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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

無条件の救いと努力

使徒の働き16章1節〜5節

(2018年11月25日)

参考資料

デルベ、リステラ、イコニオンは、前回の伝道旅行でパウロが訪問し、教会が誕生した小アジア(今のトルコ)の町々です。

3節の「割礼」は、生まれて8日目の男子の男性器の包皮の一部を、火打ち石のナイフを使って切り取る儀式。神さまと契約を結んだアブラハムの子孫(ユダヤ人)であることを表しています。異邦人でユダヤ教に改宗した人の場合は、大人になってから割礼を受けます。すると、その人はその後はユダヤ人として扱われました。

4節の「規定」とは、エルサレム会議で確認された以下の内容です(15章)。
  1. 救いは、恵みの福音(第1コリント15:1-8)を信じるだけで与えられるのであって、異邦人(ユダヤ人以外の民族)が救われるのに、割礼を受けたりモーセの律法を守ったりする必要はない。
  2. ただし、ユダヤ人の未信者に嫌悪感を与え、福音から遠ざけてしまわないために、偶像に備えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行を裂けるよう、異邦人信者に配慮を求める。

イントロダクション

私たちは、行ないによらず、ただイエスさまによる恵みの福音の内容を信じるだけで救われ、クリスチャンとなりました。では、努力は一切必要ないのでしょうか。聖書を読むと、様々な命令や勧めが描かれていて、努力が必要にも思えます。無条件の救いと努力の関係について、パウロがテモテに割礼を受けさせた記事から考えてみましょう。

1.テモテに割礼を受けさせた理由

救いに努力は必要ない

まず確認しておきたいことは、パウロは終始一貫、救われるために必要な条件は、イエス・キリストの恵みの福音を信じる事だけであって、それ以外の努力は必要ないと教え続けているということです。アンティオキア教会で、「異邦人が救われるためには、モーセの律法に従って割礼を受け、ユダヤ人にならなければならない」と教えていた偽教師たちに激しく反発しましたし、エルサレム会議でもそう主張しました。

また、手紙の中でもたびたびそのことを教えています。たとえば、後年書いたガラテヤ5:1-4で、パウロはこう語っています。

「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」。

エルサレム会議の趣旨

では、そのパウロが、なぜテモテに割礼を受けさせたのでしょうか。これは、エルサレム会議の決定や、後に書く手紙の内容と矛盾してはいないでしょうか。

それを理解するために、エルサレム会議で議論のまとめを行なったヤコブが付け加えた、4つのタブー(参考資料参照)について振り返りましょう。ヤコブは、救いは福音を信じるだけで与えられるという教えを支持した後、異邦人信者には4つのことを避けるよう命じるべきだと言いました。

ただし、それらを避けることが救いの条件だと主張しているわけではありません。この4つのものは、モーセの律法を大切にしてきたユダヤ人がずっと忌み嫌ってきたものなので、異邦人信者がそれらを平気で食べたり行なったりしているのを見ると嫌悪感を覚え、福音や教会から遠ざかってしまうかも知れないからです。すなわち、ユダヤ人を救いに導くために、あえて4つのことを避けて欲しいとお願いしよう。ヤコブはそう主張したのです。

一人でも多くのユダヤ人を救いに導くため

実は、今回の箇所でパウロがテモテに割礼を受けさせたのも、エルサレム会議での決定と同じ理由です。パウロはテモテのことが気に入り、彼を伝道旅行に連れて行きたいと思いました。ところが、問題が一つありました。それは、テモテの母親はユダヤ人でしたが、父親がギリシア人だったということです。

当時の一般的なユダヤ人は、異邦人(ユダヤ人ではない民族)を軽蔑していました。自分たちは神に選ばれた民だが、異邦人はまことの神を知らない呪われた民だと思っているのです。ですから、霊的な事柄に関して、異邦人から教えを受けることを生理的に嫌がるユダヤ人もたくさんいたのです。

ユダヤ教の教えでは、母親がユダヤ人であれば、父親がどんな民族であろうともユダヤ人として認められました。ですから、テモテもユダヤ人です。しかし、割礼を受けていないテモテは、ユダヤ人たちから異邦人と見なされ、最初から話を聞いてもらえなくなる恐れがありました。

エルサレム会議やガラテヤ人の手紙が問題にしているのは、救いの条件として割礼を持ち出すことです。パウロがテモテに割礼を受けさせたのは、そうしないとクリスチャンとは言えないからではありません。その方が、伝道に有利だからです。

パウロは別の手紙の中でこう語っています。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」(第1コリント9:19-23)。

パウロは、一人でも多くのユダヤ人を救うために、あえてテモテに割礼を受けさせたのです。
では、ここから無条件の救いと努力の必要性について、どんなことが言えるでしょうか。

2.私たちに必要な努力

自信の種は必要ないことを確認するための努力

人は、自信を十分に持っていなければ、生き生きと健康的に生きていくことはできません。自信があるというのは、自分という存在が良いものだと確信しているということです。

自分の存在が良いものだと信じている人は、次のような確信も持っています。ひとつは、自分はここにいていい」という確信です。「ここ」とは、たとえば家庭、学校、職場、友だちグループ、地域、教会、そしてこの世などです)。

また、いくらここにいることが認められるといっても、「まさか殺すわけにはいかないし、そんなにいたいだったら、いれば?」というような、渋々存在が認められるようなやり方ではいやですね。ぜひここにいてもらいたい、あなたは自分たちにとってそれだけ素晴らしい存在なのだからというような、価値を認められるようなやり方でないといやです。自信がある人は、自分は愛される価値のある、大切な存在だという確信がある人です。

そして、自分の存在が良いものだと思っている人は、「だから、自分には幸せになる権利がある」と信じています。

自信がないということは、これらの確信がないという事です。すなわち、「自分はここにいてはいけない、愛される価値のないダメ人間で、幸せになる権利なんてない」と信じているということです。そんなことを信じていては、生き生きと健康的になんか生きていけません。
条件付きの自信
そこで、多くの人は自信の種を身につけようとします。自分の存在が良いものだという証拠を見つけようとするのです。

たとえば、バリバリ仕事をして家族を養っているとか、社会の役に立っているとか。あるいは、人から若くてキレイだと思われているとか、人を楽しませる能力があって喜ばれているとか、仕事やスポーツや勉強ですごい成績を上げたとか、何かの特技を身につけているとか……。

こういう条件付きの自信は、分かりやすい反面、いったんその条件をクリアできなかったり、クリアできないんじゃないかと思ったりした途端、簡単に崩れてしまうものです。この話を読みましょう
無条件の自信
あなたの存在は、何ができるとか、何を持っているとかに関わらず、無条件にOKです。あなたは大切な存在であり、ここにいることが喜ばれており、必ず幸せになることができます。

その証拠は、神さまがそう評価していらっしゃるということです。まず、あなたは神さまに作られた、神さまの作品です。作品をけなすことは、作者を侮辱することになります。ですから、自分でも他の人でも、「こいつはダメだ」なんて言ってはいけません。

また、あなたはイエスさまによってすべての罪を赦された存在です。ですから、あなたはダメ人間ではありません。あなたがダメだという証拠は、どんなにもっともらしく見えても、あなたがダメだという証拠にはならないのです。

私たちが神さまに気に入られ、その存在価値を認めてもらうための努力は必要ありません。神さまはすでに、福音を信じた私たちを受け入れ、愛し、祝福し、本当の幸せへと着々と導いておられるからです。必要なのは、その確信を失わないようにするための努力です。

この世は出来高制の原則で動いています。自分の価値を証明するために、何かを身につけろ、何かを達成しろと迫ってきます。この世で生きている私たちクリスチャンも、いつの間にかその影響を受けて、どれだけ伝道したとか、どれだけ献金したとか、どれだけ奉仕したとかいう出来高で自分や他の人を評価するようになってしまいます。神の敵である悪魔も、私たちから無条件の自信を取り除こうと、あの手この手で心に嘘を吹き込んできます。

ですから、そうじゃないということをいつも確認し、軌道修正するための努力が必要です。神さまによって受け入れられ、永遠の幸せへの道を歩むのに、イエスさまの福音を信じる以外の条件はないというところに、いつも意識して戻っていきましょう。

みこころを知り、実践するための努力

そして、私たちがしなければならないもう一つの努力は、「神さまのみこころを知り、それを実行しようと決意し、実際に行動を起こし、それを継続し続けていくための努力」です。

第1コリント9:23の「福音のためにあらゆることをしています」という言葉は、「福音のためだったら、何でもする」とも訳せます。

パウロは、福音が宣べ伝えられ、たくさんの人々がイエスさまを信じて神の子となり、神さまの祝福をいただくことが、神さまの何よりの願いだと信じていました。ですから、福音のためになら何でもすると言い、実際にそれを行動に表し続けました。

そして、弟子であるテモテにもそれを勧めました。具体的には、割礼を受けることです。大人になって割礼を受けるのは、大変な痛みを味わい、数日間歩けないほどの化膿に苦しみます。それでもテモテは、一人でも多くのユダヤ人を救うために、痛みに耐えたのです。

救われるための努力は必要ありませんが、キリストの弟子、神のしもべとして生きるためには、相当の努力がいります。なぜなら、この世は基本的に聖書の神さまに逆らう方向に傾いているからです。また、悪魔とその手下である悪霊たちも、も信者が神さまのみこころにかなう生き方をするのを、全力で邪魔しようとします。私たちがイエスさまのみこころを学び、その通りに生きようとすると、馬鹿にされたり、批判されたり、脅されたり、肉体的精神的社会的に様々な痛みを味わわされたりします。

パウロもテモテも、文字通り命がけで福音を宣べ伝える働きを続けました。ペテロやヤコブや他の弟子たちも同じです。彼らは、どんなに馬鹿にされ、批判され、脅されても、福音を宣べ伝え続けましたし、聖書が教える正しい行ないを続けようとしました。福音のために殺されることになっても、イエスさまのみこころに従うことをやめませんでした。なぜ彼らにそのようなことができたのでしょうか。

それは、イエスさまのおかげであらゆる罪がただで赦され、圧倒的な神さまの愛と祝福をいただくことができているという感動、感謝があったからです。そして、内に住んでくださっている聖霊なる神さまが、日々弟子たちを造り変え、罪の力から解放し、知恵や勇気を与え、励ましを与えてくださっているからです。

イエスさまの、圧倒的な愛を味わい、聖霊さまの助けを受けているあなたも、きっとその努力を惜しまないと思います。

3つの良い習慣

自分がイエスさまによって救われており、存在が神さまに喜ばれており、だから必ず幸せになれると信じ続けるための努力、またイエスさまのしもべとして生きるための努力を身につけるため、3つの行動を習慣になさることをお勧めします。
(1) 一つ目はディボーションです
教会の集会ではなく、個人で聖書を読み、祈る習慣ですね。3分でも30分でも、かまいません。まずは毎日続けることが大事です。
(2) 二つ目は奉仕です
教会には様々な必要があり、働き手を必要としています。もし、まだ何の奉仕にも参加していなければ、牧師に申し出てください。

また、教会の外にも奉仕の場があります。社会の傷を見つけ、それをいやす働きに参加しましょう。家の周りのゴミ拾いとか、弱っている知り合いを定期的に訪問するとか、ボランティア活動に参加するとか、あなたの働きを必要としているところがあるはずです。この話を読みましょう
(3) 三つ目はささげものです
ディボーションにしても、奉仕にしても、時間なり体力なり、「自分のものだ」と思っているものを手放すことです。自分のものだと思っていたけれど、これは全部神さまのもので、私があずかっているだけのもの。だから、神さまが望まれるような使い方をしようということです。これがしもべの生き方です。

そして、「自分のもの」と思っているお金や持ち物を、神さまのみこころを実現する働きのためにささげるのです。これが献金であり、ささげものです。

「収入の十分の一をささげよう」という十分の一献金というのは、聖書的な根拠がないと私は信じています。しかし、十分の一というのは別として、額なり割合なりを決めて、教会に献金するのは良いことです。

また、教会への献金だけが、神さまへのささげものではありません。あなたのお金や持ち物の一部を、必要としているところにささげることができませんか?

もちろん、神さまはあなたの幸せも願っています。ですから、自分のために時間やお金を使うのは正しいことです。

まとめ

神さまのみこころを行なう生き方は、努力が必要ですが、その代わりに、ワクワクするような奇跡を味わえる生き方でもあります。

努力しなくていいことと、しなければならないことを見分け、今の自分にできる精一杯を行ないましょう。そして、ワクワクするような人生を味わいましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 神さまに救われた自分は、ここにいていい価値ある存在であり、必ず幸せになれるという確信を、失いかけている部分がありますか?
  • これを身につけていない自分、これを達成していない自分はダメだというように、存在価値の条件にしているものが何かありませんでしたか?
  • イエスさまの福音をこの世に広めていくため、今のあなたにできることが何かありませんか?
  • イエスさまの福音をこの世に広めていくため、今のあなたの生活で、改善できることが何かありませんか?
  • 神のしもべとしてみこころしり、それを実践し続けていくことで、今あなたが感じている困難がありますか? それに対して、あなたは神さまにどんな助けを求めますか?
  • 今回学んだ3つの良い習慣を実行する上で、具体的な行動目標(時間や数値目標など)を立てましょう。
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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