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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

慰めを与える神と人

使徒の働き20章1節〜12節

(2019年2月10日)

参考資料

2節の「ギリシア」は、この場合ギリシア南部の町コリントのことです。

5節以降、「私たち」という一人称が使われています。これは、著者であるルカがパウロ一向に合流したということを意味します。ルカは、第二回伝道旅行でも、トロアスからピリピまで同行しました。そして、そのままピリピに留まっていたのでしょう。この後ルカは、パウロと共にエルサレムに上り、さらにローマへの旅にも同行します。

6節の「種なしパンの祝い」は、ユダヤの7つの例祭の一つで、過越の祭りの翌日から7日間祝われました。過越の祭りを含めた8日間は、罪を意味するパン種を入れずに焼いたパンを食べました。

7節の「パンを割くために」というのは、聖餐式を行なうためという意味。「週の初めの日」は日曜日。

イントロダクション

今日の箇所は、第三回伝道旅行が終わりを迎え、エルサレムに向かう途中で起こった出来事です。集会中に居眠りをしてしまったユテコという青年が、窓から落ちて死んでしまいましたが、パウロが彼を抱きかかえたところ、生き返りました。

この話は私たちに何を教えているのでしょうか。教会の集会中に居眠りなんかすると、神さまにさばかれるぞという警告でしょうか。そうではありません。では、私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか。

1.慰め主である神

パウロの熱心

コリントでの働きを終えたパウロは、ユダヤ人の内でキリストの福音に反対する人たちが、自分の命を狙っているということを知ります。そこで、船でシリアに向かうという計画(前回のメッセージ参照)をまたまた変更して、陸路でマケドニアに向かい、さらに海を渡って小アジア(今のトルコ)の西にある港町、トロアスに戻ってきました。

トロアスには1週間留まりましたが、日曜日に彼らは集会を持ちました。といっても、現代の教会の多くが日曜礼拝をささげている朝ではなく、夕方になってからのことです。というのは、この当時は日曜日が休日ではないからです。みんな、一日の仕事を終えてから、集会のために集まってきたわけですね。

聖餐式を行なう前に、パウロはトロアス教会の人々と、様々な話をしました。実はパウロは、エルサレムについたら、自分は逮捕され、苦しい目に遭わされるということを、聖霊さまによって示されていました。そのことが、今回の箇所の後に書かれています。

トロアスを離れたあと、パウロはミレトスという町に行き、そこにエペソ教会の長老たちを呼んで、こんな話をしています。「ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです」(22-23節)。

ですから、パウロは、トロアス教会の人々と語り合うのもこれが最後の機会になるかも知れないと思い、これも語っておきたい、この話もしておきたいと、熱を帯びて語り続けたのでしょう。そんなわけで、真夜中になっても集会が続きました。それどころか、明け方近くまで彼は語り続けたのです。

青年ユテコ

ここで著者であるルカは、ユテコという青年のエピソードを紹介しています。

「ユテコという名の一人の青年が、窓のところに腰掛けていたが、パウロの話が長く続くので、ひどく眠気がさし、とうとう眠り込んで三階から下に落ちてしまった。抱き起こしてみると、もう死んでいた。しかし、パウロは降りて行って彼の上に身をかがめ、抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります」と言った。そして、また上がって行ってパンを裂いて食べ、明け方まで長く語り合って、それから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、ひとかたならず慰められた」(9-12節)。
実は、このたった4節の文章から、ユテコという青年のことがある程度想像できるのです。

ルカは、ユテコが青年だったと9節と12節で記しています。「青年」とそれぞれ訳されているこれらの言葉は、原文のギリシャ語では違う単語が使われています。9節は「ネアニアス」という単語で、若者を意味します。一方、12節は「パイス」という単語が使われていて、若者という意味の他に、奴隷という意味もあります。ユテコは、金持ちの家に仕える若い奴隷だったのでしょう。

先ほど、日曜日は休みの日ではないと言いました。教会の人々は、一日の仕事を終えてから集まってきたわけですが、ユテコが奴隷だったとすると、主人が仕事を終えてからも、食事の世話をしたりそれを片付けたりするなど、まだまだ仕事が残っています。それらを全部終わらせてからようやく集会に来ることができたのです。ユテコがパウロの近くではなく、窓の所に座っていたのも、遅くなってからやって来たからに違いありません。

それでも彼は、集会にやってきました。パウロを通して神さまの言葉を聞きたいと強く願ったからです。一日の疲れがたまっている上、多くの人が集まって灯火もたくさんともしてある部屋ですから、室温も二酸化炭素濃度も高くなっていたでしょう。そんな状況でついウトウトしてしまったユテコのことを、いったい誰が非難できるでしょうか。

そして、聖書もまた、ユテコのことを批判的に書いていません。ユテコは、主人のために一生懸命に働く忠実な地上のしもべであり、またイエスさまのことを深く愛し、全力でお仕えしていた、熱心な神のしもべだったのです。

あなたも、多くの犠牲を払って礼拝式に出席しておられるでしょう。神さまは、あなたのその愛と熱心さを知っておられます。

慰められた人々

そのようなわけで、疲れのあまりつい居眠りをしてしまったユテコは、なんと三階の窓から落下し、打ち所が悪くて死んでしまいました。「使徒の働き」の著者であるルカは医者です。その彼がわざわざ「死んでいた」と明言しているのは、ユテコは死んでしまったかに見えたけれど、実は死んでいなかったということではなく、本当に死んでしまったということを示しています。

しかし、パウロがユテコを抱き上げると、ユテコは息を吹き返しました。パウロを通して、神さまが奇跡を起こしてくださったのです。

死人がよみがえったのですから、これは驚くような奇跡です。しかし、ルカはこの場面を淡々と描いているに過ぎません。そして、パウロがそのまま何事もなかったかのように集会を継続していったことを記録しています。

ルカが、そしてルカに「使徒の働き」を書かせた聖霊さまが最も伝えたかったメッセージは、よみがえりの奇跡そのものではなく、その結果起こった出来事、すなわち12節の「人々は生き返った青年を連れて帰り、ひとかたならず慰められた」です。

慰めるという言葉は、ギリシャ語では「パラカレイン」、直訳すると「かたわらに呼ぶ」です。自分が寂しいとき、つらいとき、困ったときに、誰かに傍らに来てもらって、話を聴いてもらい、そのつらい精神状態や問題から脱出するのに必要な言葉をかけてもらうなどすることを意味します。

パラカレインの名詞形、すなわち「慰め」は「パラクレーシス」といいいます。そして、そこから派生して、助けが必要な人のそばにやって来て慰めを与えてくれる人のことを、「パラクレートス」といいます。その言葉は、イエスさまが十字架にかかる直前、弟子たちに語られた教えの中に登場します。

「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです」(ヨハネ14:16-17)。

ここで、「助け主」と訳されているのがパラクレートスです。ですから、「慰め主」と訳すこともできるでしょう。真理の御霊、すなわち聖霊なる神さまは慰め主であって、私たちのそばにいて、いやそれどころか私たちのうちに住んでくださり、私たちが孤独を感じたり、絶望しそうになったり、困難を味わったりしているとき、私たちを慰め、励まし、希望を与え、力づけてくださいます。

奇跡はその手段の一つに過ぎません。神さまは、様々方法で私たちを慰め、励まし、引き上げてくださいます。

こういうわけで、トロアス教会の人々は、大きな慰めを体験しました。パウロは自分たちの元を離れてしまいますし、これからどんな困難が自分たちを待ち受けているか分りませんが、ユテコをよみがえらせてくださった神さまが、自分たちとともにいてくださることを知り、彼らは大きな勇気を与えられたのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.慰め主と共に生きよう

私たちも慰め手になろう

私たちクリスチャンは、イエスさまの十字架と復活を信じたとき、すべての罪を赦されて、神さまの子どもにしていただきました。そして、私たちはイエスさまに自発的に使える神のしもべとなり、イエスさまと共にこの地上で神のわざを行なうようになりました。

子どもは親を見習い、その生き方を真似て身につけていきます。しもべは、主人の働きを手伝います。聖霊なる神さまがパラクレートス、助け主、慰め主として働いておられるのですから、私たちクリスチャンもまた、人に寄り添い、慰めを与えるパラクレートスとしてこの地上で働くことが期待されています。

私たちが語る言葉は、人を慰め、励まし、希望や勇気を与え、望ましい方向にその人を押し出すものになっているでしょうか。逆に、絶望や自己嫌悪を与え、かえって間違った方向に人を押しやってしまってはいないでしょうか。

もちろん、ほめたり励ましたりする言葉だけが、慰めになるとは限りません。パウロは、コリント教会に宛てた2通の手紙やその間に書いた涙の手紙によって、彼らの問題点や罪を相当厳しい言葉で指摘し、責めました。しかし、その言葉の背後には、コリント教会の一人ひとりに対するあふれる愛がありました。

パウロがコリント教会の人々を非難したのは、彼らを軽蔑し、切り捨てることが目的ではなく、ましてや自分の偉さを証明するためでもなく、間違った方向に進んでいる人を、本当の幸せに向かう道に立ち戻らせることが目的です。だからこそ、罪を犯して悔い改めず、最終的に教会から除名されてしまった人が、後になって悔い改めたと知ったとき、その人を教会の交わりに再び招くよう、第二の手紙の中で勧めているのです。

優しい言葉をかけるか、それとも厳しい言葉をかけるか、どちらが正解かという話ではありません。どのような言葉かけをすることが、相手を最終的に慰め、励まし、希望を与え、望ましい方向に押し出すことになるか、その時その時考えて判断しなければならないということです。

場合によっては、「かたわらにいる」ことそのもの、たとえば黙って肩を抱くというような方法が最も慰めになるということもあるでしょう。

この話をお読みください

そして、私たちがそのような慰め手となるためには……

私たち自身が慰めを味わおう

私たち自身が、聖霊さまから直接、あるいは他の人たちを通して間接的に、神さまの慰めを、日々、そして十分に味わう必要があります。

この話をお読みください

寂しさや、罪責感や、自信のなさや、疲れや、そのほかの肉体的・精神的・社会的な痛み苦しみを味わっているとき、神さまに「慰めをお与えください」と祈りましょう。何があっても大丈夫だという希望を与えてください、一歩踏み出す勇気を与えてください、湧き上がる活力を与えてください、やる気を与えてください、根気を与えてくださいと祈りましょう。

パラクレートスである聖霊さまは、かならずその祈りに応えてくださいます。聖書の言葉を通してかも知れません。他の人の言葉や態度を通してかも知れません。あるいは、説明が付かないけれど、いつの間にか自分の精神状態が変化するという方法かも知れません。とにかく、慰めや励まし、希望ややる気を私たちは与えていただけます。そう信じて祈りましょう。

まとめ

私たち自身が神さまからの慰めを十分に味わうことにより、他の人に慰めをもたらすことができますように。

あなた自身への適用ガイド

  • 今のあなたが、最も必要としている「慰め」はどのようなものですか?
  • あなた自身が、最近他の人から「慰め」を受け取った経験がありますか?
  • 悩んだり苦しんだりしている人の顔を一人思い浮かべてください。今週、その人にどのようにして「慰め」を届けることができるでしょうか?
  • 最近、神さまからの「慰め」をどのように体験しましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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