるのだ」と指摘しているように、そのような生き方は、他の人との平和な関係を失わせ、心の中に苦々しい思いや束縛感を生み出します。

私たちは自分中心の幸福追求を手放して、神さまの素晴らしさを知り、神さまの素晴らしさをほめたたえ、神さまの素晴らしさを他の人にも紹介していくことを追い求めましょう。実は、そういう生き方が、私たち自身の栄光、幸せ、そして得につながります。私たちは、神さまの栄光を第一とする時、最も素晴らしく輝くように造られているからです。

時々立ち止まって考えてみましょう。今自分が行なっていることは、神さまの栄光を現すことにつながるだろうか。それとも自分自身を満足させるだけに終わるだけのものだろうか。

神の恵みから離れない

そんな神さまの祝福を、シモンはお金で買い取ろうとしました。しかし、神さまの祝福は、神さまからの一方的なプレゼントとして与えられるものです。このことを「恵み」と呼びます。

恵みこそ、キリスト教信仰の中心的なキーワードの一つです。この話をお読みください

ですから、私たちは恵みから離れて生きようとしてはいけません。これは次の2つの間違いを避けるということです。
神の祝福を代価を払って買い取ろうとしない
神さまの祝福が恵みによって与えられるというのは、それを受け取るのに代価は必要ないということです。お金も、奉仕も、断食祈祷も、体や心を痛めつける難行苦行も必要ありません。

私たちが奉仕をしたり献金をしたり断食祈祷をしたりするのは、そうしないと神さまの祝福を失ったり、罰を受けたりするからではありません。神さまの恵みを味わい、喜びと感謝に満ちあふれ、神さまのために何かがしたいと思うようになるからです。だから先ほど学んだように、神さまのご計画の目的、すなわち神さまの栄光のために行動したいと願い、実践するのです。

この順番を決して忘れてはなりません。そうでないと、クリスチャン生活は甚だ苦しく、窮屈なものになってしまうでしょう。
他人にも神の祝福の代価を要求しない
自分自身に代価を要求しないだけでなく、他の人に対しても代価を要求してはなりません。「神さまにこんなにも愛されているのだから、そういう生き方はやめて、こういう生き方をしよう」というふうに、すでに祝福されているということを前提とした勧め方ならかまいませんが、「裁きを受けたくなければ、こうしなさい」「祝福されたければ、こうしなさい」というような、まだ祝福されていないということを前提とした勧め方をしないということです。

特に、教会が神さまの祝福に値段を付けて、商売をするような真似は絶対に避けなければなりません。

もちろん、次のようなケースで実費をいただくのは問題ないと考えられます。神さまの祝福に対する対価をもらっているわけではないからです。
  • 教会が伝道のために英会話教室を開き、生徒さんから授業料をいただくこと。
  • 教会でキャンプを行なう際、キャンプ場に泊まるための宿泊代を参加者に求めること。
  • 教会の交流会で、茶菓代として数百円徴収すること。
  • 教会のバーベキュー会で、材料や燃料をまかなうため、参加費をいただくこと。
  • 教会で聖書の勉強会を行なう際、テキストの印刷代として、実費をいただくこと。
また、聖書は神さまのために働いている人が報酬を受けることは当然だと教えていますので(第1テモテ5:18)、他の教会の伝道者を招いて説教やセミナーをしてもらったり、クリスチャンの音楽家を招いてコンサートを開いたりした際、謝礼や交通費をお渡しすることも問題ないでしょう。

しかし、1回お祈りするたびにいくら、1回礼拝に参加するたびにいくら、教会員でいるために月に会費がいくらなどと、神さまの祝福そのものを教会が「販売」し始めると、教会や牧師は経済的には豊かになるでしょうが、霊的な力は失い始めます。

先ほどシモニアの説明のところで、トマス・アクイナスの言葉を紹介しました。トマスが活躍していた頃の教皇は、インノケンティウス2世です。この人は、自分が教皇になるために、シチリア王国のルッジェーロ2世の支持を得ようとしました。そして、支持の見返りとして、ルッジェーロ2世のシチリア王位を正式に認めました。

そのインノケンティウス2世のもとをトマスが訪ねたときのエピソードです。執務室に通されたトマスに、教皇はたくさんの金貨を見せながら言いました。「どうだね、博士。もはや教会は、『金銀は私にはない』とは言わなくなった」。すると、トマスは感激するどころか、静かにこう答えたそうです。「はい、猊下。そして、教会はもはや『イエス・キリストの名によって歩きなさい』と言うこともできなくなりました」。

皆さんが霊的祝福を使って商売する機会はなかなかないでしょうが、牧師である私がそんな馬鹿な真似をしないように、継続して祈り、監視してくださいますように。

あなた自身への適用ガイド

  • 問題だと思えたことを通して、結果的には良かったとか、神さまの栄光が現されたとかいう経験がありますか?
  • 神さまの目的、そして神さまによって造られた私たちの目的が、神さまの栄光を現すことだと学びました。その基準に則った時、今行なっていることで修正しなければならないことはないでしょうか。あるいは是非行なうべきだと思ったことはないでしょうか?
  • 自分自身が、恵みの原則に反することを考えたり行なったりしていたと気づかされたことがありませんか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com


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