本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

はたしてそのとおりかどうか

使徒の働き17章1節〜14節、19節〜21節、32節〜34節

(2019年1月6日)

参考資料

1-14節は、前回取り上げたアテネ伝道の直前のエピソードで、テサロニケとベレアでの伝道の様子を描いています。19-21節と32-34節はアテネでの出来事です。

5節の「ヤソン」は、テサロニケでパウロ一行を家に泊めた人。テサロニケ伝道の最初に信じて救われたのでしょう。なお、ローマ16:21で、ローマ教会に対してあいさつを送っている人々のリストの中に、ヤソンの名があります。もしテサロニケのヤソンがこれと同一人物なら、ユダヤ人です(パウロが「私の同胞」と呼んでいますので)。

イントロダクション

今回は、テサロニケとベレア、そしてアテネでの伝道の結果に注目しましょう。テサロニケでは、異邦人はたくさん救われましたが、ユダヤ人は少ししか信じませんでした。これは、ユダヤ人は救われない、あるいは救われにくいということではありません。というのも、次にパウロが訪れたベレアでは、たくさんのユダヤ人が救われているからです。それから訪れたアテネでは、ユダヤ人も異邦人も、少数の人しか救われませんでした。

一体この違いはどこにあるのでしょうか。ここから、私たちはこの一年間がイエスさまの祝福に満ちたものとなるための秘訣を教わりましょう。

1.三者三様

テサロニケ伝道

パウロたちのテサロニケ伝道は、3週間しか継続できませんでした。それは、多くのユダヤ人が教えに反発して暴動を起こし、パウロの命が危なくなったためです。「ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた」(5節)。

テサロニケのユダヤ人たちが反発した理由は、「ねたみ」でした。この場合のねたみとは、「異邦人が自分たちユダヤ人の神を信じ、祝福されることが赦せない」という意味です。

当時の多くのユダヤ人は、自分たちは世界の中で神さまと契約を結び、大いに祝福されている特別な民であり、それ以外の異邦人とは全然違うという自意識を持っていました。これを理解するためには、創世記の時代に遡る必要があります。 少し長くなりますが、解説させていただきます。
神の救いの計画とユダヤ人
人類の始祖であるアダムが罪を犯して以降、その子孫である人類は、罪の性質を宿し、神さまに逆らい続けてきました。本来であれば、正義である神さまは、人類の罪を裁き、永遠の苦しみという罰を与えなければなりません。しかし、愛に満ちた神さまは、私たちの罪を赦し、親しい親子関係を取り戻したいと願われました。これが「救い」です。

その救いを人類全体に届けるために選ばれた奉仕者が、アブラハムという一人の人物でした。神さまは、アブラハムと永遠の契約を結ばれました。それは、神さまがアブラハムを大いに祝福なさるという、一方的な約束です。そして、その契約は無条件の契約であり、アブラハム側の失敗によって取り消されることがない、神さまからの一方的な約束です。

このアブラハム契約は、彼の息子であるイサク、そしてその子ヤコブ、さらにヤコブ(神さまによって、イスラエルという新しい名を与えられました)の子孫であるイスラエル人(すなわちユダヤ人)へと継承されていきました。ですから、ユダヤ人が神さまと契約を結んだ特別な民族だというのは、今も昔も変わることのない、間違いのない事実です。

しかし、アブラハム契約の内容は、ただアブラハムやその子孫だけが祝福されるというものではありません。創世記12:3にはこう書かれています。「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される」。

アブラハムやユダヤ人が神さまから大いに祝福されるのは、彼らだけが救われ、祝福されるためではなく、彼らが他の民族に本当の神さまを紹介し、このお方を信じて従うよう勧め、こうして全人類が救いに導かれるためです。

ユダヤ人を通して全人類を救うという神さまのご計画の実現は、紀元1世紀になって一気に加速しました。
  • 人類の罪の罰を身代わりに引き受け、赦しをもたらす救い主イエスさまは、民族としてはユダヤ人として地上に誕生しました。
  • イエスさまを信じて救われた人たちは、最初はユダヤ人だけでした。そして、ユダヤ人であるペテロの伝道によってコルネリウス一家が救われ、それ以降、たくさんの異邦人が教会に加わるようになりました。
  • シリアのアンティオキアにできた教会は、ユダヤ人であるパウロやバルナバを宣教師として派遣し、小アジア(今のトルコ)でたくさんの異邦人を救いに導きました。
  • そして、2回目の宣教旅行で、パウロはヨーロッパに渡り、多くの異邦人を救いに導こうとしています。
繰り返すと、神さまのご計画の流れは、まずユダヤ人が救われ、それからユダヤ人を通して異邦人が救われるというものです。

なお、パウロは「まずユダヤ人、それから異邦人」という順番を、自分の伝道スタイルに応用しています。彼が新しい町で伝道する際には、まずユダヤ人の会堂を探し、そこでユダヤ人に対して、聖書が登場を約束してきた救い主が誰であるかということを紹介しました。そして、恵みの福音(救い主イエスさまが、我々人類の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目によみがえったこと)を紹介し、これを信じるよう勧めました。その後、異邦人にも伝道したのです。

こういうわけで、テサロニケで異邦人が救い主イエスさまを信じ、救われ、神さまの子どもとされ、父である神さまから様々な祝福をいただけるようになるというのは、神さまのご計画に沿ったことです。
間違った選民思想
ところが、当時のユダヤ人の多くは、間違った選民思想に染まっていました。異邦人を救うために自分たちが選ばれたのに、自分たちだけが救われるために選ばれたのだと勘違いしていたのです。

その理由については長くなるので今回は触れませんが、とにかく救われるのはユダヤ人だけ。異邦人が救われたければ、ユダヤ教に改宗すること、すなわち、割礼を受け、モーセの律法を守る誓約をして、新しくユダヤ人として認められることが必要だと考えられていたのです。

それなのに、パウロたちは、ただ福音を信じるだけ、すなわち「自分の罪を赦すためにキリストが十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったことを信じるだけで、どんな人でも救われ、神さまの子どもにしていただける」と教えました。その結果、多くのギリシア人がナザレのイエスを救い主だと信じ、喜びに満たされています。これは、多くのユダヤ人には赦せないことでした。こうして迫害が起こります。

ベレア伝道

テサロニケを脱出したパウロたちは、ベレアで伝道します。ここでは、多くのユダヤ人が救われました。その理由について、聖書はこう記しています。「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(11節)。

ベレアのユダヤ人たちは、パウロの話を素直に、そして熱心に聞いただけでなく、自分でも聖書を調べて本当かどうか確認しました。そして、心から納得してパウロたちのメッセージを受け入れたのです。

第1コリント1:23で、パウロはこう記しています。「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが」。旧約聖書によると、人がはりつけにされて殺されるのは、神さまに呪われている証拠でした(申命記21:23)。ですから、十字架にかけられた人が、世界を支配する王の王である救い主だという話は、ユダヤ人にとって、感情的にはなかなか受け入れがたい話でしょう。

しかし、ベレアのユダヤ人たちは自分たちの常識や感覚ではなく、神さまが教えておられることを優先しようとしました。神さまのお考えやご計画は、聖書の中に記されています。

ですから、パウロは、彼の経験や哲学に基づいて話をしたのではなく、聖書(この当時はまだ新約聖書は書かれていませんので、旧約聖書のことです)に基づいて話をしました。旧約聖書には、救い主に関する預言がたくさんあります。それらがナザレのイエスという人物によって、ことごとく実現したということを、パウロは説明したのでしょう。そして、救い主誕生の意味や、救い主が十字架にかかり、死んで葬られ、復活なさった意味も、聖書に基づいて解説したのでしょう。

パウロの解説を聞いたベレアの人々も、それをただ鵜呑みにしたのではなく、自分で聖書を熱心に確認しました。そして、確かにパウロたちの主張は、聖書に基づいていると納得しました。だから信じました。また、異邦人がそのままで救われることについても、聖書の教えに基づいていることを確認したので、テサロニケのユダヤ人のように反発しませんでした。

アテネ伝道

アテネでは、人々は積極的にパウロの話に耳を傾けました。彼らの方から、もっと話を聴かせてくれとせがみました。ところが、ほとんど人が救われませんでした。パウロの話に耳は傾けたけれど、受け入れなかったということです。

アテネは哲学の町です。彼らの性質について、聖書はこう記しています。「アテネ人も、そこに滞在する他国人もみな、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」(21節)。ですから、パウロの話も、何か新しいことを教えてくれるかも知れないと期待して、熱心に聞こうとしたのです。

彼らの動機は知的好奇心を満足させるということでした。「興味深い話を聞いた」「面白い話だった」と思いたいというのが、パウロの話を聞いた目的です。「自分の人生は今のままでいいのだろうか」「進む方向を変えなければならないのではないだろうか」というような、根本的な悩み、霊的な飢え渇きからのことではありませんでした。ですから、パウロの話を聞いても、これまでの生き方を悔い改めて福音を信じ、イエスさまに従う人生を始めるということをしませんでした。

それどころか、パウロの話は、彼らの知的好奇心も満足させられませんでした。ギリシアの哲学の特徴は、霊肉二元論です。世界や人間を物質的なもの(肉)と非物質的もの(霊)に分け、霊は良いもので肉は悪いものだと考えます。人間が苦しむのは、本来良いものである霊が、悪である肉体に閉じ込められているからです。そこで、人が死ぬのは、霊が肉体から解放され、本当の幸せを手に入れるチャンスだと考えます。

それなのに、究極の霊である神が人となって肉体を手に入れたとか、その方が肉体的に死んだとか、しかも復活してわざわざ悪である肉体を取り戻したなどというパウロの話は、アテネの人々にはバカバカしいものに聞こえたのです。

こういうわけで、アテネでは人があまり救われませんでした。
それでは、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。ベレアの人々の態度から、どんなことに心がけながらこの一年を過ごせばいいか考えてみましょう。

2.私たちの心得

聖書を熱心に学ぶ一年

私たちがモデルにすべきは、ベレアのユダヤ人です。テサロニケのユダヤ人やアテネの人々は、自分たちの常識や伝統や感情にとらわれすぎて、神さまからの素晴らしい救いのプレゼントを受け取り損ねました。

それに対して、ベレアの人々はどうだったでしょうか。もちろん彼らにも常識や伝統や感情がありました。聖書は、そのようなもの一切を否定しているわけではありません。しかし、最終的には、聖書に記された神さまの教えを最優先にする。ベレアの人々が持っていた、テサロニケやアテネの人々とは違う態度がこれでした。

私たちも、この一年、熱心に聖書を読みましょう。ただつまみ食い式に、有名なところだけ、読みやすいところだけ読むのではなく、聖書全体を味わいましょう。そのために、特に2つの読み方をお勧めします。
(1) 通読
創世記の初めから、黙示録の終わりまで、順番に全部読むやり方です。一日1章ずつ読めば約3年で、一日に旧約3章と新約1章を読めば約1年で通読できます。大変ですが、これをやると聖書の全体像がつかめ、個々の箇所の意味がより深く理解できるようになります。

聖書の意味を正しく理解するには、前後の文脈、あるいはその書全体のテーマ、さらに聖書全体の教えに沿った解釈の仕方をする必要があります。その箇所だけを読んでいたのでは意味を取り違える場合があります。ですから、通読することにより、聖書全体が何を教えているのかを知るということは、とても大切なことなのです。

通読の場合、読んだ箇所がよく理解できる日もあれば、ほとんど理解できない日もあります。感動したり強く悔い改めさせられたりする日もあれば、全然何も感じない日もあります。それでも読み続けることが大事です。神さまは、たとえ理解できなかったり、感動しなかったりした箇所でも、あなたの心の内に蓄えられたみことばを通して、後日大切なことを教えてくださることがあります。

なお、個々の箇所の理解のために、注解書を利用なさるといいでしょう。決して安いものではありませんが、1種類だけではなく、複数のものを読み比べると、より理解が深まります。ネット上にも優れた解説をしているサイトがあります。私がよく参考にするのは、「ロゴス・ミニストリー」のサイトです。
(2) 歴読
これは私の造語で、「聖書の歴史に沿ったつまみ食い的読み方」です。自分の好みでつまみ食い的に読むのは本来望ましくありませんが、この場合は専門家のガイドに従い、聖書が記している世界の歴史の流れに沿って、特に重要な聖書箇所を確認しながら進んでいくという読み方です。

神さまは、歴史の中に介入なさることにより、ご自分のご計画を明らかにしてこられました。ですから、聖書に記されている歴史を学ぶことは、神さまのご性質やみこころやご計画を学ぶことです。

皆さんは、この宇宙が創造されてから今に至るまで、聖書がどのような歴史を記録しているかご存じですか? この後どのような歴史が展開すると預言されているかご存じですか? そして、世界の始めから終わりまでの壮大な時間の流れの中で、今ここにあなたが生かされていることの歴史的な意味をご存じですか?

中通りコミュニティ・チャーチの皆さんのためには、不肖私が「聖書の中の歴史」「聖書が教えるこれからの歴史」「死後の世界」という3冊の本を書いて、詳しく解説しています。これらは諸処の事情で教会外には出せませんが、簡単な歴史の流れについては、教会のサイトで紹介しています。また、ハーベストタイム・ミニストリーズの中川建一牧師が書かれた「日本人に贈る聖書ものがたり」のシリーズも、大変おもしろく聖書の歴史を学ぶことができます。

信仰生活において、愛、喜び、感動、平安などの感情はとても大事です。しかし、理性や知識も大事です。聖書に関する決して揺るがされない知識によって裏打ちされた、愛や喜び、感動や平安は、どんな状況がやってきても簡単に揺るがされたりはしません。

聖書を生活に適用する一年

しかし、聖書の知識があればそれでいいというわけではありません。アテネの人々は、熱心に聖書の話を聞きましたが、その知識が彼らの人生を変えることはありませんでした。それは知識が知識に留まり、「自分の人生にとって、それがどんな意味があるのか」を考えなかったためです。

クリスマスのメッセージを思い出してください。東方の博士たちが救い主誕生を祝うためにエルサレムに来た時、ヘロデ王が聖書の学者たちを呼んで、救い主はどこで誕生するのか質問しました。すると学者たちは、すぐにミカ書の預言を引用して、ベツレヘムだと答えます。

ところが、彼らのうち誰も、救い主を礼拝するため、博士たちに同行する者がいませんでした。彼らには聖書の知識がたくさんありましたが、その知識は彼らの生き方に影響を与えてはいませんでした。

現代も聖書を研究する学者は数多く存在します。しかし、その中にはクリスチャンではない人々もたくさんいます。

大切なことは、ベレアの人々のように、聖書を学んだ後、そこで得た知識を自分の人生に当てはめ、今自分は何をすべきかを考え、実践するきっかけにするということです。

聖書を読んだ時には、読みっぱなしで終わらないで、「この箇所を通して、神さまは自分に何をして欲しいと思っておられるのだろうか」と、具体的に考えましょう。

そのためのヒントとして、この話をお読みください

あなた自身への適用ガイド

  • これまで聖書を通読したことがありますか? あったとしたら、それをする前と後で、どんなふうに聖書理解や信仰生活が変わりましたか?
  • 聖書の中の歴史について、あるいは今後の歴史の預言について、これまでどのように学んでこられましたか?
  • 最近読んだ聖書箇所を、あなたはどのように自分の生活に「適用」してきましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com


guests have visited here
since July 15th, 1999.