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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

祝福された悲しみ

コリント人への第二の手紙7章4節〜12節

(2019年7月14日)

参考資料

5節の「マケドニア」はギリシア北部。ピリピ、テサロニケ、ベラヤといった町に教会がありました。

6節の「テトス」は異邦人の伝道者で、パウロが書いたテトスへの手紙の宛先。イエスさまの働き人として優れた働きをし、たびたびパウロの補佐もしました。パウロが亡くなる直前にはダルマティア(今のユーゴスラビア)で伝道活動をし(第2テモテ4:10)、晩年はクレタ島の諸教会を監督する指導者として働いて、94歳で亡くなったといわれています。

イントロダクション

聖書によれば、いつもハッピーで喜びや感動や平安に満たされていることだけが神さまの祝福なのではありません。時には悲しみでさえも祝福です。それはどんな悲しみでしょうか。

1.コリント教会が経験した悲しみ

執筆事情

2019年2月3日の礼拝メッセージで、第3回伝道旅行中だったパウロが、コリント教会宛てに第1と第2の手紙を書いた事情について触れました。簡単に復習しましょう。
第1の手紙
エペソで伝道活動をしていたパウロは、コリント教会から来た人たちや手紙によって、コリント教会にさまざまな問題があることを知りました。分裂、不品行、異端、差別、礼拝の混乱などの問題です。その指導のために書かれたのが第1の手紙です。
罪を犯して悔い改めない人とそれを放置する教会
ところが、いくつかの問題が改善されなかったことが判明します。特にパウロが心を痛めたのが、罪を犯しているのにそれを悔い改めようとしない人がいたことです。その罪の内容については2通の手紙にははっきり書かれていませんが、とにかく神さまが禁止しておられる行動です。

もちろん、パウロはクリスチャンなら一切罪を犯さないはずだと主張しているわけではありません。クリスチャンといえども罪の性質をこの身に宿しています。ですから、イエスさまの十字架と復活を信じて罪の罰から解放され、聖霊さまによって日々きよめられているとは言え、地上で生きている間は罪を犯してしまうことがあります。パウロでさえもそうです(ローマ7:15-24)。

パウロが問題にしているのは、その人が罪を犯していることを指摘されても、そのことを悪かったと認めて神さまの前で悔い改め、正しい行ないに立ち戻ろうとしないことです。

私たちの罪は、イエス・キリストの十字架と復活を信じたことによって、これから死ぬまでの間に犯す罪も含めてすべて完全に赦されています。私たちは、罪深く弱い存在ですが、そのあるがままの姿で神さまに愛され、祝福されています。しかし、それは罪を犯してもかまわないということではありません。

罪は神さまの存在と尊厳を無視することです。私たちが他人から、特に愛する人から存在や尊厳を踏みにじられたら、どれほど傷つき、悲しむことでしょうか。罪は、神さまを傷つけ、悲しませます。ですから、神さまは罪を憎まれます。だからこそ、イエスさまが罪人、すなわち私たちのために身代わりとなり、十字架にかかって血を流し、死ななければならなかったのです。

そしてもう一つパウロが心を痛めていたのは、その罪を犯して悔い改めようとしない人に対して、教会が何の対処もしていなかったことです。
直接指導の不調と涙の手紙
そこで、コリントを電撃訪問して直接指導しますが、これも不調に終わりました。

エペソに戻ったパウロは、涙ながらに手紙を書きました。この「涙の手紙」は現存していませんが、コリント教会の人々に対し、改めてその人に悔い改めを迫り、それでも受け入れないなら教会の交わりから除名しなさいと命じる内容だったでしょう。

パウロは、第1の手紙の中でも「兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない」(第1コリント5:11)と語っています。

イエスさまも弟子たちにこんなことを語っておられます。「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」(マタイ18:15-17)。

福音書時代のユダヤ人は、異邦人や取税人との交際を避けていました。イエスさまご自身は異邦人や取税人を差別しておられませんでしたが、ここでおっしゃっているのは、いくら罪を指摘しても悔い改めようとしない信者とは交わりを絶ちなさいということです。

しかも、涙の手紙の中で、パウロはそのことを相当厳しい調子で書きました。そして、パウロは涙の手紙をテトスともう一人の弟子に託してコリントに送りました。
涙の手紙の効果
その後、エペソを離れたパウロは、マケドニアに渡ります。

そこで、コリントから戻ってきたテトスと再会したパウロは、涙の手紙を受け取った教会のその後の様子を聞かされました。

罪人を処分した教会と悔い改めた罪人

悔い改めた教会
パウロからの涙の手紙を読んだコリント教会の人々は、罪に対して生ぬるい考え方をしていた自分たちの誤りを認め、まず彼ら自身が悔い改めました。そして、罪を犯している人にも悔い改めるよう熱心に勧告しました。ところが、その人が全く聞く耳を持たなかったために、彼らはその人を除名して、教会の交わりから遠ざけました。

コリント教会の人々は、罪を犯している人を軽蔑し、喜んで除名したわけではありません。彼らは、そのような厳しい処分を下すことに対して深い悲しみを覚えました。しかし、それでも罪は神さまへの反逆だから教会がそれを容認するわけにはいかないという思いで、涙ながらに除名処分を断行したのです。

テトスはそれをパウロに報告しました。
悔い改めた罪人
では、罪を犯して悔い改めなかった人はどうなったしょうか。その人は除名されたことで事の重大さを認識し、自分の行為が神さまに対する反逆であると自覚しました。そして、自分の犯してしまった行為を深く反省し、後悔して悲しみました。

テトスはそのこともパウロに報告しました。そこでパウロは、第2の手紙の中で、その人はあんなにも反省して悲しんでいるのだから、今度は処分を撤回してまた交わりに加えてやりなさいと勧めています。

上述のマタイ18:15で、イエスさまは「その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります」とおっしゃっています。教会が下す除名処分は、人を罰して苦しめ悲しませることそのものが目的ではなく、交わりを絶ってしまうことそのものが目的なのでもありません。お互いが神の家族であることを確認し、互いに励まし合いながら一緒に罪を遠ざけてきよい生き方を目指すことが目的なのです。

神のみこころに添った悲しみ

8-10節で、パウロは涙の手紙についてこう語っています。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。 神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」。

この世の悲しみと神のみこころに添った悲しみの違いは何でしょうか。それは、後者がただ単に悲しんだのではなく、罪の悔い改めに伴う悲しみだったということです。

罪人を除名した教会の人たちも、また除名された人たちも、共に罪を悔い改め、罪の行ないを手放して、神さまのみこころにかなう新しい生き方を始めました。それに伴う悲しみだから価値があるのであって、悲しむことそのものが素晴らしいわけではないということです。

それでは、ここから私たちがどんな悲しみを目指せばいいか整理しましょう。

2.悔い改めに伴う悲しみ方をしよう

自分が間違っていたことを認める悲しみ

以前、私たちクリスチャンがきよめられ、人格的に成長していくために必要な3つの祈り、「ごめんなさい」「ありがとう」「よろしくお願いします」という祈りについて語ったことがあります。
  1. 自分が罪を犯している、すなわち神さまがして欲しいと願っていることをしなかったり、して欲しくないと思っておられることをしていなかったりすることに気づいたら、すぐにそれを認めて、神さまに「ごめんなさい」と謝罪します。
  2. イエスさまの十字架と復活を信じてクリスチャンになった人は、過去犯した罪だけでなく死ぬまでに犯す罪がすべて赦されています。ですから、神さまに罪を告白して謝罪するだけで、親子としての親密な関係が回復されます。そのことを信じて「ありがとうございます」と感謝します。
  3. 私たちは自分の決心や修行だけで、神さまのみこころにかなう生き方ができるようにはなりません。イエスさまを信じた時に内に住んでくださるようになった聖霊さまが、私たちが神さまに従えるよう日々作り変えてくださっています。ですから、聖霊さまに「よろしくお願いします」とお願いします。
ところが、「ごめんなさい」の前提条件、すなわち、自分が神さまに逆らう行ないをしていた、すなわち悪を行なっていたと認めることは痛いことであり、悲しいことです。ですから、多くの人が罪責感に蓋をして、「みんなやっているじゃないか」とか「これくらい責められるようなことじゃない」とかいうふうに、自分の行ないの問題点を見ないようにしてしまいます。

しかし私たちは、聖書が教える正しい生き方と自分の現在の生き方を照らし合わせ、それに合っていない部分を見つけたならば、たとえ罪責感の痛みを感じて苦しんだとしても、素直にそれが神さまに対する罪だということを認めましょう。

間違った生き方を捨てる悲しみ

たとえ今の自分の生き方の間違いに気づいたとしても、それを捨てるのはものすごい痛みを伴います。

たとえばある男性は、夫のある女性との不適切な関係を悔い改めました。すると、大好きなその人との関係を断ち切らなければなりません。それはつらいことであり、悲しいことです。

しかし、悔い改めとは過去の間違った行ないを後悔することではなく、その間違った行ないを今後はしないよう決断し、実際にやめることです。

古い生き方を捨てるのは痛みがあります、悲しみがあります。しかし、聖霊さまに「お願いします」と助けを祈り求めながら、その間違った行ないを捨て去りましょう。必ず聖霊さまは捨て去る力を与えてくださいます。

新しい生き方を身につける悲しみ

古い間違った生き方を捨てるということは、神さまのみこころに添った新しい生き方を身につけるということです。

別のある熟年男性は、奥さんとの関係が良くないことに悩んで教会を訪れました。そして、牧師から「奥さんのダメなところを指摘するのはやめて、代わりに当たり前のことに感謝してみよう」と勧められました。そして、その第一歩として「俺の仕事が順調なのも、家で何不自由なく生活できているのも、みんな君のおかげだよ、ありがとう」と言いましょうと。

ところが、実際にそれを言おうとしても、照れくさくてなかなか口にできません。そして、何と数ヶ月が経過し、ついに意を決してそれを口にすると、一瞬ぽかんとした奥さん、きっとした表情で「その通り。やっと分ったの?」

ご主人、牧師に「妻がつけあがった」と文句を言いましたが、それでも続けるように励まされ、がんばってがんばってがんばって感謝し続けました。それからさらに数ヶ月後、奥さんと道で出会った牧師がご主人との関係について尋ねると、奥さんほおを赤らめて答えました。「最近、主人との関係は劇的に変わりました。まるでハネムーンの時のようです」。

新しい生き方を身につけるのには、ものすごいエネルギーが必要です。ですから、苦しいことを覚悟し、聖霊さまに「お願いします」と祈って助けを求めながら励んでいきましょう。時間がかかっても、それはあなたには無理だということではありません。聖霊さまは、必ずあなたを助けて、新しい生き方を身につけさせてくださいます。

まとめ

神さまのみこころに添った悲しみを体験しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 神さまや他のクリスチャンから罪を指摘されたのに、しばらくそれを素直に認めて悔い改められなかった経験がありましたか? その後、どうやってその痛みを克服しましたか?
  • 悪いと分っていても、間違った生き方をやめるのに苦労した経験がありますか? どうしてやめられませんでしたか? そして、どうして最終的にそれをやめることができましたか?
  • 神さまが望まれる行動は分っているのに、それを実行するのに苦労した経験がありますか? それを阻む壁は何でしたか? そして、どうして最終的にそれを実行しようと決断できましたか?
  • 自分の努力だけではなく、神さまの助けによって、間違った行ないを捨て去ったり、正しい行ないを始め、それを続けたりすることができたと感じられた経験がありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
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