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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

誰を信頼するのか

エレミヤ書17章5節〜8節

(2019年5月19日)

イントロダクション

イエスさまを信じていてもいなくても、私たちの人生の中には問題がやってきます。しかし、そこでどのような態度をとるかによって、問題のまっただ中で平安や希望を与えられるかどうか、そしてその後の人生がどうなるかということが変わってきます。

エレミヤは、今日の箇所で、「人間を信頼する生き方」と「神さまを信頼する生き方」を対比させています。

1.エレミヤのメッセージ

エレミヤの活動した時代

預言者エレミヤは、南王国ユダの王ヨシヤの治世13年(前627年)に預言者として召し出されました。その後、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの時代、さらには紀元前586年にエルサレムの町と神殿がバビロンによって破壊され、多くの民が捕囚されてから数年後まで、40年以上にわたって活動しました。

エレミヤが活動した時代の、少し前の王から南王国ユダの歴史を簡単に紹介しましょう。
ヒゼキヤ王
前々回学んだヒゼキヤ王は、偶像礼拝を禁止し、南王国史上最も良い王であると聖書で評価されています。しかし、後継者教育は失敗しました。
マナセ王
前687年に王となったヒゼキヤの子マナセは、当時の中東で最強の大国アッシリアに従って、アッシリアの偶像礼拝を持ち込み、様々な残虐な行ないをしました(第2列王21:1-18)。預言者イザヤも彼によって殺されたと言われています。そのため、神さまはバビロン捕囚をもう取り消しのきかないものになさいます。マナセは死の間際に悔い改め、偶像礼拝を取り除こうとしましたが、国民には浸透しませんでした(第2歴代33:10-17)。
アモン王
前642年に即位したマナセの子アモンは、再び偶像礼拝を推進しました。そして、わずか2年後に家臣の謀反によって殺されてしまいます。これはアモンの暴挙を止めるためというより、王位簒奪を狙うクーデターだったようですが、首謀者たちは民衆に殺されてしまいます(第2列王21:19-24)。
ヨシヤ王
次にアモンの子ヨシヤが王となります(前640年)。ヨシヤは大祭司ヒルキヤのサポートを受けながら、国中から偶像を取り除き、祖父と父が偶像によって汚した神殿をきよめ、モーセの律法に基づく生活を人々に命じました。エレミヤが活動を開始したのは、このヨシヤ王の時代です。

ヨシヤの時代は、アッシリアの勢力が弱まり、代わってバビロンの力が強まっていた時期です。前609年、バビロンがアッシリアを攻撃した際、エジプトがアッシリアへの援軍を送りました(アッシリアを助けるためというより、バビロンを脅威に感じたからでしょう。一方、反アッシリア政策を採っていたヨシヤは、エジプト軍に対して戦いをいどみ、戦死してしまいます(第2列王22:1-30)。

そして、アッシリアもバビロンに滅ぼされてしまいます。アッシリアに捕囚された北王国イスラエルの民は、そのままバビロンの支配下に入りました(バビロン捕囚が続く期間について語っている「エレミヤの70年」は、この年を起点とします)。
エホアハズ王
ヨシヤの死後、その子エホアハズが即位しますが、ヨシヤによって関係が悪化したエジプトの干渉によってわずか3ヶ月で退位させられます。その間、彼は曾祖父マナセや祖父アモンに倣って偶像礼拝を推進しました(第2列王22:31-33)。
エホヤキム王
そして、エジプトはエホアハズの異母兄エルヤキム(エホヤキムと改名)を南王国の王とします。彼もまた罪を重ね、エレミヤ記でもその悪行が記録されています(22章、26-27章、36章など)。

彼の治世の間にバビロンがエジプトとの戦いに勝利して(前605年、カルケミシュの戦い)、パレスチナの支配権を握ります。そして、南王国にも臣従を迫りました。エホヤキムは一時的にバビロンに従いますが、その後反逆します。そのため、たびたびバビロンに従う国々によって略奪を受けるようになります(第2列王24:1-7)。そして、前598年にはバビロン軍によってエルサレムが陥落して、多くの財宝がバビロンに持ち去られ、民が捕囚されました。エホヤキム自身もバビロンに引かれていきました(第2歴代36:6-7)。なお、若き日の預言者エゼキエルやダニエルも、この頃捕囚されました。
エホヤキン王
エホヤキムの代わりに、その子エホヤキンが王となります。彼もまた偶像礼拝を推進します。そして、即位の3ヶ月後にバビロンがエルサレムを包囲すると、降伏してしまいました。そして、またも多くの財宝と人民が奪われて、バビロンに連れ去られました。そればかりか、エホヤキン自身もバビロンに捕囚されてしまいます(第2列王24:8-16)。
ゼデキヤ王
バビロンは、エホヤキンの叔父であるマタヌヤをゼデキヤと改名し、南王国の王としました(前597年)。ところが、ゼデキヤは9年目にバビロンに反逆します。その結果、バビロンの大軍がエルサレムに押し寄せ、町と神殿は破壊され、多くの民がバビロンに捕らえ移されてしまいました。ゼデキヤも目の前で息子たちを殺されたあげく、自身も目をえぐられ、バビロンに連れ去られてしまいます(第2列王24:17-25:21)。こうして、南王国ユダは滅びてしまいました(前587年)。

このように、エレミヤが活動したのは、南王国ユダが終焉に向かっていく暗黒時代でした。

今回の箇所の時代背景

16章と17章は一つの預言です。この二つの章全体を読むと、南王国の民が偶像礼拝の罪を犯していることが描かれています。ですから、善王ヨシヤの時代ではなく、それ以降の時代だと考えられます。おそらく、エレミヤ書でもたびたび言及されているエホヤキム王の時代でしょう。
  • 16:2で、神さまはエレミヤに「結婚するな」と命じておられますから、この預言は彼がまだ若い頃に与えられたものだったと思われます。 それを考えても、エホヤキム王の時代の預言である可能性が高いです。
エホヤキムの時代、パレスチナの支配権を争っていたバビロンとエジプトが戦い、バビロンが勝利しました。そこで、それまでエジプトに従っていた南王国ユダも、今度はバビロンに従うようになります。

ところが、エホヤキムはエジプトの干渉によって王の位を手に入れました。ですから、彼自身も、また側近たちも、バビロンよりはエジプトに対して親近感を抱いていたことでしょう。そこで、間もなくエジプトが勢力を回復して、自分たちがバビロンに反逆しても共闘してくれるだろうと期待していました。

もしも、今回の箇所がバビロンへの反逆直前に語られた預言だとすると、5節の「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が【主】から離れている者は」という神さまの言葉は、そんなエホヤキムと側近たちに向けて語られたメッセージだと受け取ることができます。 事実、南王国がバビロンに反逆したとき、エジプトは助けに来てくれず、国が滅亡寸前まで行ってしまいます。

誰に信頼するのか

エレミヤを通して神さまはエホヤキムや、彼に従う南王国の国民に語りかけました。神さまよりも人間の方を信頼する者は、焼け付く太陽が照りつける荒れ地に生えた木のように、枯れて滅びてしまうと。

一方、神さまに最終的な信頼を置きながら生きる人には、水のほとりに生えている木のように、どんな問題がやってきても枯れることなく、多くの実を結ぶことができます。詩篇の1篇にも同じテーマが語られていますね。

「幸いなことよ悪しき者のはかりごとに歩まず罪人の道に立たず嘲る者の座に着かない人。【主】のおしえを喜びとし昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える」(詩篇1:1-3)。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.全能の神に信頼しよう

おゆだね感覚

私たちが、不安やイライラ、絶望などから平安な精神状態にシフトするきっかけの一つは、自分を超えた世界、たとえば専門家のものの見方とか、論理とか、客観的事実とかを受け入れ、それに信頼したときです。

たとえば、病気になったとき、「悪い病気なのではないだろうか」「もう治らないのではないだろうか」「後遺症が残るのではないだろうか」などと考えると不安になります。

しかし、病院で調べてもらい、お医者さんから「大丈夫ですよ。すぐに良くなります」と言われてほっとしたという経験がありますか? この場合、素人である自分の見方を離れ、自分を超えたもの、すなわち専門家である医師の見方を受け入れ、これに信頼したために、心に平安がやってきたのです。

お子さんが不登校になって悩む親御さんたちの頭の中には、様々な否定的な言葉が渦巻いています。「もう二度と学校には戻れないんじゃないだろうか」「学校に行かないなんて、もうこの子の人生おしまいだ」「こんなことになるなんて、私の子育ては大失敗だった」というふうに。

しかし、不登校になったけれど、そのおかげで現在生き生きとした人生を送っておられる方がたくさんいらっしゃるということを知り、そのうちの何人かの方の体験談を聞いて、「不登校=不幸の始まり」という思い込みから解放されると、「うちの子もきっと大丈夫」と思い、希望が持てるようになるかもしれません。この場合、自分一人の頭の中の考えを離れ、客観的事実という、自分を超えたものを受け入れ、それに信頼したとき、平安がやってきたのです。

この箇所でエレミヤは、究極の超越者である神さまに、私たちの人生をおゆだねしなさいと勧めています。

信頼に応える神

そして、神さまはその信頼に応えてくださいます。神さまは愛であり、皆さんの人生に祝福を与えたいと願っておられます。私たちの目には問題のように見えても、神さまの御手の中で、それは私たちの人生を祝福へと導くプレゼントなのです。

車いすの画家・詩人の星野富弘さんは、器械体操中の事故で、首から下が麻痺してしまいました。一時は荒れて家族に八つ当たりすることもあったそうですが、やがてイエス・キリストを信じ、このような体になったことも、神さまの恵みの中で起こったことだと受け止めなさいました。そして、神さまは星野さんに平安を与えたばかりか、動く首から上を使って多くの素晴らしい絵や詩を創作する意欲と力を与えて、多くの人を慰め励まし手折られます。

ある時、星野さんはインタビューでこんな質問を受けました。。「もしも神さまが目の前に現れたら、いやしを願いますか?」 すると、星野さんはこう答えました。「いいえ。むしろ『神さま。私はこのような体になったことで、言いようもないすばらしい人生をいただきました。どうか私からこの幸せを取り除かないでください』。そう祈るでしょう」と。

エレミヤは、人に最終的な信頼を置くのではなく、神さまに信頼しなさい、神さまに人生をゆだねなさいと勧めています。問題がやってきたとき、私たちはつい「なぜこんなことが起こるのですか」と、神さまに尋ねたくなります。しかし、神さまに人生をゆだねる私たちは、「神さま。私にはどうしてこのような状況がやってきたか分りません。しかし、あなたは最善をなさると信じます。あなたは今、この状況の中で、私にどのような行動をとるよう求めておられますか?」 そう尋ねたいと思います。

信仰という神の賜物

ところが、今回の箇所に続けて神さまは語っておられます。「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。わたし、【主】が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる」(9-10節)。私たちは、自分では神さまに信頼しているつもりでも、実は十分に信頼してはいなかったということがあります。

しかし、聖書はなおも希望を語ります。信仰は私たちが生み出すものではなく、神さまからの賜物(プレゼント)なのです。「神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(第1コリント12:3)。神さまは、神さまにすべてをゆだねる力さえも私たちに与えてくださいます。
★私の経験
私がクリスチャンになったのは、大学2年生のときでした。そして、卒業して数年後、クラブの後輩の一人が突然亡くなったという知らせを受けました。そして、通夜が行なわれていた彼のアパートに行くと、彼のお母さんと、結婚したばかりだという彼の奥さんが遺体の前で涙を流しておられます。参列者が次々と焼香する中、だんだんと私の番が近づいてきました。

最近の葬儀は、通夜式も告別式も斎場で行なうことが多いので、焼香は3人くらいが一緒に、そしてご遺族に背を向けた状態で行ないます。ですから、クリスチャンである自分が焼香しなかったとしてもほとんど目立ちません。ところが、その時は目の前にご遺族がいらっしゃいますし、一人ひとり焼香しています。もし焼香しなかったら目立ちます。

当時の私は、信仰上の様々な理由で焼香したくないと思っていました(今もそうですが)。しかし、この目立つ状況で焼香しなかったら、ご遺族や他の参列者に非難されてしまうのではないか、「まったくキリスト教は」と思われて、イエスさまの御名を汚すことになるのではないかと、非常な恐れにとらわれてしまいました。自分の番がだんだんと近づくにつれ、その恐れは強まっていきます。

そこで、「神さま、どうか平安を与えてください」と祈りました。すると、私の一人前の人(この方は、亡くなった後輩のゼミの指導教授でした)が、奥さんやお母さんと、彼の思い出について長々と話し始めました。「あなたも、あの先生のように、ご遺族に話しかけてもいいんだよ」という聖霊さまの声を聞いたような気がしました。

そこで、私の番が来たときに、私は思いきって奥さんとお母さんに話しかけました。「私はクリスチャンで、焼香はできませんが、ご遺族の皆さんの慰めのためにお祈りしてもいいですか?」 するとお母さんがそれを許可してくださいましたので、私は心をこめて祈らせていただきました。後で振り返ると、ご遺族に話しかけ、祈ったとき、確かに私の心の中にあった不安は取り除かれ、平安が満たしていました。

私たちは神さまの愛の御手の中にあります。それを信じ、ゆだねる力さえ、神さまからのプレゼントです。

まとめ

「誰を信頼するのか。全知全能の創造主の神さまか、それとも自分や他の人の知恵や経験や財力か」。イエスさまは今、私たちにも尋ねておられます。

あなた自身への適用ガイド

  • 現在、平安や大丈夫感覚を失うような状況がありますか?
  • 論理、客観的事実、専門家など、自分を超えた存在の視点を取り入れて「大丈夫」を体験したことが、最近何かありましたか? そのとき、自分や世界に対する見方が、どのように変えられましたか?
  • 「神さまに人生をゆだねる」ということを、最近どのように体験なさいましたか?
  • 信仰さえも神さまのプレゼントであるという話を聞き、どんなことを感じましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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