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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

3つめのP

使徒の働き10章1節〜18節

(2018年10月7日)

参考資料

1節の「百人隊長」は、ローマ軍の百人隊(ケントゥリオ)を率いた指揮官。ローマ軍の一つの軍団は6000人の兵士からなります。百人隊長は、その中で定員100人の部隊を束ねました。前線での戦闘指揮の他、訓練、隊の秩序維持など軍団の活動の中核を担い、「ローマ軍団の背骨」と呼ばれました。

1節の「カイサリア」は、パレスチナの地中海沿岸にある、その地方で最も栄えた港町。ローマ帝国から遣わされた総督も、普段はこの町に駐在していました。今は廃墟となっています。

2節の「敬虔な人」とは、割礼を受けて正式にユダヤ教徒と認められた「改宗者」にはなっていないものの、イスラエルの神こそまことの神だと信じた異邦人のこと。

5節の「ヤッファ」(ヨッパ)は、カイサリアから63キロ南下した所にある港町です。今は、イスラエル第2の都市テルアビブの一部となっています。

6節の「皮なめし」は、動物の毛皮を刃物や薬品などを使ってはぐ仕事です。モーセの律法では、食用が禁じられていた汚れた動物(後述)は、その死体に触ることも禁止でしたから(レビ11:8)、ユダヤ社会では皮なめし職人は差別されていました。

13節の「屠る」(ほふる)とは、獣や鳥の体を切り裂くこと。

イントロダクション

「使徒の働き」で重要なポイントを「3つのP」と表現することがあります。それは、聖霊さまが下って教会が誕生した「ペンテコステ」(2章)、将来の大伝道者であり、新約聖書の半分を執筆することになる「パウロの回心」(9章)、そして今回の「ペテロの見た幻」です。なぜ、ペテロの見た幻がそれほど重要なのでしょうか。

そして、今回の幻の中で、神さまは「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」(15節)とおっしゃいました。これは、今の私たちに何を教えているのでしょうか。

1.幻の意味

汚れた動物を食べろという命令

ペテロが見た幻は、カーペットに様々な動物が乗っていて、それを神さまが食べなさいと命じるというものでした。ところが、最初ペテロは断ります。「主よ、そんなことはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません」(14節)。

聖書が言う「きよい」とは、美しいとか立派であるとかいう意味ではありません。「神さまに受け入れられる資格がある」という意味です。そして、神さまは、何がきよくてきよくないか、すなわち、どうすれば神さまに受け入れられるか受け入れられないかを、神の民であるイスラエルに教えるために、モーセの律法の中ではっきりと基準を示されました。

たとえば、モーセの律法ではきよい動物ときよくない動物を明確に区別しています(レビ11章など)。そして、きよくない動物は食べてはならないと命じています。
  • 獣は、ひづめが割れていて反芻するものがOK。牛や羊はいいけれど、豚、馬、らくだ、ウサギ、犬、ネコなどは食べてはならないということです。
  • 地をはうもの、すなわち爬虫類・両生類・昆虫はダメ。ただし、イナゴに関しては例外で、食べてよいとされています。
  • 魚は、ひれや鱗が無いとダメなので、うなぎやナマズ、エビやタコはいけません。厳密には魚ではありませんが、イルカやクジラも食用禁止。
  • 鳥は、猛禽類、ダチョウ、コウノトリ、カラス、鷺、こうもりなどが汚れていると言われています。
当時のクリスチャンたちには、先祖伝来のユダヤ教を捨てて新興宗教であるキリスト教に改宗したという意識は全くありませんでした。彼らは、自分たちは相変わらずユダヤ教徒であり、他のユダヤ教徒と違うことがあるとすれば、聖書が登場を約束してきた救い主を発見しただけだと思っていたのです。今でも、ユダヤ人クリスチャンは自分たちのことをメシアニック・ジュー(救い主を信じたユダヤ人)と呼びます。

イエス・キリストが十字架にかかって人類の罪の罰を引き受けてくださったとき、モーセの律法は役割を終えて、新しい律法(キリストの律法)に従う時代がやってきました。ところが、この当時のクリスチャンたちはそのことをまだ十分に理解していませんでした。これから時間をかけて神さまから少しずつ教えていただくことになります。今回の記事の時代は、古い時代から新しい時代への移行期間だったのです。

ですから、この時のペテロは、当時ユダヤ人からさげすまれてきた(参考資料参照)皮なめし職人の家に、平気で泊まる一方で、ユダヤ人としてこれまで生きてきた習慣に基づいて、モーセの律法で禁じられている動物は食べることができないと断ったのです。

神がきよめた物

すると、神さまはこうおっしゃいました。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない」(15節)。そして、こんなことが3度も繰り返されたのでした。それだけ重要なメッセージだということです。

ペテロは考え込んでしまいました。他でもない神さまが、たとえば豚やラクダはきよくない動物だとお決めになり、ユダヤ人はそれを食べてはならないとお命じになったのに、その豚やラクダを指して「神がきよめた物」とは、いったいどういうことだろうか? 考えても答えが見つかりません。
ちょうどその時、コルネリウスの使いが、ペテロが滞在していた家に到着しました。彼らについて行けという聖霊さまの声を聞き、また3人の使いの話を聴いて、ペテロは幻の意味を理解しました。コルネリウスの家に到着したとき、ペテロは集まっている人たちにこう言いました。

「ご存じのとおり、ユダヤ人には、外国人と交わったり、外国人を訪問したりすることは許されていません。ところが、神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました。それで、お招きを受けたとき、ためらうことなく来たのです」(10:28-29)。

このペテロの言葉を聞いて分ることは、当時のユダヤ人は、異邦人(ユダヤ人以外の民族)を汚れた存在と見なし、他の汚れた物と同じように、接触を避けていたということです。
異邦人との分離
元々神さまは、全人類を愛し、救おうと計画しておられます。神さまはアブラハムを選び、彼と契約を結ばれましたが、それも全人類の救いのためでした。アブラハムとの契約の中で、神さまは、アブラハムとその子孫であるユダヤ人を大いに祝福すると約束なさいましたが、同時に彼らを通して全世界の国民を祝福するとも約束なさいました。

すなわち、ユダヤ人が神さまとの深い交わりによって大いに祝福されているのを見て、異邦人たちはうらやましく思い、ユダヤ人たちからまことの神さまについて教えを請い、その結果として救われ、神さまとの関係を回復するというのが、神さまのご計画です。異邦人を救いに導くのが、ユダヤ人が選ばれた理由、神さまに与えられた大切な使命なのです。

ですから、ユダヤ人が異邦人のように偶像礼拝に走ったり、神さまが喜ばれない生き方をしたりするようになれば、その使命を全うできません。そこで、異邦人たちと交わっても影響を受けないほどに、ユダヤ人が霊的に成熟するまで、神さまはユダヤ人と異邦人を分離させようとお考えになりました。

そこで、ヤコブ一家がエジプトに移住したときも、都の中ではなく、エジプト人がいないゴシェンで暮らしました。そして、モーセの律法の中でも、異邦人との接触を極力避けるような命令が語られています。異邦人がユダヤの共同体に加えられるのを神さまがお認めになったのは、ヨシュア記のラハブや、ルツ記のルツなど、イスラエルの神さまを信じてユダヤ教に改宗し、宗教的にはユダヤ人になった一部の人たちだけです。

神さまが異邦人と分離するようユダヤ人に命じたのは、異邦人を救いに導くためでした。それなのに、長い歴史の中で、ユダヤ人は謝った選民思想を育てていきました。すなわち、自分たちユダヤ民族は神さまに愛されているけれど、異邦人は神さまに呪われている劣等民族であるという考えです。
イエスのプラン
最初のクリスチャンは、全員ユダヤ人でした。ですから、異邦人に対するこの差別意識が変えられない限り、教会はいつまでたっても異邦人伝道を始めません。
  • 8章で、ピリポがエチオピア人の役人に伝道していますが、この役人はエルサレムで礼拝した帰りだったと記されています。異邦人は神殿に入れませんから、この人が割礼を受けてユダヤ教に改宗した人、宗教的にはユダヤ人になった人だと分ります。
このままでは、イエスさまが1:8で示された「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」というプランは実現しないことになってしまいます。

ところが、ペテロの幻を見、それによってコルネリウスたちが救われたことによって、教会はユダヤ人信者だけの共同体から、ユダヤ人信者と異邦人信者の二つが一つとなる新しい共同体になりました(エペソ2:11-22参照)。そして、今に至るまで、イエスさまの福音を信じて救われる人たちが、世界中で起こされています。この千数百年の間は、逆にユダヤ人伝道の方がおろそかにされてきましたが、今はまた続々とユダヤ人がイエスさまを信じて救われています。

きよいかどうかを決めるのは神

きよいとは、神さまに受け入れられる資格があるということですから、きよいかきよくないかを決めるのは、人ではなく神さまです。

では、神さまはあなたのことをどんなふうに判定なさっているのでしょうか。答えは「あなたはきよい」です。もしあなたが、イエス・キリストの恵みの福音を信じたのであれば。

恵みの福音とは、「イエス・キリストは、私の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということです。これを信じるだけで、私もあなたも、罪を赦されて、罪の汚れからきめられ、神さまに子どもとして受け入れられ、永遠に祝福される身分となることができます。これを信じる以外に求められる条件はありません。だから、福音(すなわちグッドニュース)と呼ばれているのです。

しかも、ペテロは「神は私に、どんな人のことも、きよくない者であるとか汚れた者であるとか言ってはならないことを、示してくださいました」(10:28)と言いました。どんな人もということは、恵みの福音を信じている人でも、そうでない人でも、ということです。実際、ペテロは、まだコルネリウスたちが福音を信じて罪の赦しを得る前だったにもかかわらず、彼らのことを汚れているから接触できないとは考えず、その招きに応じて出かけていきました。

神さまは、私たちがまだイエスさまを信じる前から、すでに私たちを愛しておられました。だからこそ、罪を赦して親子の交わりを持ちたいと願ってくださいました。だからこそ、イエスさまを信じるだけで救われるという一方的な救いの道を与えられたのです。

私やあなたがきよいというのは、立派な人格者であるとか、すばらしいことを行なっているとかいうことではありません。ぜひそうありたいですが、私たち自身は自分がそんなに立派な人間ではないことを知っています。しかし、そのままの姿で、すなわち不完全なままで、欠けのあるままで、私たちは神さまに愛され、受け入れられています。それがきよいということです。

では、ここから私たちは何を学ぶべきでしょうか。

2.きよめられたことを前提に生きよう

価値がある者として生きる

きよいということは、その人には神さまの目から見て価値がある、大切な存在だということです。プラスかマイナスかといえば、プラスだということです。

私たちはイエスさまのおかげで、きよい者、すなわち価値ある者とされました。それどころか、イエスさまを信じて罪からきよめられる前から、神さまは私たちのことを大切な宝物のように思ってくださり、なんとしてでも関係を回復したいと願ってくださいました。

自分ではそう感じなかったとしても、きよいかどうかを決めるのは神さまです。私たちは、神さまの目から見ると価値ある者なのです。それを前提として私たちは生き方を決めていきましょう。
どんな行動を選ぶか
価値がある大切な存在だから、私たちはその価値を台無しにするような生き方は選べません。もったいないからです。私たちは神さまによって素晴らしい存在だと認めていただきました。だから今よりももっともっと素晴らしい生き方ができるようになります。

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他人を指導するとき
子どもや人に何かを教えたり、アドバイスしたりするとき、私たちは「悪いところを見つけて直す」というアプローチをしがちです。すると、相手は非難されたような気持ちになって、反発を感じたり、自信をなくしたりしてしまうかも知れません。

しかし、神さまに価値を認めていただいた私たちは、ダメだから直すではなく、「あなたは素晴らしい存在なんだから、そんなもったいない生き方をしてはいけない」「あなたは素晴らしいんだから、今よりももっと良くなれる」というアプローチができるようになります。具体的には、相手の良いところを見つけて、それを指摘する。つまり、ほめるとか励ますとか感謝するとかいうことですね。

以前、小学1年生くらいのお兄ちゃんが、5歳くらいの妹を蹴っ飛ばし、泣かしてしまった場面に遭遇しました。どうやら妹がお兄ちゃんのおもちゃを勝手にいじろうとしたようです。お母さんが妹をなだめている間に、お父さんがお兄ちゃんを指導しました。

「妹を蹴っ飛ばすなんて、お前はなんて乱暴者なんだ。妹には優しくしなさい。嫌なことがあったら叩いたり蹴ったりしないで言葉で言いなさい」ではありませんでした。

「太郎くん。君は優しい子なんだから、嫌なことをされたときは、叩いたり蹴ったりしちゃいけない。言葉を使ってどうして欲しいかを言おうね」。「お見事!」と、思わず心の中で拍手しました。

あなたの感覚では「私のどこにプラスがあるの?」と思われるかも知れません。また、「あの人には、いいところがまったくないのに、ほめられない」とおっしゃるかも知れません。しかし、きよいかどうかを決める権利をお持ちなのは神さまです。その神さまがが、「きよい」とおっしゃっておられるのです。ですから、良いところは必ずあります。そう信じて探してみてください。絶対に見つかりますから。ポイントは、必ずプラスがあると信じて探すことです。

必ず幸せになれる者として生きる

きよい、すなわち神さまに受け入れられているということは、必ず幸せになることができるということです。何しろ、あなたと共にいてくださる神さまは、全知全能。どんな問題よりも強く、悪魔よりも賢いお方なのですから。

私たちは、問題に直面すると震えます。恐れ、惑います。しかし、「神さまは全知全能。だから大丈夫」と、自分に言い聞かせ、自分自身を励ましましょう。

そして、「何があっても大丈夫」と、あなた自身が思えている分だけ、他の人にも「大丈夫」が伝わって励ましになります。

神のわざを行なうことができる者として生きる

神さまにきよめられ、神さまに受け入れられているということは、神さまがあなたと共にいて、あなたを助けてくださるということです。たとえあなたには大きな事を行なう力が無くても、それがみこころにかなうことなら、神さまがあなたを助けて、素晴らしいことを行なわせてくださいます。

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まとめ

神さまがきよめてくださった私たちは、きよいことを前提に生きていきましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 神さまに愛され、受け入れられているということを前提にしたとき、これからどのような行動を選べばいいか気づかされたことがありましたか?
  • 他の人を注意したり指導したりする際、この人は素晴らしい人だということを前提とすると、どのような態度でどのように語れば良いか、気づかされたことがありましたか?
  • 今、心配なことがありますか? 全知全能の神さまがついていてくださるなら、神さまはあなたに何をしてくださると思いますか?
  • 神さまが一緒に働いてくださったので、自分一人の知恵や力では到底できなかったことができた、という経験がありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

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