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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

奇跡の目撃者となるために

使徒の働き19章8節〜20節

(2019年1月27日)

参考資料

今回の記事は、パウロが第三回伝道旅行の途中で、エペソを訪れたときの話です。「エペソ」は、小アジア(今のトルコ)西部にあった港町です。様々な陸路・海路の要衝として栄え、エジプトのアレキサンドリア(アポロの出身地)、シリアのアンティオキア(パウロを伝道旅行に遣わした教会がある町)と並んで、東地中海三大都市の一つに数えられています。

9節の「この道」はキリスト教のこと。

9節の「ティラノ」は個人名。詳細は不明ですが、講堂の所有者、あるいはそこで人々を教えていた哲学者の名前でしょう。

9節に「第5時(午前11時)から第10時(午後4時)まで」という文を加えている写本もあります。聖書の原本は残っていませんが、それをコピーしたものがたくさん残っていて、それを写本といいます。写本同士を比較することで原本の文章が確定しました。

14節の「祭司長スケワ」についてもよく分っていません。祭司長とは、大祭司を補佐するリーダー格の祭司のこと。大祭司は一人ですが、祭司長は何人もいます。

19節の「銀貨」はデナリ銀貨。労働者一日分の日当が1デナリですから、銀貨5万枚は5万日分の日当に相当する大金です(日当8千円で計算すると4億円)。

イントロダクション

今日、私たちは、イエスさまとの関係がどうだったかということを見つめ直しましょう。それにより、初代教会の人々が体験したような、わくわくするような神さまのお働きを見ることができるようになります。

1.エペソでの出来事

パウロの奇跡を伴う伝道

第三回伝道旅行でエペソにやってきたパウロは、そこで2年にわたって伝道しました。彼の伝道活動には、多くの奇跡が伴いました。パウロが祈って病人がいやされるのはもちろん、彼が身につけていたタオルやエプロンを苦しんでいる人に当てるだけで、病気が治ったり、悪霊が追い出されたりしました。
悪霊とは
ここで、悪霊について解説しておきます。昔々、まだ人間が創造される前、天使たちが創造されました。そこには後にサタンと呼ばれる天使の頭もいました。サタンは非常に素晴らしい存在でしたが、あるとき傲慢になり、神さまを追いやって自分が神の座に着きたいと願うようになります(イザヤ14:13-14)。そして神さまに反逆しました。その時、三分の一の天使がサタンに従いました(黙示録12:3-4)。サタンに従っているこれらの堕天使が、悪霊と呼ばれる存在です。

悪霊は神さまのみわざを邪魔するため、人を罪に誘惑したり、神さまの存在や愛を疑わせるように仕向けたりします。そして、いわゆる悪霊憑きの状態にして苦しめたりすることもあります。

ただし、心身の病気やそのほかの問題をすべて悪霊のせいにして、いつでもどこでも悪霊追い出しをしなければならないと考えるのは間違いです。また、たとえ悪霊が誘惑したのだとしても、それに乗るか乗らないかを決めるのは私たちです。仮に罪を犯したとすれば、それは自分の責任であって、悪霊に責任転嫁することはできません(禁断の木の実を食べたエバは、蛇、すなわちサタンに責任転嫁しようとしましたが、神さまはその言い訳に納得なさいませんでした)。

サタンや悪霊については、存在や働きを全く無視することも、逆にそれらに関心を持ちすぎることも、どちらも間違いであり、サタンが喜ぶことです。バランスの取れた考え方をしましょう。

というわけで、悪霊によって苦しんでいた人たちがエペソにもいて、パウロが直接、あるいはタオルやエプロンなどを通して間接的に悪霊を追い出し、肉体的・精神的な助けを与えていたのでした。
神さまによる保証
パウロは言葉で伝道しながら、同時に多くの奇跡も行ないました。「使徒の働き」の前の方で登場したペテロや他の弟子たちもそうでしたね。

神さまの奇跡は今も起こりますが、特に使徒たちが活躍した時代はたくさんの奇跡が行なわれました。それは、神のことばである新約聖書がこの時代はまだ確立していないためです。使徒たちが教えていることが神さまのみこころにかなう内容だということを、神さまが奇跡によって保証してくださったのです。

そのため、エペソに住む多くの人々が、イエスさまを救い主だと信じて救われ、教会に加えられていきました。

スケワの息子たちの失敗

さて、エペソに、スケワというユダヤ人の7人の息子たちがやってきました。彼らは巡回祈祷師、すなわち各地を巡りながら悪霊の追い出しなどを行なっていたまじない師でした。彼らは、パウロが非常に力ある働きをし、悪霊たちも次々と追い出されているのを目撃して感銘を受けます。

そこで、自分たちもパウロのやり方を真似てみようということになりました。そして、悪霊によって苦しんでいた人たちの家に行き、「パウロの宣べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる」と言ってみました(13節)。

すると、悪霊が返事をしました。悪霊が人に取り憑いた場合、その人の口を借りてしゃべることができます。悪霊は言いました。「イエスのことは知っているし、パウロのこともよく知っている。しかし、おまえたちは何者だ」(15節)。これは、スケワの息子たちの命令にはまったく神さまの力が働いていないため、そんな命令に従ういわれはないと馬鹿にしている言葉です。

そして、悪霊に取り憑かれた人が、ものすごい力で彼らに襲いかかり、散々な目に遭わせました。

一方、パウロがイエス・キリストのお名前を使って「出て行け」と命じたときには、悪霊たちはそれに逆らうことができずに出て行かざるを得ませんでした。私たちもイエスさまのお名前によって祈りますから、スケワの息子たちとパウロの、一体どこに違いがあったのか気になるところですね。
スケワの息子たちの問題点
13節の文章の中に、そのヒントになりそうな表現が2箇所あります。一つは、「試しに……言ってみた」という表現。日本語訳の問題もあるかも知れませんが、何となく彼らの真剣さを感じられない表現ですね。

すなわち、目の前にいる、悪霊にとりつかれて苦しんでいる人を助けたい、解放してあげたい、幸せな日々を取り戻してもらいたいという、心からの本気の願いが、今ひとつ感じられない表現なのです。

もう一つ引っかかった表現は、「パウロの宣べ伝えているイエス」という表現です。他の人が信じているイエスさま。他の人が仕えているイエスさま。他の人が愛しているイエスさま。他の人が信頼しているイエスさま……。そう、彼らが信じ、仕え、愛し、信頼しているイエスさまではないのです。彼らは、イエスさまを個人的には、知らなかったのです。
パウロは
では、パウロはどうだったでしょうか。彼は、イエスさまを個人的に知っていました。彼は、イエスさまが自分を救うために地上に来られたと知っていました。そして、パウロの罪を赦し、パウロが神さまの子どもとして祝福されるために、十字架にかかって罪の罰を身代わりに受けて死んで、また復活して、今は神さまの右の座に座して、彼のために取りなしの祈りを捧げてくださっていると知っていました。

そして、パウロは、目の前にいる病気の人たち、苦しんでいる人たち、悩んでいる人たちを心からあわれんで、彼らを助けたいと真剣に願っていました。

それはなぜかと言えば、パウロがよく知っているイエスさまが、彼らを愛し、彼らのいやし、解放、幸せを願っておられたからです。だから、イエスさまを愛し、イエスさまに仕えているパウロも、イエスさまと同じように、彼らのいやしや解放を祈り求めたのです。

爆発的な救いと悔い改め

この出来事がエペソ中に知れ渡ります。その結果、人々はイエスさまのお名前について聖なる恐れを感じました。イエスさまが神としての権威をお持ちだと知って、あがめるようになったということです。そして、ユダヤ人もギリシア人もたくさんの人たちがイエスさまを信じ、救われました。

また、クリスチャンになった人たちは、それまでの悪い行ないを悔い改めました。特に、魔術に関わっていた人たちは、高価な魔術書を持ってきて、皆の前で焼き捨ててしまいました。

魔術や占い、まじない、お守りなどの類いは、どれもイエスさま以外のものに安心を求めさせようという悪霊の影響を受けています。たとえ遊びのようなものであったとしても、私たちクリスチャンが関わるべきではありませんし、関連するものを持っているなら、すぐに廃棄してしまいましょう。私も、クリスチャンになる前はタロットなどの占いにこっていた時期がありましたが、救われてすぐにカードを捨ててしまいました。

こうして、エペソではたくさんの人々がクリスチャンとなり、新しい生き方を始めるようになりました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。それは、「イエスさまは人格的存在だから、人格として接するべきである」ということです。

2.イエスさまに人格的な接し方をしよう

神は人格的存在である

スケワの7人の息子たちとパウロの、根本的な違いは何だったのでしょうか。それは、パウロはイエスさまを人格を持ったお方として接していましたが、7人はイエスさまというお方にはまったく興味がなく、ただ奇跡にのみ興味があったということです。奇跡が起こるなら、別にイエスさまでなくても良かったのです。

イエスさまも、あなたも、私も、人格的存在です。それは、他のもので取り替えが不可能だということです。たとえば愛する家族や友人から、「あなたなんかいなくても、他に代わりはいくらでもいる」と言われたり、そういういう接し方をされたりしたら、きっとあなたは傷つき、悲しむことでしょう。それはイエスさまも同じです。

そして、イエスさまが人格的存在だということは、意志を持ち、願いを持ち、計画を持っておられるということです。そして、他の人格的存在に、ご自分の思い、ご自分の願いを理解してもらいたいと思っておられます。

イエスさまは、弱っている人、苦しんでいる人、神さまから遠く離れて、滅びようとしている人たちを深く愛し、彼らを救いたいと強く願っておられます。だからこそ、神としての栄光を置いて、地上に人間として来てくださり、十字架にまでかかってくださいました。

パウロは、イエスさまの思いを知ろうとしました。そして、その思いに共感しました。だから、イエスさまの願いに添って、弱っている人、苦しんでいる人たちを助けたいと思いました。奇跡が起こるかどうかは、二義的なことでした。

しかし、7人の祈祷師たちにとって、イエスさまの思いなんてどうでも良いことでした。ただ、自分たちも驚くべき力を発揮してみたかったのです。「イエスの名によって」というのは、イエスさまに対する尊敬、イエスさまに対する共感、イエスさまに対する信頼から語られた言葉ではなくて、ただ呪文のようなものでした。そして、それは、イエスさまを人格的存在としてではなく、呪文が記された魔術書やオカルトグッズのように扱うことです。

イエスさまは人格的存在ですから、感情を持っておられます。そして、利用されると嫌な気持ち、悲しい気持ちになられます。利用されるということは、もの扱いされるということですから。

エペソの人々が、呪文の書かれた魔術書を焼き捨てたように、私たちもイエスさまを魔術書扱いするのではなく、人格を持った大切なお方として接しましょう。

では、人格的な接し方とは、どういう接し方でしょうか。注意すべき点を3つ挙げておきましょう。

人格的な接し方の注意点

(1) コミュニケーションを取ってきたか
人格的存在だということは、無視されると悲しいということです。人格は、他の人格との交流を求めます。ですから、神さまは、いつも私たちとコミュニケーションを取りたいと願っておられます。

私たちは聖書を読み、祈ることを通して、神さまと語り合い、交わることができます。

あなたは、これまでイエスさまとどんなふうにコミュニケーションを取ってきたでしょうか。そして、これからどんなふうにとっていかれるでしょうか。
(2) イエスさまの願いや計画を知ろうとしてきたか
人格的存在だということは、自分を理解して欲しいという願いを持っているということです。コミュニケーションは、ただこちらが喋るだけのものではありません。相手の話に耳を傾け、相手を理解することも大切な側面です。

あなたは、これまでどのように、イエスさまの願いや計画を知ろうとしてきたでしょうか。自分の願い、自分の計画を神さまに申し上げ、その実現を求めるだけでなく、神さまのみこころが何なのか教えてくださいと求めてきたでしょうか。
(3) みこころがなされることを求めてきたか
そして、ただみこころを知るだけでなく、その実現をあなた自身も願ってきたでしょうか。そして、ただ傍観者として願うだけでなく、パウロのように、あるいはペテロや他の弟子たちのように、自分もその実現のためにできることをしようと努めてきたでしょうか。

今、イエスさまがあなたに手伝って欲しいと願っておられること、イエスさまの思いを実現するためにあなたにできることは何でしょうか?

まとめ

イエスさまといつも交わり、その思いを知り、その実現のために祈り、実践していきましょう。そのとき、あなたは、イエスさまの奇跡の目撃者になることができます。

あなた自身への適用ガイド

  • 神さまに感情があるということを聞いて、どんなことを考えたり感じたりしましたか?
  • イエスさまを人格として扱うということで、今後気をつけようと思ったことは何ですか?
  • イエスさまが、あなたと共に実行したいと強く願っておられることは何だと思いますか?
  • その実現のために、あなたにできることは何ですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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