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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

パウロの配慮

使徒の働き21章617節〜32節

(2019年2月24日)

参考資料

ミレトスを去ったパウロは、コス、ロドス島、パタラを経て、キプロス島の南を通過してツロに立ち寄り、船が荷物を下ろしている間、7日間そこに滞在します。その後、プトレマイスに船で渡り、翌日陸路でカイザリアに到着して、伝道者ピリポ(7人の執事の一人)の家にしばらく留まりました。それからいよいよエルサレムに向かい、第三回伝道旅行が終了します。

18節の「ヤコブ」は、イエスさまの地上の父であるヨセフとマリアとの間に生まれた、イエスさまの弟。ペテロを始めとする十一使徒(ヨハネの兄弟ヤコブはすでに殉教)は伝道のために世界中に散っていたようで、ヤコブがエルサレム教会の指導者たちをまとめる立場になっていました。

23節の「誓願」は、神さまに何かをお願いし、それがかなえられたらこうしますと約束すること。あるいは自発的に、神さまの働きのために、一定期間自分の身を特別にささげる誓いを立てること。
特にこの場合には、モーセの律法で定められているナジル人の誓願(民数6:1-21)のことだと思われます。これは、誓願の期間中はぶどうの木から生じるもの(皮やジュースも含む)とアルコールを摂取せず、髪の毛を剃らず、親族といえども死体に触れないという約束をするものです。そして、誓願の期間が終わると、髪の毛を剃りました(24節)。

25節は、9年前に開かれたエルサレム会議(15章)で話し合われ、各地の異邦人信者に書き送ることが決定した内容です。

イントロダクション

今回の箇所は、皆さんのように強い信仰を持っている人が、気をつけていないと陥ってしまう過ちを教えています。それは何でしょうか。そして、過ちに陥らないために私たちが心がけるべきことは何でしょうか。

1.誓願の費用負担

律法主義者によるデマ

エルサレムに着いたパウロは、ヤコブなどエルサレム教会の指導者たちと面会し、今回の伝道旅行の成果を報告しました。また、ここには書かれていませんが、マケドニアの諸教会やコリント教会などから託されていた義援金も手渡したことでしょう。指導者たちはパウロの報告を聞いて非常に喜び、パウロを通して大きな働きをしてくださった神さまを礼拝しました(19-20節)。

そして、指導者たちは、ユダヤ人でクリスチャンになった人たちについて語り始めました。

「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです」(20-21節)。

パウロがそんなことを教えているというのは、まったく間違った情報です。おそらく、律法主義を教えている偽教師たちが言い広めたデマでしょう。彼らは、異邦人(ユダヤ人はない人たち)が救われるためには、イエスさまを信じるだけでは不十分で、モーセの律法を守り、割礼を受けてユダヤ人のようにならなければならないと教えていました。パウロは彼らを激しく非難していたので、逆にパウロの評判を下げるためにそういうデマを流したのでしょう。

もちろん、指導者たちがそのデマを信じていたということではありません。それが全く間違った情報だということは、彼らは十分理解しています。ただ、そういうデマが流れているという事実をパウロに知らせているだけです。
正しい教え
ここで、パウロが何を教えていたかということを整理してみましょう。

人が救われて神さまの子どもにしていただくためには、恵みの福音、すなわち「イエス・キリストが自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということを信じるだけでいい、それ以外の条件はありません(第1コリント15:1-4参照)。

イエスさまが十字架にかかるまでの時代は、モーセの律法を守ることによって、人は神さまに祝福していただくことができました(申命11:26-28)。しかし、十字架によってモーセの律法が完了して以降は、そうではなくなりました(ヨハネ19:30、エペソ2:14-15)。

そこで、今の時代は、モーセの律法や割礼を実行したからといって、格別神さまからの祝福があるわけではないし、霊的に成長するわけでもありません。逆に呪いを招くわけでもありません。律法に従った生活をするかどうかは、信仰的な問題というより、文化的な問題、好みの問題です。やりたければやればいいし、やりたくなければやらなくていいという程度のものです。

そういうわけですから、これまで伝統的にモーセの律法に従った生活を送ってきたユダヤ人信者に対して、これからはモーセの律法を守ってはいけない、子どもに割礼を施すのもダメだとは、パウロは一切教えていません。

ただ、モーセの律法に従うことを救いの条件にすることについては、断固として否定しました。しかし、そうでないならば、モーセの律法に従う生活をすることについて、そうしろと勧めもしないし、するなと禁止もしていません。

指導者たちの提案

そして、エルサレム教会の指導者たちも、パウロと同じ信仰を持ち、律法についても同じ考えを持っていました。それどころか、パウロのことを素晴らしい神さまの働き人として尊敬し、全面的に支持していたのです。

ただ、このデマをこのまま放置していれば、別に律法主義者でない信者たちの中からも、パウロについて誤解し、彼を偽教師呼ばわりする人たちが現れかねません。いや、実際そういう人たちが現れ始めていたのかも知れません。

そこで、指導者たちはこの話を持ち出しました。そして、このデマが間違いだということを多くのユダヤ人信者に示すために、次のことを実行するようパウロに提案しました。

それは、ナジル人の誓願を実践し、それが完了する人たちに同行して神殿に行き、彼らが髪の毛を剃る費用をパウロが出すという提案です(ナジル人については、参考資料をお読みください)。そうすれば、パウロがモーセの律法に従った行動を全く禁止しているわけではないということが、多くのユダヤ人信者の目に明らかになります(23-24節)。

パウロの反応

パウロも指導者たちの提案を受け入れ、実際にそれを行ないました。それは、ユダヤ人信者たちからの評判を気にしてのことではありません。彼らを信仰的につまずかせないための配慮です。

エルサレム会議で話し合われたことを振り返ってみましょう(詳しくは、2018年11月4日のメッセージ)。その時のテーマも、異邦人が救われるために、福音を信じるだけでなく、モーセの律法を守り割礼を受けなければならないかどうかでした。結論は、福音を信じるだけでいいというものです。それはユダヤ人信者にとっても同じです。

ただし、25節に書いてある4つの事柄(偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものを食べることと、淫らな行いをすること)については、行なわないよう異邦人信者に通達することになりました。

もちろん、それら4つの行ないをしたからといって、救いが取り消しになるわけではありません。イエス・キリストがくださる救いは完全だからです。

ただ、これらはユダヤ人が伝統的に忌み嫌ってきたものであり、異邦人信者が平気で行なうのを見ると、まだ救われていないユダヤ人や、救われたばかりのユダヤ人が感情的に嫌悪感を覚え、信仰から遠ざかってしまうかも知れません。だから、ユダヤ人をつまずかせないよう、配慮して欲しいというわけです。

パウロは、エルサレム会議と同じ精神で、今回指導者たちの提案を受け入れ、実践しました。
その結果
しかし、そのおかげでパウロはひどい目に遭うことになります。パウロが4人の誓願者と共に入ったエルサレム神殿は、大きく3つの場所に区切られていました。聖所や祭壇がある神殿本体の周り(イスラエルの庭)はユダヤ人の男性だけが入れ、ユダヤ人の女性はその手前(婦人の庭)までしか入れません。そして、異邦人は婦人の庭の外、異邦人の庭と呼ばれている区域までしか入れず、その先に立ち入った異邦人は殺されることになっていました。

パウロが連れて行った4人は全員ユダヤ人です。ところが、あるユダヤ人が、パウロが異邦人をイスラエルの庭に入れたと誤解します。同行者をよく見ればユダヤ人だと分ったでしょうが、確認しないで騒ぎ始めました。おかげで大騒ぎが起こり、パウロは危うく殺されかけました。

騒ぎを聞きつけたローマ軍の千人隊長が兵士たちを伴って駆けつけ、パウロを逮捕したおかげで騒ぎは一応沈静化します。しかし、キリストに反対するユダヤ人たちは、この事件に乗じてパウロを亡き者にしようと企みます。それを知った千人隊長は、パウロの安全を考えて、彼を総督府のあったカイサリアに送りますが、総督がパウロから賄賂を取ろうと思ってなかなか釈放してくれず、パウロはそのまま2年間獄中生活を続ける羽目になりました。その後総督が替わりますが、パウロが皇帝に上訴したため、彼はローマに送られて、さらに2年間の軟禁生活を送ることになります。

ただし、それは神さまからの罰ではありません。パウロは正しいことを考え、実行しました。正しいことを行なったからといって、苦しい目に遭わないわけではありません。正しいことを行なったために苦しむことだってあります。

しかし、その場合、その苦しみには意味があります。そのおかげでパウロは多くのローマ軍兵士たちに伝道できましたし、ローマ帝国の首都ローマでも伝道することができるようになりました。それについては、またいつかお話ししましょう。

では、ここから私たちが学ぶべき点は何でしょうか。熱心な信仰者がかえって陥りがちな過ちと、それを避けるための心構えを挙げてみます。

2.過ちとそれを避けるための心構え

自分のスタイルを押しつけない

パウロたち正しい教えを語る指導者たちは、神さまが明確に命じたり禁止したりしていることと、それぞれの地域教会や個人の判断に任せていることを区別していました。

たとえば、今私たちはこうして公の礼拝をささげていますが、それは聖書が定期的に集まって礼拝することを命じているからです(ヘブル10:25)。しかし、何曜日の何時からどれくらいの長さの礼拝式を持つかについては、聖書は沈黙しています。献金についても、自発的に喜んでささげるよう命じられていますが(第2コリント9:1)、額とか収入に対する割合とかについては定められていません。

定期的な断食、集会の最初に「ハレルヤ!」と叫ぶこと、朝5時に起きて聖書を読み祈ることなど、信仰上の様々な習慣を持っているクリスチャンがいらっしゃいます。そして、それをしているおかげで祝福された信仰生活を送っておられる方もたくさんおいでです。もしあなたがそうでしたら、ぜひそれを続けてください。他の人に勧めることもかまいません。

しかし、それをしないと信仰者として二流以下だとか、成長できないとか言って脅したり、強要したりしてはなりません。聖書がそうしろとはっきりと命令していることではないからです。

パウロは手紙の中で、信仰的な理由で食べてはいけないものが何かあるのかどうか、あるいは、一年や一週間の内である日を特別扱いすべきなのかどうかについて、こんなことを述べています。

第2コリント14章
2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
3 食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。
4 他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。
5 ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
6 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。
7 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。
8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9 キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
10 それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。


私たちも、自分自身の確信をさらに確かなものとし、それに基づいたライフスタイルをしっかり確立しましょう。同時に、他の人の確信やライフスタイルを尊重しましょう。そして、一緒に神さまをほめたたえ、それぞれ地上で熱心に神さまのみこころを実践しましょう。

他人の救いと成長のために行動する

パウロは自由でした。モーセの律法を守る義務は、もはやクリスチャンにはないということを知っていました。従って、何を食べてもいいと考えていましたし、律法に定められている様々な儀式を行なう義務もないと考えていました。ですから、本当ならばナジル人の誓願をしている人の手伝いをするという義務もありません。それはエルサレム教会の指導者たちも同じです。

しかし、指導者たちはパウロに頭を剃る儀式に同行し、そのためのお金を出すよう勧め、パウロも了承しました。それは、ユダヤ人信者たちのためです。彼らがパウロのことを誤解し、パウロが教えていることを受け入れなくなったり、その結果教会の中に分裂が起こり、間違った律法主義に走ってしまう信者が出てしまったりすることを、指導者たちもパウロも恐れたのです。

パウロはこう語っています。

第1コリント9章
20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。
21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。
22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。


私たちも自由です。しかし、その自由をどう使うか、それを判断する基準の一つは、自分の言動は、他の人をイエスさまに近づけるだろうか、あるいはその人が人として、信仰者としてさらに成長するのに役立つだろうかということです。一言で言えば、人に対する愛の動機で行動を選ぶということですね。

まとめ

私たちは、聖書の教えには忠実に従い、他の人にもそうするよう勧めますが、聖書の教えに反しない限り、他の人の自由を尊重しましょう。そして、自分に与えられている自由を十分に味わうと共に、その自由を他の人への愛の動機で用いましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 聖書にはっきりと教えられていることと、聖書が沈黙していることの違いを、最近意識したことがありましたか?
  • 聖書に従って正しく行なったはずなのに、そのせいでつらいことが起こってしまったという経験が最近ありましたか? また、その後それがどんな祝福につながりましたか?
  • 信仰をさらに成長させたり、神さまとの関係を深めたりするために、あなたが大切にしている習慣は何ですか? また、あなた自身はしていないし、しようとまでは思わないけれど、教会の他の人たちがしている素晴らしい習慣に気づいていますか?
  • 自由を愛の動機で用いるとき、今の自分言動で改めたいとか、新しく行ないたいと思ったことが何かありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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