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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

キリストスーツ

ガラテヤ人への手紙のテーマ3章24節〜29節

(2019年7月21日)

参考資料

「律法」とは、神さまを信じて救われた者たちがどのような生き方をすればいいか、神さまが示された命令のこと。人類には、時代によって様々な律法が与えられましたが、特にここでは、出エジプトを経験した後のイスラエル(ユダヤ人)に対して与えられた「モーセの律法」のことを指します。

26節の「キリストにあって」は、直訳すると「キリストの中で」。

27節の「キリストにつくバプテスマを受けた」は直訳すると「キリストの中にバプテスマされた」。藍染めなどの布の染色で、染色液の中に布をどっぷりとつけると、染色液と布が一体化して布が美しい色に染まります。それと同じイメージの表現です。

29節の「アブラハムの子孫」は、2つの意味で用いられます。1つはアブラハムの肉体的な子孫という意味です。なお、アブラハムの子孫はユダヤ人だけではありません。アラブ人やエドム人などもそうです。
もう1つは、アブラハムと同じ方法で、すなわち信仰によって救われた人という意味です。ここでは後者の意味で用いられています。「ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい」(7節)。

イントロダクション

11年前、「ハンサムスーツ」という映画が公開されて評判になりました。「裸の大将」の山下清さん役で知られるお笑い芸人の塚地武雅さんが主人公です。太めでお世辞にもハンサムと言えない容姿にコンプレックスを抱いていた主人公が、洋服の青山で手に入れたハンサムスーツを着ると、二枚目俳優谷原章介さんそっくりの外見に変身して……というお話です。

「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」(27節)の中に、「キリストを着る」という表現があります(ローマ13:14にも登場します)。ハンサムスーツや着ぐるみを想像してしまいますが、もちろんこれは比喩的な表現です。パウロは、そしてこれを書かせた聖霊さまは、この表現を通して私たちに何を教えようとしているのでしょうか。特にクリスチャンの人間関係の持ち方について、教えていただきましょう。

1.キリストを着るとは

律法主義への反対

宛先
この手紙の宛先であるガラテヤとは、特定の町の名前ではなくもっと広い地方名です。
  • 元々のガラテヤは、今のトルコの中央部から北部にかけての地域を指す名前でした。パウロは第2回と第3回のときに訪問しています(使徒16:6、18:23)。
  • ローマ帝国属州としてのガラテヤ州は、元々のガラテヤ地方の他、隣接するフルギュア、ピシディア、ルカオニアの各地方を含みます。パウロは、第1回伝道旅行の際、ガラテヤ州の南部にあった(ピシディアの)アンティオキア、イコニオン、リステラ、デルベといった町々で伝道し教会が誕生し、第2回の伝道旅行でも訪問しています(使徒13:14-14:23、16:1-5)。
ガラテヤ4:13-14には「あなたがたが知っているとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに」と書かれています。続けて「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです」(4:15)と書かれているので、目の病気にかかったのかもしれません(他に、マラリア、迫害など諸説あり)。

第1回伝道旅行でガラテヤ州南部で伝道したときの使徒行伝の記事には、それを示唆するような記述がありません。一方、第2回伝道旅行でガラテヤ州北部、すなわち元々のガラテヤ地方を訪れたときの記事では、「それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った」(使徒16:6)と書かれています。聖霊によって禁じられたというのがどういう状況かは具体的に書かれていませんが、パウロが眼病にかかるなど肉体的な弱さを味わうことを通して示されたという可能性もあります。

ですから、ガラテヤ書の宛先は、第2回伝道旅行で誕生した、ガラテヤ州北部の諸教会でしょう。その場合、執筆年代は第3回伝道旅行でエペソに滞在していた紀元53-56年の間、コリント人への第一の手紙と同じ頃に書かれたと考えられます。
ガラテヤ書のテーマ
ガラテヤ書のテーマの一つは、ガラテヤ地方の諸教会に「律法主義」に基づく教えが忍び込み、相当数の信者たちがそれに惑わされていたことです。

律法主義とは、異邦人は恵みの福音、すなわち「イエス・キリストが自分の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということを信じるだけでは不十分で、モーセの律法を守り、律法が定めているとおりに割礼(男性の外性器の包皮の一部を火打ち石のナイフで切り取る儀式)を受けなければ救われないという教えのことです。

一方ユダヤ人の場合には、生まれて8日目に割礼を受けていますから、福音を信じるだけで救われるというわけです。そして、福音を信じた後も、モーセの律法に従う生活を続けなければなりません。これが律法主義です。

この手紙の中で、パウロは律法主義を否定し、惑わされているガラテヤの信者たちを叱責して、本来の正しい信仰を取り戻して欲しいと訴えています。

律法は養育係となった

では、モーセの律法はどうしてイスラエルに与えられたのでしょうか。24節でパウロは、「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです」と書いています。「こうして」の前にパウロが語っている内容は、モーセの律法がイスラエルに与えられた目的についてです。

モーセの律法が与えられた目的はいくつかありますが、パウロがこの箇所の直前で語っているのは、「モーセの律法を実践しようとする人は、自分が罪人であって、自分の力では神さまに受け入れられるほどきよい生き方をすることができない存在だということを思い知らされる。まさに律法は、自力救済が不可能だということを我々に悟らせるために与えられたのだ」ということです。

律法が神さまによって与えられた以上、それを守ることは正しいことです。しかし、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、誰も神さまの命令を完璧に守れる人はいません。人間は神さまの命令を何度も何度も知らぬ間に、あるいは意識的に違反します。

山上の説教で、イエスさまはモーセの律法について解説していらっしゃいますが、ただ書いてあるとおりの行動をするだけではなく、内面も伴わなければダメだと教えておられます。たとえば、「殺すな」という命令について、ただ単に物理的に人を殺さなければいいというわけではなく、他人に対して腹を立てたり罵ったりするだけでこの命令に違反することになるとおっしゃっています(マタイ5:21-22)。

こんな厳しい基準でさばかれたら、誰も自分には罪はないと主張できる人はいません。こうして律法によって自分で自分を救えないと悟った人間は、神さまによって一方的に罪を赦され、救っていただかなければならないということを知ります。

そのような一方的な罪の赦しと救いをもたらすために来られるのが救い主、キリストです。キリストは、神さまの命令に逆らい続けている私たちの罪の罰を身代わりに負うことで、私たちがそのままの姿で神さまに受け入れられるようにしてくださいます。

「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです」(2:16)。

もしも、律法によって自分の罪深さを思い知らされた人の元に救い主が現れたなら、その人は喜んで救い主を信じて、救い主を通して与えられる神さまからの赦しを受け取ることでしょう。「律法は私たちをキリストに導く養育係だ」というのはそういう意味です。

キリストを着るとは

こういう話の流れの中で、「キリストを着る」という言葉が語られています。キリストがまるで着物のような語られ方をしていますね。そして、着物と言って思い出すのが、創世記3:21の記事です。「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた」。

アダムとエバが、神さまが決して食べてはならないとお命じになっていた禁断の木の実を食べたとき、彼らは自分が裸であるのを恥ずかしいと思うようになりました。あるがままの自分の姿が受け入れられなくなったのです。そこで、イチジクの葉っぱで腰の周りを覆って裸の恥を隠そうとします。ところが、葉っぱはすぐに枯れてしまってまた裸の恥があらわになってしまいます。

神さまはそんな二人をあわれんで、恒久的に裸の恥を隠せる皮の衣を用意して着せてくださいました。皮の衣ということは、材料の皮が何かの動物から取られたということです。すなわち、その動物は二人の裸の恥を覆うために、死んで血を流したわけです。

ヘブル語の赦す(ナーサー)という言葉は、覆い隠す(カーサー)という言葉と関連があります。罪が覆い隠されると、神さまはもうそれを見なくなり、さばくことをなさらないということです。

「キリストを着る」という27節のパウロの言葉は、アダムとエバが皮の衣着ることで裸の恥を覆い隠された、すなわち罪を赦されたということと関係しています。

私たちの本体は欠陥だらけで、神さまの怒りとさばきを受けて当然の罪人です。しかし、その上に(ハンサムスーツではなく)キリストスーツを着せていただいたとき、父なる神さまは御子イエスさまをご覧になるような目で私たちを見つめてくださいます。父なる神さまはイエスさまをどのような目でご覧になっているでしょうか? それと同じまなざしを私やあなたにも向けてくださっているのです。

その結果、私たちは罪が赦されて永遠の滅びという刑罰を免れたばかりでなく、神さまの子どもというとんでもなく祝福された名誉ある身分を与えられることになりました。そして、子どもとして愛され、守られ、導かれています。
すでにキリストを着ている
しかもパウロは、「キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです」(27節)と語っています。あなた方はすでにキリストを着ているのだということです。

参考資料で27節の「キリストにつくバプテスマ」という言葉の持つイメージについて書きました。バプテスマ(洗礼)は、イエス・キリストの福音を信じて救われた私たちが、キリストと一体になったということを表す儀式です。布に染め付けられて一体となった染料がもう布から離れてしまうことがないのと同じように、私たちとイエス・キリストはもう離ればなれになることはありません。

だから、モーセの律法を守り、割礼を受けなければ救われないなどと、まるでまだあなた方が救われていないかのように教える偽教師に惑わされるな。パウロはそうガラテヤの諸教会に訴えているのです。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。特に、クリスチャンの人間関係について教えていただきましょう。

2.キリストスーツを通して人と接する

自分を赦そう

電車の中で、数名の女子高生たちが、どうやら嫌な先輩についてうわさ話をしているようです。そのうち、一人が忌々しそうに大声で言いました。「あの人、絶対ズレてるよ!」 ……すると、何人かの男性が、一斉に自分の髪の毛を押さえました。

自分の中に受け入れていない部分があると、それを連想するような情報が飛び交うと、過剰に反応してしまいます。

誰かが自分に実害を与えたり、与える危険があったりするときに、その人に対して否定的な思いを持ってしまうことは仕方のないことです。しかし、別に直接迷惑をかけられているわけでもないのに、誰かのことを苦々しく思うことがないでしょうか。それはもしかしたら、相手の存在によって、受け入れられない自分自身の姿を見せつけられてしまっているせいかも知れません。
嫉妬
たとえば嫉妬。自分が不十分だと思い、しかもそれについて自分で自分を責めているポイント、コンプレックスを感じている部分があるとします。ところが、相手がその点で優れていたり、他の人から評価されたりしているのを見ると、自分がますます惨めに思えてしまします。そこで、そんな人との付き合いを避けたり、あら探しをしたりしたくなるかも知れません。

たとえば、私はあまり社交的なタイプではありません。もしもそれにコンプレックスを抱いていたとしたら、初対面の人とも簡単に友だちに慣れる人を見ると嫉妬するかも知れません。そして、「ふん。八方美人め」などと陰で悪態をついたり、SNSでそういう噂を垂れ流したりするかも知れませんね。

アダムとエバの息子であるカインとアベルは、嫉妬が高じて悲劇を招きました。カインは、自分のささげものが神さまに受け入れられなかったのに、弟アベルのささげものが受け入れられたことに嫉妬しました。本当はカインのささげ方に問題があっただけなので、正しいやり方でささげ直せば受け入れられると神さまはおっしゃいました。ところが、嫉妬のあまり、カインはアベルを殺してしまいました。
投影
また、投影という心の動きもあります。これは、受け入れていない自分自身の性質を他の人の中に見つけると、それを異常に叩きたくなる心理のことです。

以前、3人のお子さんがいるお母さんとお話をしたときの話です。上の2人との付き合いは特に葛藤がないのですが、一番下のお子さんがあまりにもグズなので、見ているとイライラして、つい「早くしなさい!と怒鳴ってしまうのだということです。しばらくお話を聞いた後、こう尋ねました。「一番下のお子さん、誰かに似ていませんか?」

するとそのお母さんは「そういえば私自身、小さいときから両親や祖父母から、お前はグズだと叱られていたのを思い出しました」とおっしゃいました。叱られるから一生懸命早く行動しようとしてきたけれど、下の子はグズなのに反省もしないでのほほ〜んと生きている。これは罰を与えてやらなければ、昔の自分に申し訳が立たない。というわけで、怒りが沸き起こってきた……ということに気づかれたのです。
自分を赦そう
そこでこのお母さんは、目を閉じて自分の胸に手を当て、「ゆっくりでいいよ。ていねいで素敵だね」と何度も語りかけました。するとやがてポロポロと涙を流されました。そして、その後は下のお子さんのマイペースさに対して以前ほどイライラすることがなくなったそうです。

福音を信じてクリスチャンとなった私たちは、たとえ自分自身や他人がどう評価したとしても、神さまの目には高価で貴い素晴らしい存在です。なぜなら、キリストスーツを身にまとい、神さまはキリストをご覧になっているように私たちをご覧になっているからです。

そればかりではありません。聖霊なる神さまによって、外面のキリストスーツにふさわしい内面も育てていただいています。そう信じることができたなら、嫉妬や投影の心から解放されて、きっと多くの人たちともっともっと親密な関係、温かい関係を持つことができることでしょう。

神さまがあなたのすべてを赦し、愛し、成長を信じて期待しておられるように、あなたもあなた自身を赦し、愛し、受け入れ、期待しましょう。

人を赦そう

イエス・キリストが十字架にかかり、罪の赦しをもたらしたのは、あなたのためだけではありません。イエスさまは、全人類の罪のために死に、復活なさいました。現時点でその人がキリストの福音を信じていてもいなくても、すべての人の前にイエスさまの救いが差し出されています。

そもそもイエスさまが十字架にかかられたのは、私やあなたが生まれる2000年も前の出来事です。私たちがイエスさまを信じるはるか昔に、父なる神さまはあらかじめ私たちを選んでくださり、イエスさまの十字架と復活による救いを用意してくださっていたわけですね。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。

もちろん、神さまがイエスさまを通して差し出してくださっている救いは、私たちが信じて受け取らなければ私たちのものにはなりません。しかし、まだ福音を信じていない人の中で、誰が最終的に救われるのか、死ぬまで拒否し続けて救われるチャンスを永遠に失ってしまうのか、それは神さま以外誰にも分りません。

実際、キリストと教会の敵として迫害の急先鋒だったパウロも、ある日突然イエスさまを信じました。当時のクリスチャンたちの中で、一体どれほどの人が「やがてあの迫害者パウロも救われる」と期待していたでしょうか。

私たちは神さまではありません。ですから、あの人は救われる、あの人は救われないと勝手に決めることはできません。嫌〜なあの人だって、いつ何時キリストを信じて救われるか分りません。私やあなたのためにキリストスーツを用意してくださった神さまは、嫌なあの人のためにもキリストスーツを用意してくださっているかも知れないのです。

ですから私たちは、相手がクリスチャンであってもなくても、キリストスーツを着た人、すなわち神さまにそのままの姿で愛されている人として接しましょう。

それは、その人の問題行動を無視しなさいということではありません。神さまは、私たちクリスチャンの問題行動について、状況や問題や他の人の言葉を通してそれが間違いだということを教えてくださいます。他の人が問題行動をしているときには、それを率直に指摘しなければなりません。

ただし、その人を馬鹿にしたり人格を否定したりするような接し方をしてはなりません。「(愛は)礼儀に反することをせず」(第1コリント13:5)です。大切な我が子が間違いを犯したとしたらどういう接し方、語り方、教え方をするか考え、そのような接し方をしましょう。

期待を伝えよう

そして、神さまがイエスさまを信じた私たちを、必ずイエス・キリストのような姿に成長すると期待しておられるように、私たちもどんな人も必ず良い方向に変化成長できると信じましょう。そして、それを積極的に相手に伝えていきましょう。

大学時代、臨床心理学の授業で相談技法の演習をしたとき、担当教授(クリスチャンです)が「君の話の聴き方は見所がある」というような言葉を語ってくださいました。卒業後何年かたって、本格的にカウンセリングの勉強をしてからその時の逐語記録を読み返すと、なんとまあそれはそれはひどい話の聴き方でしたが、それでも教授はそう言ってくださったのです。あの言葉が、私が牧師の傍ら、心理カウンセラーやスクールソーシャルワーカーといった相談援助の仕事をしようと思った一つの、そして大きな原動力の一つになっています。

私やあなたが語る言葉が、その人の中にある神の子どもとしての素晴らしさに気づき、それを生かそうと思ってくれるような励ましに満ちた言葉でありますように。

もしも私たちがそういう言葉を普段用いるならば、イエス・キリストの福音について語るとき、その人はきっと素直に耳を傾けてくれることでしょう。

まとめ

自分を赦し、人を赦し、期待の言葉をかけられる、そんなクリスチャンになるべく、聖霊さまと共に、また互いに励まし合いながら日々修練しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 「キリストを着る」という言葉を聞いたとき、最初にどんなイメージを持ちましたか?
  • 最近、特に実害がないのに、他の人にイライラしたことがありましたか? それは嫉妬、あるいは投影かもしれないと考えてみるとどんなことに気づきますか?
  • 嫌な人がいますか? その人が将来必ずイエスさまを信じて救われるとしたら、その人に対する感じ方や具体的な接し方がどのように変わりますか?
  • 今週、誰に対してどのような「期待の言葉」を描けるか考え、計画しましょう。誰にどんな言葉をかけるつもりですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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