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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

自分の十字架を負って

マタイの福音書16章15節〜26節

(2019年5月12日)

参考資料

16節の「バルヨナ」は「ヨナの息子」という意味。「シモン」はペテロの本名。

ヨナの子シモンのあだ名である「ペテロ」(ペトロス)には、岩という意味があります(男性名詞)。一方、18節で「この岩の上に、わたしの教会を建てます」という文中にある「岩」はペトラ(女性名詞)です。
ローマカトリック教会では、ペテロを初代教皇だとしています。そして、18節を根拠に、カトリックだけが正統な教会だと主張してきました。
しかし、ペテロ自身は、後に書いた第一の手紙2:5-7の中で、ペトラを家(教会の比喩)を建てる際の基礎になる大きな礎石、ペトロスを礎石を元に積み上げられる多くの小さな石という意味で用いています。すなわち両者を区別しています。ですから、18節の岩とは16節の信仰告白のことだというのが一般的な理解です。

19節の「つなぐ」は禁止する、「解く」は許可するとも訳せます。パリサイ人たちが律法を解説し、ある行為を禁止したり、別の行為を許可したりするときに用いられた表現です。19節のイエスさまの言葉は、「ペテロが地上で教える内容は、天において神さまのみこころにかなうものになるよう導かれる」という意味です。

イントロダクション

この箇所でイエスさまは、16節のようにイエスさまを救い主だと信じる人には、19節のようなとんでもない祝福が与えられていると約束なさいました。それは、人々を天国に招き、悪の力に打ち勝ち、また地上で語る言葉が神さまのみこころにかなうものになるという祝福です。

と同時に、弟子としてイエスさまに従っていくのに必要な心構えについて、24節で語っておられます。私たちもイエスさまの弟子です。大きな祝福を味わうことができるイエスさまの弟子が心がけるべき事は何でしょうか。

1.自分を捨てる

自分を捨てるとは

「自分を捨てる」というと、自分の夢や私有財産をすべて捨ててしまったり、自分の感情や欲求を一切否定したり、世を捨てて修道院のようなところに入ったりすることだというイメージがあります。あるいは、自分の意見や希望や権利をいっさい主張しないことのように思えます。しかし、聖書がいう「自分を捨てる」とは必ずしもそういうことではありません。

たとえば、パウロは、逮捕された時に、ローマ市民として不当な扱いを受けたり受けそうになったりしたとき、自分の権利を主張して抗議しました(使徒16:37や22:25)。

ここで言う「自分」とは、「自分の思い通りに行動したい」というわがままな心のことです。自分を捨てるとは、わがままな心を捨てるということなのです。

自分のもの意識

わがままは、「自分のもの」という意識によって強化されます。自分のものだと思っていれば、自分の思い通りに使うのが当然だと思います。自分の時間、自分の家族、自分の夢、自分のお金、自分の能力、自分の人生……。

「自分のもの」という意識は、自由に見えますが、実はこれが人を縛り、人の自由を奪っているのです。

たとえば、友だちを「自分のもの」という目で見ているとします。すると、友だちが自分の思い通りに動かないと、その一挙手一投足が腹立たしく思えるのです。そして、何とか思い通りに動かそうと働きかけます。相手も縛られるのはいやですから抵抗するでしょう。そうするとそこに軋轢が生じ、ますます関係が悪化していき、こちらはそれによっていらいらしたり、怒ったり、悲しんだりすることになります。そして、そのために莫大な時間とエネルギーを浪費することになるのです。

「自分のもの」と思うと、他人や世界が、自分の思い通りに動いて当然だと思うようになります。たびたび申し上げていることですが、当然の世界には感謝も感動もありません。しかし、「自分のもの」意識を手放すことができたら、当たり前だと思っている中に、神さまや人の愛や配慮を見つけ、感謝し、感動することができるようになります。

解放された心

「自分のものという意識から解放されよう」。イエスさまは「自分を捨てなさい」という言葉によって、そうおっしゃっているのです。そして、あなたに、何者にも煩わされない、解放された心を与えたいと願っておられます。

あるご婦人は、思春期になったお嬢さんが、自分の言うことをちっとも聞かず、反抗ばかりすることに悩んでいました。しかし、外国人のご主人の言葉、「ハニー。娘は、私たちのペットでも持ち物でもないよ。娘の人生は娘のものだし、もっと言えば神さまのものだ」という言葉にハッとしました。

そして、あれこれ命令したり脅したりして自分の思い通りに動かそうとするのではなく、お嬢さんを信じて見守ったり、どうしてもお嬢さんの行動が困るときには、理由を添えてお願いするようになりました。すると、イライラした感情から解放されたばかりか、お嬢さんとの関係もだんだんと改善していきました。

あなたには「これは自分のものだ」としっかりと握っているものがありますか? それを神さまにゆだね、神さまの自由にしていただきませんか? そのとき、あなたの人生に、本当の自由、喜び、感動がやってくるでしょう。

2.自分の十字架を負う

イエスさまの十字架

イエスさまは、弟子たちがご自分のことを旧約聖書が約束してきた救い主だと信じていることを確認すると、ご自分がやがて十字架にかかり復活することを初めて弟子たちに明かされました。

イエス・キリストが十字架にかかって死んだのは、救い主としての使命の一つです。すなわち、私たちの身代わりとなって、私たちの罪の罰を受けて死ぬことによって、私たちが罪を赦されて神さまの子どもとなるためでした。イエスさまは私たちのために十字架を負ってくださったのです。

イエスさまは私たちのために犠牲を払ってくださいました。それは本来負わなくてもいい犠牲です。しかし、イエスさまは私たちに対する愛の故に、自発的に十字架への道を進んでくださいました。イエスさまの十字架の愛は、義務感や、やむを得ない状況に流されて、いやいや示された親切ではありません。はっきりとしたご自分の意思に基づく行為です。

自発的な犠牲

また、イエスさまの愛は、上から下に「やってやる」「やってつかわす」という親切ではありませんでした。コリント教会への手紙の中で、パウロはイエスさまの代理として、人々に向かって救いをもたらす福音を信じてくれるよう「懇願」しています。

「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(第2コリント5:20・新改訳第三版)。

これはこういうことです。イエスさまは、私たちが頼んだわけではないのに、2千年前に十字架にかかり、救いの道を開いてくださいました。そしておっしゃるのです。「これは、私が好きで勝手にしたことだ。だから、迷惑に思うかも知れないけれど、私のために、頼むから信じておくれ」。まるでそのように身を低くして私たちに懇願なさったということのです。イエスさまはどこまでもどこまでも身を低くしてくださいました。

させていただく愛

いやいやなされる親切、あるいは上から下にくだされる親切というのは、相手にもイライラを引き起こします。親切を受ける方の立場に立てば、いやいや関わられたり、見くだされるような仕方で関わられたりするのはいやですね。すると、十分感謝を表さないかも知れません。そうなると、親切をしている方も「せっかくやってやってるのに」という思いから、またまたカチンと来ます。結局、どちらもハッピーではありません。

しかし、自発的に喜んでなされる親切は、相手のプライドを傷つける可能性が低いですし、仮にその親切に対して十分な感謝を表してもらえなくても、好きでやっていることですから、ほとんどカチンと来ないでしょう。もちろん、その親切を受け入れてもらえればうれしいのです。いずれにしても喜びと感動で一杯です。

イエスさまは、私たちに自分の十字架を負うようにおっしゃいました。それは、「してやる」愛から、「させていただく」愛へ生まれ変わることです。その時、私たちの人生には、喜びと感動が満ちあふれます。

3.キリストに従う

みこころに従う

「イエスさまに従う」ということには2つの意味があります。第一はイエスさまのみこころを知り、そのみこころに従うということです。

みこころを知る方法を、特に2つ紹介しましょう。それは「聖書」と「聞く祈り」です。

そして、従うとは具体的な行動です。聖書を学び、聞く祈りを通してみこころを知るだけではなく、知ったことを行動に表しましょう。

キリストと愛の交わりをする

「キリストに従う」ことの、もう一つの意味は、「キリストと交わり、その愛を十分味わう」ことです。

自分を捨て、自分の十字架を捨てるようにという、イエスさまのみこころをすでに私たちは学びました。しかし、残念ながら私たちにはそうする力が十分に備わっていません。

つい、自己中心的な考えにとらわれ、人や世界や神さままでも自分の思い通りに動かそうとします。そして、うまくいかずにイライラしてしまうのです。あるいは、傲慢になり、人に対して上から下に向かってものをいったり、行動したりしてしまいます。そして、イエスさまの願い、みこころを知るための努力も不十分だし、たとえ知っていてもなかなか従いたくないと思ってしまいます。

しかし、そんな私たちを、イエスさまは決して見捨てません。さじを投げたりなさいません。赦して、愛し、祝福し、期待し続けてくださいます。

弟子たちは、この後みんなイエスさまを裏切りました。ユダだけが裏切ったのではなく、12人全員です。しかし、ユダを除く11人は、イエスさまが復活なさったとき、再びイエスさまについていきました。そして、赦され、励まされ、イエスさまの愛を再び味わいました。一方、ユダはイエスさまについていくことをやめて首をつってしまいました。ですから、赦される体験をすることができませんでした。

イエスさまの弟子になるとは、完璧な人間、立派な人間になるということではありません。本来の自分に戻ることです。強さも弱さも全部ひっくるめて、等身大の自分に戻ることです。その自分が、イエスさまに愛されている。その自分が、神さまの栄光を現すことができる。その自分が18-19節に書かれているような力を発揮することができる。それを信じることです。

イエス・キリストは、あなたのために十字架にかかってくださいました。命を捨てても惜しくないほどに、あなたのことを大切に思っておられます。その愛を受け止め、感謝しながら、この方により頼みながら生きる……それがイエス・キリストに従うということです。

より高価で素晴らしい人生

なぜ多くの人は、自分を捨て、十字架を負って、イエスさまに従って行けないのでしょうか。それは、皆さんと違って、り高価ですばらしい世界を知らないからです。

イエスさまと共に生きる人生がどんなにすばらしいかを体験したならば、「捨てろ」と強要されなくても、あなたは自分を捨て、自分の十字架を負い、イエス・キリストに従っていくことでしょう。

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