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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

死んだら無シンドローム

コリント人への第一の手紙15章30節〜34節

(2019年7月7日)

参考資料

32節の「獣」は、文字通り獣に襲われたのかも知れませんが、おそらく迫害に遭ったことのたとえでしょう。

32節の引用はイザヤ22:13「しかし、なんとおまえたちは浮かれ楽しみ、牛を殺し、羊を屠り、肉を食べ、ぶどう酒を飲んで言っている。『飲めよ。食べよ。どうせ明日は死ぬのだ』と」からの引用です。33節の引用は聖書からではありません。「新聖書注解」(いのちのことば社)によると、当時よく知られていた喜劇からの引用とのことです。

イントロダクション

この話をお読みください

コリント人への第一の手紙の中で、パウロはコリント教会からの質問に答えたり、コリント教会に発生していた様々な問題についての意見や命令を述べています。今回の箇所は、コリント教会の中に「復活はない」と教えている人たちがいるという問題について述べている部分の一部です。復活は私たちクリスチャンの希望の源です。パウロがこの箇所で語っている「もし復活がないならば」という前提の言葉から、復活を信じる私たちへの祝福を考えてみましょう。

1.伝道する意味を確認できる

エペソで獣と戦ったパウロ

32節で、パウロは「もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう」と語っています。

使徒の働きによると、パウロは第2回伝道旅行で短期間、また第3回伝道旅行で2年3ヶ月エペソに滞在しています。第3回伝道旅行ではユダヤ人の一部がキリスト教のことを悪し様に罵ったという出来事(使徒19:9)について書いている他は、特に激しい迫害があったということは書かれていません。
使徒19:23-20:1には、銀細工人デメテリオが中心となって起こった暴動の結果、パウロがエペソを離れなければならなくなったという事件について書かれていますが、それは第1コリントが書かれた後の話なので当てはまりません(こちらの記事をご覧ください)。
使徒の働きは、エペソ伝道が順調に進んだかのように書いていますが、実際には様々な苦労があった上で多くの人たちが救われたわけです。31節でパウロは、「私は日々死んでいるのです」と語っていますが、そう言いたくなるほどの苦労をパウロが経験しているということです。

パウロのメッセージの中心

パウロが宣べ伝えていた教えの中心的なメッセージは、同じ第1コリント15章の前半に書かれています。

1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
2 私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。


福音とは良い知らせという意味で、聖書では救いを手に入れるために信じなければならない真理の内容を指します。その内容は時代によって変化しますが、現代の私たちの救いに関する良い知らせは、上述の通り「イエス・キリストは私の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活した」ということです。この内容を文字通り真実だと信じることによって、現代の私たちは救われます。これがパウロ、そして現在に至るまで聖書的な伝道者が語り続けてきたことです。

その結果、パウロたち伝道者は、あちこちで強烈な迫害を経験しました。イエスさまの十二使徒のうち、11人までは迫害の結果残酷な殺され方をしましたし、唯一生き残ったヨハネも老年になってから島流しに遭っています。パウロも皇帝ネロの迫害によって命を失ったと言われています。

もし復活がないならば

パウロは、もし復活がないならば、自分たち伝道者が命がけで伝道する意味がなくなると言います。

伝道者が様々な迫害を経験し、場合によっては自分の命が危うくなるような状況でも、上記の福音を語り続けるのは、生きている間にどのような決断をするかによって、永遠の運命が決まると信じているからです。

もしも、死んで人生が終わりなのであれば、どうしてそこまでして福音を宣べ伝えなければならないのでしょうか。パウロはそう語っているのです。逆に言えば、死んだ後に永遠に続く第2の人生があるという事実が、伝道の原動力になっているのだとパウロはコリント教会の人たち、そして私たちに訴えています。

キルケゴールという哲学者(1813-1855年)がこんなことを語ったそうです。「永遠の祝福や永遠のさばきを信じて、神の望まれる敬虔な生き方をして、実際は永遠の祝福なんかなかったとしても、どうせ死んで終わりなのだからたいした違いはない。しかし、もしも永遠の祝福やさばきが本当のことならば、それを信じるか信じないかはとんでもない違いを生み出す」。要するに、損得を考えたら、信じた方がいいに決まっているということです。

聖書の記述が正しければ、一旦死んでしまったらもう救われるチャンスは残されていません。生きている今、第1コリント15:1-8に書かれている福音の内容を信じるか、それとも拒否するか、それによって永遠の祝福か、それとも永遠の苦しみかが決まります。だからこそ、職業的な伝道者であれ、そうでないクリスチャンであれ、チャンスを見つけて福音を語るのです。

2.刹那的な生き方を避けることができる

刹那的な人生観

もしも人生が死んで終わりだとすれば、私たちはこのわずか90年前後の人生のことだけ考えていればいいわけです。神さまがどのような生き方を望んでいるかは関係なく、自分がその時その時望むことをしても問題ありません。パウロが語るように、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」(32節)ということになります。
伝道者の書
そして、もしも死んで人生が終わりで、あとは自分の存在が消えて無くなるのだとすれば、今生きているこの人生に意味はありません。

伝道者の書はソロモン王が書いたと言われています。ソロモンは、現代まで続くイスラエルの歴史の中で、一度も戦争を経験しなかった希有の王であり、しかも史上最大の領土を手に入れ、栄華を極めました。しかし、それでも伝道者の書は、あれも空しい、これも空しいという言葉のオンパレードです。

たとえば、「私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう」(伝道者2:20-22)。

ソロモンの後継者レハブアムは、ソロモンに仕えてきた長老たちが民を慈しむ政治を行なうよう勧めたのに、それを無視してかえって民に重税を課したため、北の10部族が反乱を起こしてしまいます。こうしてダビデやソロモンの時代に繁栄したイスラエル統一王国は、北と南に分裂してかつての力を失ってしまいました。もしかしたらソロモンは、嫡男レハベアムの愚かさを見抜いていて、こんな奴に家督を譲らないといけないのかと絶望していたのかも知れません。
死んだら無シンドローム
どうせ死んで終わりなのであれば、人生は死ぬまでの暇つぶしです。極端な話、どんな生き方をしようが変わりはありません。真面目に生きようと、いい加減な生き方をしようと、その時その時がおもしろおかしければそれでいいということになります。ばれて捕まりさえしなければ、犯罪行為だってかまいません。実際、最近の日本にはそのような風潮が蔓延しているようです。

こういう、死んだら無なのだという人生観によって、刹那的な生き方を送ってしまうことを、キリストの栄光教会主任牧師の川端光生先生は「死んだら無シンドローム」と名付けました。

責任ある生き方

しかし、聖書が教える人生観は、死んで人生が終わりになるわけではなく、その後永遠の時間が待っています。そしてその永遠の質の違い、すなわち永遠という時間を喜びや感動が続く状態で続けるのか、それとも決して取り去られることのない苦しみや絶望感の中で過ごすのかは、地上で生きている今の決断によって変わると聖書は教えます。

「あれも空しい」「これも空しい」という言葉に満ちあふれている伝道者の書は、最後にこういう言葉で締めくくられています。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである」(伝道者12:13-14)。

聖書は、人生は死んで終わりではなく、死んでも必ず復活し、生きていた時の行動を評価され、それに応じた報いをいただくことになると教えています。

だからパウロは言うのです。「目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい」(34節)。「目を覚ましていなさい」という言葉は、聖書では「油断するな」という意味で使われています。特に「永遠にこの地上の命が続くわけではないということを踏まえて、心を引き締め、自分の行動を吟味しなさい」という意味です。
永遠に価値のある行動
もしも復活を信じない、すなわち死後も永遠に続く人生を信じないなら、現在の快楽や、せいぜい数年、数十年先の快楽のことだけ考えて行動することになります。

しかし、聖書が問うのは、「あなたが今行なっている行動は、永遠の世界において価値のあることか」ということです。

イエスさまもこうおっしゃっています。「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません」(マタイ6:19-20)。天に宝を積むとは、神さまが評価してくださるような行動をするということです。

何に触れるか

パウロは、「悪い交際は良い習慣を損なう」(33節)と語っています。これは、人は触れたものの影響を強く受けるという前提での言葉です。復活を信じ、永遠のいのちを信じる私たちは、神さまに評価される生き方をし、それを続けるために、どのような情報に触れるかを吟味しなければなりません。たとえば、友人関係や、接するテレビやラジオや書籍、インターネットの情報などです。

非キリスト教的な物事に一切触れてはならないということではありません。もしそうならば、私たちは福音を伝えるこの世界のことを何一つ知ることができなくなります。ただ、自分が普段触れているものの影響を受けるものだということを自覚し、その影響を吟味することが大切だということです。

まとめ

私たちクリスチャンは復活を信じ、人生が死んで終わりではなく、クリスチャンであろうがなかろうが永遠に続くのだということを信じています。それを踏まえた生き方を選び続けていきましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • イエス・キリストを信じ、死んで人生が終わりではなく、永遠に続くのだということを信じたことによって、それ以前と生き方が具体的にどのように変わりましたか?
  • 今回、永遠の祝福と永遠の呪いを再確認したことによって、伝道に対する熱意がどのように変化しましたか?
  • 今回、永遠の祝福と永遠の呪いを再確認したことによって、普段の生き方を具体的にどのように変えようと思いましたか?
  • 普段触れるものが永遠の人生に影響を与えるとしたら、今接しているものの中で、何をどのように取捨選択しなければならないと思いましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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