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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

礼拝の日

ネヘミヤ記8章1節〜12節

(2019年5月26日)

参考資料

2節の「第七の月」とは、太陽暦だと9〜10月頃です。ユダヤの暦では年が改まり、モーセの律法に定められた7つの例祭のうち、ラッパの祭り(1日)、贖罪の日(10日)、仮庵の祭り(15〜21日の7日間。8日目の22日も特別な集会が持たれました)が行なわれる特別な月でした。

6節の「アーメン」とは、「その通り」「真実です」という意味です。

7節の「レビ人」は、神殿において祭司たちの下で働く使命を与えられていた人たち。イスラエル十二部族の中のレビ族の人たちです(祭司はレビ族の中でも、モーセの兄アロンの子孫に限定されました)。

イントロダクション

聖書の神さまに対する礼拝は、私たちクリスチャン、そしてその群れである教会に与えられている使命の一つです。礼拝とは一体何なのでしょうか。

1.帰還民たちの礼拝

バビロン捕囚と帰還

前回も触れましたが、前586年、バビロン(新バビロニア帝国)によってエルサレムの町と神殿が破壊され、多くのユダヤ人がバビロンの都に連れ去られました(バビロン捕囚)。バビロン捕囚はそれ以前から何度も起こっていましたが、この時にイスラエルの南王国は滅亡してしまいました。

その後、前539年に、ペルシャのキュロス2世がバビロンを滅ぼし、その翌年にはバビロンに捕らわれていた諸民族を解放しました。そのため、多くのユダヤ人がイスラエルに戻っていきました。
  • その中には、南王国出身の人々だけでなく、アッシリア捕囚された北王国出身の人々も含まれます。彼らを捕囚したアッシリアがバビロンに滅ぼされたとき、彼らもバビロンの支配下に入ったので、バビロンには南北両王国出身のユダヤ人がいたのです。
そして、ユダヤ人のイスラエル帰還はこの時1回限りではなく、その後何回にもわたって行なわれます。

一方、故郷に戻らなかった人々も多くいました。バビロンで天文学者たちの長官を務めた預言者ダニエルは、ペルシャでも重く用いられましたし、エステル記に登場するユダヤ人たちもペルシャに留まった人々です。エステルは、クセルクセス1世(アハシュエロス)の王妃になります。
神殿の再建
第1回目の帰還民たちを率いたのは、ダビデ王の家系に属するゼルバベル(エズラ記ではシェシュバツァル)です。彼らは、帰還してまず神殿を再建しようとしましたが、サマリヤ人など周辺の民族による妨害のため、16年間工事がストップしてしまいました。そこで、預言者ハガイやゼカリヤが登場して彼らを励ましたので、ようやく工事が再開し、前515年に完成しました。
エズラの帰還
今回の箇所に登場する律法学者エズラは、キュロス2世の解放令から約80年後の前458年、時のペルシャ王アルタクセルクセス1世(アルタシャスタ。クセルクセル1世の息子)の許可を得て、約5千人の人々と共に帰還しました。

エズラは、ユダヤ人が聖書の神さまに対して誠実さや忠実さを取り戻すよう活動しました。
ネヘミヤの帰還
エズラが帰還して10年後の前445年。ネヘミヤは、アルタクセルクセス1世の献酌官(王の相談役)を務めていましたが、エルサレムの城壁が壊れたままで、街の人々が非常に危険な状態に置かれているという話を聞きます。異民族の略奪隊が襲ってきても、城壁がなければ防ぎようがありません。

そこで、ネヘミヤは3ヶ月間断食しながら祈りを積み重ね、ついに一時帰国の許可を王に求めます。すると、王はそれを許可したばかりか、ネヘミヤをユダヤの総督として派遣し、道中の安全確保のために護衛隊を付き添わせ、さらに城壁再建に必要な資材まで提供してくれました。ネヘミヤがいかに王に信頼されていたかが分ります。

この時もサマリヤ人など周辺の民族は様々な妨害工作を仕掛けてきますが、ネヘミヤと民はそれに屈することなく、52日間という短期間に城壁を完成させてしまいました。そして、一旦民は解散し、おのおの自分たちの町や家に戻っていきました。これが今回の直前の箇所に描かれている出来事です。そして、6日が経ちました。

律法の朗読と解説

人々は再びエルサレムに集まってきました。そして、エズラが木で作った台に登って、モーセの律法の書、すなわち創世記から申命記までのモーセ五書を朗読しました。夜明け前から正午頃まで、約6時間にわたって、人々は立ったままその朗読に耳を傾けました。

次にレビ人が次々と現れて、エズラが朗読した律法の内容を解説しました。モーセ五書でも、律法が与えられたのは出エジプト記20章以降ですし、それ以降の箇所でも歴史的な出来事など、律法の内容とは無関係の記述もあります。後の時代の律法学者たちは、モーセの律法は613の命令からなっていると言いましたが、それらの命令一つ一つを解説したのでしょう。

たとえば、モーセの律法の中に安息日に関する規定があります。安息日、すなわち金曜日の日没から土曜日の日没までは聖なる日であり、男も女も奴隷も家畜も、一切の仕事をせずに休めと命ぜられています。レビ人たちは、聖なる日とはどういうことなのか、禁じられている仕事とは具体的にどういう行動なのか、神さまはどうしてこのような命令をなさったのかというようなことを解説したのでしょう。

おかげで、聞いていた人々はみんなその内容をよく理解できました。実は、この解説もまた人々は立って聞いています。食事もせず、疲れをものともせず、人々は律法の言葉に真剣に耳を傾けたのです。

泣くな、喜べ

ネヘミヤ、エズラ、そしてレビ人たちは、そこに集まっていた人々に「悲しんではならない。泣いてはならない」と命じました。彼らが激しく悲しみ、泣いていたからです。どうして彼らは泣いていたのでしょう。それは、律法を朗読され、その内容を詳しく解説してもらって理解したとき、自分や自分の先祖たちが律法の教えとは全く違う生き方をしてきたこと、そしてそのために国が滅びるという悲劇を味わったのだということを理解したからです。彼らは自分たちの罪深さを知って悲しんだのです。

しかし、ネヘミヤたちは彼らに悲しむなと言いました。むしろ、宴会を開いて喜びなさいと。それは、この日が自分たちの罪深さを思い知り、神さまに呪われていることを知って悲しむための日ではなく、これまでの間違った生き方から離れ、神さまが喜ばれる新しい人生を始める晴れの日だからです。

前445年第7の月の1日は、イスラエルが国として本当の礼拝を取り戻した日です。ここから現代に生きる私たちは、自分たちの礼拝についてどのようなことを学ぶことができるでしょうか。クリスチャンにとって、礼拝とはどのような時でしょうか。

2.礼拝とは

集まる日

病気などやむを得ない事情がある場合を除いて、多くのクリスチャンたちは、互いに集まって礼拝をささげようとします。集まったために捕まったり殺されたりする危険があっても(今でもそのような国があります)、かえってクリスチャンたちは、ますますそうしようとします。

なぜそんなに集まることにこだわるのでしょうか。家で一人で聖書を読んでお祈りをしたり、インターネットで牧師がアップしたメッセージのアウトラインを読んだり音声を聞いたりして……ではいけないのでしょうか。

神さまは、個人ではなく「人々」を通して働こうとなさいます。

たとえば、私のつたない言葉を通して人が救いに導かれることがありますが、それはわたしだけの功績ではありません。それまでいろいろと福音的な文書をプレゼントしてくださったり、普段から行ないによって福音の世界を冷笑してくださったり、背後で熱心に祈りを積み上げてくださった方々がいたからなのです。また、何千年も前から信仰を守り、次の世代にそれを伝えてくださったたくさんの人々があり、聖書を日本語に翻訳して私たちの手元に届けてくださった人々があります。救いは、決して伝道者一人だけのわざではありません。

そして、クリスチャンといえども、一人一人はイデオロギーも趣味も好みも考え方もバラバラです。そのようなバラバラな個人がどうして一つになることができるでしょうか。クリスチャンは、同じお方を信じ、同じお方を父と呼ぶ家族であり、同じお方を賛美し、同じお方に使えています。共に集まり、共に賛美したり祈ったりするとき、私たちは同じ神の家族であることを確認することができます。

そのようにして、私たちは心を一つにします。そして、イエスさまのみこころを、協力して行ないます。そうすると、一人一人がバラバラに何かをするよりも、はるかに大きな働きをすることができるのです。礼拝式はともに集まるための良い機会です。

ですから、聖書にはこう勧められています。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか」(ヘブル10:25)。

悲しむ日

礼拝の中で、聖書の言葉や、その解説である牧師のメッセージが心に突き刺さる時がありませんか? 自分があるべき姿にないことが示されたり、間違った方法に進んでいることが分かったりして、心が痛くなるのです。

エズラの聖書朗読を聞き、レビ人たちの解説を聞いたとき、民衆は泣きました。それは聖書の言葉を聞いて、先祖や自分たちが、いかに神さまのみこころから外れて生きてきたかを知ったからです。それが悲しかったのです。

しかし、礼拝で感じる悲しみは、単に自己卑下の悲しみであってはなりません。「自分を責めている人は、変わるつもりが全然無い」という言葉を聞いたことがあります。いくら自分を責めても、方向転換してイエスさまに従おうという思いがなければ、聖書はそれを悔い改めと呼びません。神さまが求めておられることは、私たちが神さまの語りかけに応答して方向転換をすることであって、落ち込んだり悲しんだりすることそのものではないのです。聖書に触れたときに感じる痛みや悲しみは、神さまのみこころにかなう生き方につながって初めて意味を持ちます。
神のことばに対する応答
多くの教会の礼拝プログラムは、「神さまからの語りかけと、それに対する応答」という構造を意識して組み立てられています。きっちりした式次第がない教会でも、です。神さまからの語りかけを無視するのではなく、それに対して応答していくことが礼拝です。

たとえば、
  • 神さまの素晴らしさが宣言されたなら、神さまの素晴らしさをほめたたえるのが応答です。
  • 罪が示されたなら、その罪を捨て去って、新しい生き方ができるよう、神さまに力を求めることが応答です。
  • 約束が示されたなら、それを信じて希望を持つことが応答です。
  • 救いの道が示されたなら、それを受け取ることが応答です。
あなたも主役
礼拝式は、司会者や説教者や奏楽者など、一部の奉仕者だけが作り上げるものではありません。応答する会衆がいて、初めて成立するものなのです。礼拝にお客さんはいません。すべての参加者が、礼拝の主役なのです。

あなたは今日、聖霊なる神さまさまからどんな語りかけを受けていますか? そして、どんな応答をなさいますか?

喜ぶ日

ネヘミヤたちは、自分たちの罪を示されて悲しんでいた民に「喜べ」と言いました。確かに罪のさばきによって、北王国も南王国も国が滅ぼされてしまいました。しかし、神さまはイスラエルを見捨てたままになさらず、国を復興させてくださいました。エルサレムに集まり、聖書の言葉に耳を傾けているユダヤ人たちを神さまは呪っておられるのではなく、過去の罪を赦し、これからの新しい生き方に期待し、祝福してくださっています。だからもう悲しまないで、喜びなさいとネヘミヤたちは命じたのです。

ネヘミヤたちは人々を励ましました。「私たちの罪はもう赦されている。神さまは私たちを愛しておられる。そして、私たちを祝福するという約束は、決して取り消しになったりはしない。神さまは、私たちを大いに祝福してくださるんだ。だから喜ぼう!」と。

人々は喜びました。そして、ごちそうを作って喜びました。それは、彼らが「教えられたことを理解したから」(12節)です。すなわち、神さまの圧倒的な愛を信じたからです。

人々は、喜びを自分の家に持ち帰りました。そして、家族で喜びを分かち合いました。そして、ユダヤの人々は、家族以外の人とも喜びました。貧しくて、ごちそうを用意できない人の分も用意してあげて、喜びの輪に加えたのです。

礼拝で味わった喜びを、仲間内で分かち合うと、それは「交わり」と呼ばれます。そして、喜びを外の人に伝えれば、それは「伝道」と呼ばれます。クリスチャンのさまざまな活動の、扇の要に当るのが、礼拝です。

あなたも、礼拝式で得た喜びや感動を、単に教会堂の中だけで消化してしまうのではなく、あなたの家や地域に持ち帰りましょう。そのとき、人々はあなたの喜びの秘密を知りたくなって、また一人礼拝の場に加わる人が生まれるでしょう。

まとめ

礼拝の意味を考えながら、礼拝式に出席しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたは毎週、公の礼拝式に出席していますか? できていないとすればどういう理由からですか?
  • あなたにとって、毎週の礼拝式に出席することには、どんな良い意味がありますか?
  • 礼拝式にお客さんとしてではなく、主体的に参加するためには、どんなことに気をつけて実践すればいいですか?
  • 今、神さまが具体的に悔い改めるよう迫っておられる態度や行動や思いがありますか?
  • 今あなたは喜んでいますか? 喜ぶことができるはずの事柄を、たとえ感情が伴わなくても10個リストアップしてみましょう。
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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TEL 090-6689-6452
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