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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

愛を生み出す教理

使徒の働き26章6節〜13節

(2019年2月17日)

参考資料

トロアスを発ったパウロは、先発していたルカたちとアソスで落ち合い、船でレスボス島東岸にあるミティレネとサモス島を経由して、ミレトス(小アジア西岸の港町)へと向かいました。五旬節(ペンテコステの祭り)にはエルサレムに着いていと考えていたパウロは、エペソには寄りませんでしたが、ミレトスを出港する前にエペソ教会の長老たちを呼び寄せ、話をします(13-17節)。今回の箇所はその話の一部です。

イントロダクション

パウロは、エルサレムに着いたら逮捕されること、そしてエペソ教会の人たちとは二度と会えなくなることを、聖霊さまに示されていました(22-25節)。そこで、エペソ教会の長老たちを呼んで、最後にどうしても伝えておきたいことを話しました。その内容は、教会のリーダーが知っておくべき心得だけでなく、私たちクリスチャンみんなが知っておくべき心得です。特に、2つの点をパウロは強調しました。プラス、そこから分る大切なことをもう1点お話しします。

1.正しい教理

凶暴な狼

パウロはエペソの長老たちにこう預言しました。「私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう」(29-30)。

エペソ教会の中に凶暴な狼が入り込んでくるという警告です。狼とは、偽の使徒、偽の預言者、偽の教師のことです。彼らは間違った教えを広めようとします。そういう偽教師は外からやってくるだけでなく、教会員の中からも現れるだろうとパウロは預言しました。

間違った教えの例

教会の中に入り込みやすい間違った教え、異端的な教えとは、たとえば、
神の唯一絶対性の否定
異端的な偽教師の中には、神さまが唯一絶対であることを否定する人たちがいます。つまり、神がたくさんいるという多神教や、神と自然は同じだとする汎神論です。

聖書が教える罪とは、唯一絶対の神さまの存在や権威を認めないこと、そのみこころに逆らうことです。ですから、唯一絶対の神さまを認めず、その権威も認めなければ、罪もないということになります。

ということは、聖書が教える救いも認めないということです。というのは、救いとは、罪が赦され、唯一絶対の神さまとの関係が回復することだからです。そうなると、人間にとっての救いは、自分の欲望がかなうこと、たとえば健康に過ごしたり、繁栄したりすることだと考えられがちになります。これでは、この世の成功哲学と何も変わらない教え、あるいは御利益宗教ですね。
三位一体の否定
三位一体とは、「神はその本質的存在においてただ一つであるが、この唯一の存在の中に、父と子と聖霊なる三位格が存在する」(いのちのことば社「新聖書辞典」)ことです。

異端的な偽教師の中には、神さまが唯一絶対の存在だと認めたとしても、三位一体であることを否定する人たちがいます。イエスさまや聖霊さまが神であることを認めなかったり、父・子・聖霊は、唯一の神がその時その時姿を変えて現れただけだと説いたりするわけです。

特に、イエスさまが100%人であり100%神であることを否定します。イエスさまは立派な人間に過ぎなかったとか、だから死んだ後に神になったとか、神が幻を使って人間イエスの姿を人々に見せていただけだとか。

もしイエスさまが人でなければ、死んだり復活したりできません。また、イエスさまが神でなければ、人を救うことができません。人であり神であるイエスさまを否定するということは、イエス・キリストの死と復活による一方的な罪の赦しを否定するということです。
恵みと信仰による救いの否定
というわけで、異端的な偽教師は、イエス・キリストを通して表された神さまの一方的な恵みと、それを信じる救いではない、別の救いの方法を主張します。行ないによって神さまに認められ、報酬として与えられる救いです。

そして、異端的なグループの多くは、自分たちの教団に対する犠牲的な忠誠を強調し、聖書が教えていないような行ないを要求します。たとえば、全財産を教団に献金しろとか、家を捨てて信者だけで集団生活しろとか、食事や睡眠時間を削ってでも伝道活動に献身しろとか。

パウロたちが活躍した時代も、「異邦人はモーセの律法を守り、割礼を受けなければ救われない」という、行ないによる救い、律法主義の教えを主張する偽教師たちがいました。おそらく、エペソの長老たちを前に語ったパウロの頭の中には、律法主義を教え込もうとする偽教師たちのことがあったでしょう。

正しい教理がなぜ大事なのでしょうか。それは、間違った教えは、信者に自由の代わりに束縛を与え、喜びの代わりに恐怖を与え、平安の代わりに不安を与え、安息の代わりに疲労感を与え、きよい生き方の代わりに刹那的で自己中心的な生き方を与えるからです。

そこで、パウロはエペソの長老たちに、必死で訴えました。「ですから、私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(31節)。目を覚ましていなさいとは、ボーッと生きてないで、いつも警戒していないさいということです。

その後のエペソ教会

今回の出来事は、西暦58年のことだと考えられています。パウロの警告を聞いたエペソ教会はその後どうなったでしょうか。約40年後、使徒ヨハネが黙示録を書きます。その中で、イエスさまがエペソ教会について語っておられます。

「わたしは、あなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが悪者たちに我慢がならず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちを試して、彼らを偽り者だと見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れ果てなかった」(黙示2:2-3)。

「しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる」(黙示2:6)。


ニコライ派というのが、具体的にどういう教えをするグループかは分りませんが、間違ったことを教えていた異端的グループだということは明らかです。エペソ教会の人たちは、40年前のパウロの警告を生かし、苦労しながらも異端の教えから教会を守りました。

2.あふれる愛

40年後のエペソ教会に欠けていたもの

黙示録の中で、イエスさまはエペソ教会の良いところを賞賛しました。しかし、それだけではなく、この点はもっとがんばりましょうという評価もなさっています。

「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く」(黙示2:4-5)。

40年後のエペソ教会の人たちは、正しい教理はしっかりと保っていましたが、いつの間にか愛を置き去りにしてしまっていました。神さまへの愛、教会員同士の愛、教会の外の人たちに対する愛です。

17世紀の終わり、ドイツのルター派教会の中で、当時の教会の状況を憂える人々が現れます。彼らが問題にしたのは、正しい教えを学ぶことが重視されるのはいいけれど、その知識が信徒の生活にまったく反映されず、一人ひとりの生き方や神さまとの関係がさっぱり変わっていなかったこと、その結果、信仰生活が、単に儀式に参加することになってしまっていたことです。当時のそのような教会の状況は、「死せる正統主義」と呼ばれています。

そして、敬虔主義と呼ばれる、聖書の教えを大切にしながら、内面的な体験と実践を重んじる運動が起こります(私が卒業した聖契神学校や、昨年召天した弟が所属していた日本聖約キリスト教団はその流れをくんでいます)。

愛について、パウロはこんなことを語っています。「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません」(第1コリント13:1-3)。

正しい教理は絶対に大切です。それをないがしろにしていいということではありません。しかし、神さまや人への愛を忘れてしまったなら、正しい教理も価値が全くなくなってしまうのです。それどころか、教会が、自分たち以外の人を批判し、自分たちだけを正しいとする独善的で攻撃的なカルト集団になってしまいます。

愛の実践

凶暴な狼のような偽教師に対する警告を語った後、パウロはエペソ教会の長老たちにこう語りかけました。

「私は、人の金銀や衣服を貪ったことはありません。あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです」(33-35節)。

愛とは何かを論じるのではなく、愛を実践しなさい。パウロはそう諭してしています。そして、愛とは、何かを与えることであるとイエスさまも語っておられます。イエスさまは、私たちへの愛を実践するために、ご自分の命を私たちに与えてくださいました。では、イエスさまに愛された私たちは、イエスさまや他の人に何を与えることができるでしょうか。
  • 「愛しています」という言葉。
  • 「あなたなら絶対に大丈夫」という励まし。
  • 必要を補う物やお金や体力や知恵。
  • 話を聞いたり、肩を抱いたりする、共に過ごす時間。
愛という言葉は美しいですが、それだけでは抽象的であり、実は意味がありません。愛とは何をすることか、何を与えることか、それを具体的に考え、実践していきましょう。

3.みことばの学び

聖書を学ぼう

正統的な教えを保ち、かつ神さまと人とに対する愛にあふれた生き方を実践していくために、私たちに必要なのは聖書の学びです。

パウロは言いました。「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです」(32節)。神さまのみことばは、私たちは旧新約聖書66巻を読むことによって知ることができます。

異端的なグループでは、自分たちの教えを権威づけるために、聖書以外に教理の土台となる経典を作り上げます。たとえば、統一教会では「原理講論」「天聖経」を、そして末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)では「モルモン経」を聖典とし、聖書以上に重視します。また、エホバの証人の「新世界訳聖書」のように、聖書を自分たちの教えに都合よく解釈して翻訳し、それ以外の翻訳を否定します。

また、先ほど紹介した敬虔主義は、死せる正統主義に対する反省に立って生まれた運動です。しかし、時代が過ぎるに従って、あるグループは極端化していき、聖書の客観的な教えを無視して、自分の内面的な体験ばかりを重視し始めます。その結果、そういうグループは、いつの間にか異端的なカルト集団になってしまいました。

正統的な教えと、愛とは、対立するものではなく、どちらも大切な信仰の要素です。そして、それらは聖書を学ぶことによって身につけることができます。

2つの目的

聖書を学ぶときは、2つの目的を大切にしましょう。
客観的知識を得る
一つは、何が正しい教えだろうかという客観的な知識を得ることです。自分の感情や状況がどうであれ、客観的な知識というのは、私たちのよりどころとなります。

以前、借家に住んでいた時の話です。大家さんの都合で、次回の契約更新をしない旨の通知が来ました。要するに出て行ってくれということです。全く予想外で、引っ越しや新しい賃貸契約にかかる費用を捻出できるだろうかと、大いにあわてました。

しかし、市の無料法律相談で相談したところ、私たちの側に重大な契約違反がなく、大家さんの都合で立ち退きを求められる場合、引っ越しにかかる費用のすべてを大家さんが負担しなければならないとのこと。敷金は全額返ってくるし、引っ越し費用、新しい賃貸契約の費用も全部です。それを聞いて非常に安心したことです。
愛とは何かを学ぶ
もう一つは、何が神さまを愛し、人を愛するということだろうかということを考える材料にするということです。ただし、単なる知識には意味がありません。

この話を読みましょう

聖書の教えを、どのように自分の生き方に生かすか具体的に考え、教えられたことを実際に実践しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 自分がずっと信じていたことと、聖書の教えが違っていてびっくりしたという体験が何かありますか? その違いを知ったことで、自分の生き方や感じ方がどんなふうに変わりましたか?
  • 愛とは何かを与えることです。その視点に立ったとき、今週あなたは誰に、何をしようと思いましたか?
  • 聖書を読むときの2つの目的について学びましたが、最近読んだ聖書の箇所をこの目的に沿って読み直してみると、どんなことに気づきますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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