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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

神の武具

エペソ人への手紙6章10節~18節

(2019年7月28日)

参考資料

この手紙の著者は使徒パウロです。4月7日のメッセージでも触れましたが、ローマで皇帝の裁判を待つ間(紀元60-62年の2年間)、自分が借りた家に住むことが許可されましたが、鎖につながれて自由に出歩くことはできず、兵士による監視下に置かれました。その間にこの手紙が書かれ、同時期に書かれたコロサイ書・ピリピ書・ピレモン書と合わせて「獄中書簡」と呼ばれています。

宛先は「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」(1:1)と書かれていますが、古い写本には「エペソの」という言葉が抜けています。第3回伝道旅行でエペソに約3年滞在したパウロは、そこを中心としてアジア州の町々(スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアなど。これらの町とエペソにあった教会は、黙示録1:11で「7つの教会」として登場)で伝道しました。それらの諸教会で回覧されることを前提として書いたのでしょう(コロサイ4:16参照)。

12節の「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊」は、すべてサタンとその配下である悪霊たちのことを指しています。1:21の「支配、権威、権力、主権」も同様です。

イントロダクション

イエスさまが十字架にかかる直前、弟子たちについてこう祈られました。「わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(ヨハネ17:15)。

私たちは、問題そのものからは、必ずしも自由にはなれません。生きていると、様々な問題にぶつかります。

しかし、その中で、神さまは私たちを破壊しようとする悪い者から守り、問題にぶつかっているにもかかわらず、そこで、笑い、喜び、平安を味わい、問題を祝福の種に変え、かえって周りの人々の励ましになるようにしてくださいます。

あなたもそのような勝利を味わいたいですか? 神さまによって、あなたはそれを味わうことができます。そのことについて今回はエペソ書から教えていただきましょう。

1.私たちの戦いの本質

霊的な戦い

12節でパウロは、「私たちの格闘は」と語っています。すなわち、私たちクリスチャンが戦いの中にあるということを示唆しています。クリスチャンになっても、様々な問題との戦いが無くなるわけではありません。私たちは病気との戦い、人間関係での戦い、仕事上の戦い、経済的な戦い、眠気との戦いなど、様々な戦いを経験しています。

それどころか、そういう肉体的・精神的な戦いに加えて、クリスチャンになると霊的な戦いが始まります。

霊的な戦いとは何でしょう。それは、霊的健康を守るための戦い、すなわち、神さまとの正しい関係が深まるか、それとも損なわれるかを巡る戦いです。

そして、その守るべき正しい関係は、私たち自身と神さまとの関係に留まりません。私たちは、他の人たちと神さまとの正しい関係が保たれるための戦いも経験しなければなりません。
他の人たちと神さまとの関係は自分には関係ないと言う人は、他の人たちが救いを受け取らずに永遠の滅びを招いたり、本来味わえるはずの祝福を一切受け取らなかったりしてもかまわないと言っているのと同じです。

本当の敵

12節全体はこうです。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです」。参考資料にも書いたとおり、血肉とは人間のことです。私たちが戦うべき敵は、憎たらしいあの人ではありません。サタン(悪魔)とその配下の悪霊たちです。

サタンも悪霊も実在します。ただし、いかにも悪魔っぽいの姿(全身真っ黒で、コウモリのような羽が生えていて、しっぽがとがっていて、三つ叉の槍を持つ姿)で現れることは滅多にありません。詐欺師がいかにも怪しい姿で現れたりしないように、サタンや悪霊は、それとは分らないやり方で私たちに関わってきます。

11節に「悪魔の策略に対して堅く立つことができるように」という言葉があります。サタンは行き当たりばったりに行動したりしません。明確な目的を持ち、それを実現するための戦略を練って行動します。

では、サタン一党の目的はなんでしょう。決して、単に私たち悩ませたり、苦しめたりする嫌がらせではありません。私たちを神さまから遠ざけて、完全に滅ぼすことです。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(第一ペテロ5:8)。

その目的にかなうならば、彼らはどんな手でも使います。
サタンの手口
私たちを神さまから引き離すために、サタンや悪霊たちはあの手この手の攻撃を仕掛けてきます。彼らが用いる主な武器は、「もっともらしい嘘」です。それを、様々な状況の中で私たちの心に投げ込みます。

たとえば、ヨブ記の主人公ヨブは、様々な苦しみを味わいました。そんなヨブに対して、サタンは「神がお前を愛しているなら、こんなひどい目に遭うはずがない。神はお前を愛してなどいないのだ」という嘘、あるいは「お前はひどい人間だから、神に愛される価値などないのだ」という嘘を吹き込もうとしました。そして、神さまに対する信頼の心を奪い去り、神さまを呪わせようとしたのです。

逆に、特に苦しみを味わっていない人には、「ほら。神なんか信じなくても、神に忠実に従わなくても、十分幸せだろう?」と語りかけます。これもまた嘘です。

さらに、サタンは地上の祝福をちらつかせて、神さまではなくサタンに従うよう誘惑しますイエスさまに対する誘惑のひとつはそれでした。この世の栄華を見せて、もし神ではなくサタンを礼拝するならば、この世の支配者にしてやろうと誘惑しました。アダムとエバに対しても、「この木の実を食べれば、神のようになれる」と言って誘惑しました。

神の武具

このように「もっともらしい嘘」を用いて私たちを神さまから引き離そうとするサタンと悪霊どもに対抗するために、パウロは神さまが与えてくださる武具で身を固めるよう勧めています。

「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」(13-17節)。
ここでは、真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾、救いのかぶと、神のことばの剣という6つの武具が挙げられています。これら一つ一つがそれぞれどういう意味を持つかは、今回は詳しく解説しません。

大切なのは、どれも神さまが語られたみことばに関係しているということです。
  1. 真理の帯……神さまに関する真理は、私たちが悟りを開いたり、研究したりして手に入れるものではなく、神さまの方から啓示されて初めて知ることができます。
  2. 正義の胸当て……何が正しくて何が間違っているかを最終的に判定するのは神さまです。ですから、神さまに教えていただく必要があります。
  3. 平和の福音の供え……福音とは、救われるために信じなければならない内容です。それは私たち人間が勝手に考え出しても無効です。救いは神さまがくださるものですから、救われるために必要な情報も神さまに教えていただかなければなりません。
  4. 信仰の盾……「鰯の頭も信心から」のように、とにかく何かを信じていればいい、というわけにはいきません。大切なのは何を信じるかです。信じるべき内容は、神さまが与えてくださった約束です。
  5. 救いのかぶと……救いの内容、救われるための条件などは、神さまに教えていただく必要があります。
  6. 御霊の剣……攻撃用の武具です。それは神のことばだと書かれています。
聖書は、神さまのみことばの記録集です。聖書を読めば、私たちは神さまの考え、目的、計画、約束などを知ることができます。

サタンや悪霊どもに対する霊的な戦いに勝利する唯一の方法は、聖書の言葉を学んで、それに基づいて信仰を形作り、それに基づいて祈ることです。すなわち、聖書の言葉によってサタンの誘惑を見分け、聖書の言葉によって善悪を判別し、聖書の言葉によって将来を見通し、聖書の言葉によってどんな祝福が与えられるかを知り、聖書の言葉によって何が自分にとって最高の幸せなのかを知り、聖書の言葉によって希望を抱くことです。

パウロはアジア州の諸教会に対して、そして現代の私たちに対して、そのことを教えようとしました。

2.霊的な戦いに勝利しよう

すでに戦いの中にあることを自覚しよう

私たちは、そのような霊的な戦いの中に置かれています。たとえそれを自覚していなくても、あるいはどんなにそれが不愉快であろうとも、それが事実だと聖書は教えています。

先の大戦中、焼夷弾が町に雨あられと降り注いでいる中で、「これは夢だ。本当は戦争なんか起こっていないんだ」と信じるのは自由です。しかし、どんなにそう念じたとしても、またたとえそれを本当に信じられたとしても、それによって戦争が無かったことにも空襲がなかったことにもなりません。むしろ、防空壕への避難をしないで焼け死んでしまうでしょう。

ですから、私たちクリスチャンは霊的な戦いの中にいるのだということを、まずは自覚することが大切です。

サタンの嘘を見抜こう

サタンたちが用いる嘘は、まとめて言えば「神さまを信じてもあなたは幸せになれない。神さま以外のものを手に入れれば幸せになれる」というものです。

ということは、どんなに魅力的な未来が待っているとしても、それが神さまの存在を無視するものだったり、神さまの教えに反することだったりすれば、サタンが吹き込んだ嘘だと判別できます。

以前ビジネスの勉強をしたとき、師匠の一人にこんなことを言われました。「自分の大切な家族、特に子どもたちに対して、『これが、お父さんがやっている仕事だよ。これをやって君たちを養っているんだよ』と堂々と説明できないビジネスは、どんなに儲かるとしてもやるべきではない」と教わったことがあります。

同様に私たちクリスチャンは、神さまに向かって「これがあなたに愛され、あなたに救われた私が行なっていることです」と堂々と説明できないようなことを行なうべきではありません。

もちろん、イエス・キリストの十字架と復活を信じた私たちは、あらゆる罪を赦されています。ですから、仮に神さまの前に堂々と説明できないこと、すなわち罪を行なったとしても、それを告白して赦しを請うだけで罪からきよめられます。

しかし、だからといって罪を犯しても全然問題ないというわけではありません。私たちの罪の赦しのために、イエスさまの命がささげられなければなりませんでした。それほど罪は神さまを傷つけ、神さまが嫌われるものなのです。ですから、何をするか選択しなければならないときには、たとえ短期的には損するような行動であったとしても、神さまに堂々と報告できる行ないの方を選び続けましょう。

みことばによって勝利しよう

私たちに対する神さまの思い、神さまの目的、神さまが私たちに望まれる行動や嫌われる行動は、神さまが私たちに与えてくださった聖書を読むことで知ることができます。

サタンや悪霊に対抗する霊的な戦いのための武具というイメージで、聖書を読んでみましょう。きっと様々な気づきが与えられることと思います。

もちろん、聖書の言葉がクリスチャンに当たられている重要な武具だということは、サタンや悪霊どもはよく分っています。ですから、それを逆手にとって、聖書の言葉を使って嘘を吹き込むことさえします。

荒野でイエスさまを誘惑したサタンは、聖書の言葉を使って、「聖書にこんなふうに書いているでしょう?」と言って、イエスさまが救い主の使命を行なえないように誘惑しようとしました。
文脈に照らして読もう
聖書を使ったサタンの嘘に引っかからないためには、その箇所だけ抜き出して読むのではなく、前後関係や聖書の他の箇所と照らし合わせて読む必要があります。

教会サイトの読者の一人がメールをくださいました(許可を得て紹介します)。ある日その方が聖書を読んでいたら、こんな箇所に行き当たったのだそうです。「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」(マタイ12:31-32)。

そして、自分は知らない間にこの「赦されない罪」を犯してしまったのではないか。あるいは将来犯してしまうのではないか。そして、救いが取り消されて神さまのさばきを受けなければならなくなるのではないかと不安になって、夜も眠れなくないほどだということでした。

しかし、前後関係も読んでみると、この「赦されない罪」とは、イエスさまが地上で活動しておられた時代のイスラエルの国が、「イエスは旧約聖書が登場を預言してきた救い主ではなく、悪霊のかしらの力を借りて奇跡を行なう魔術師だ」と公に判断した罪だということが分ります。この罪は、個人が犯せる罪ではないし、現代の私たち(たとえユダヤ人であっても)が犯せる罪でもないということが分ります。

聖書を学ぶ際は、前後関係や他の箇所とのつながりに留意しながら読むようにしましょう。そうするならば、聖書の言葉は私たちをサタンがつく嘘を見抜かせ、神さまが用意してくださっている平安や喜びに導きます。
私の証し
私がクリスチャンになったばかりの頃の話をしましょう。友人の一人がとある新興宗教の信者でした。私は張り切ってその友だちに伝道しようとしましたが、逆に自分たちの家庭集会に誘われました。そこで、何人もの信者の人たちに取り囲まれ、キリスト教は誤りだと言うことを吹き込まれました。その場は何とか切り抜けましたが、家に帰ってから私の心は不安になりました。彼らは本気で自分たちの宗教が真理だと信じている。では、私が信じている聖書の神さまだけがまことの神だと言えるのだろうか。本当にイエス・キリストだけが唯一の希望だと言えるのだろうか……。

そんなある日、順番に読んでいたイザヤ書の言葉が目に飛び込んできました。「告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、【主】ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。」(イザヤ45:21)。このように、イザヤ45-46章には「救い主である神はわたしのほかにいない」という言葉が何度も繰り返されています。

それらの言葉を読み、自分に向かって何度も何度も語りかけたとき、私の心にあった不安や疑いは、霧が晴れるように無くなりました。むしろ、この戦いを通して、私のイエスさまに対する信仰が強まったような気がします。

まとめ

好むと好まざるとにかかわらず、私たちはサタン一党との霊的な戦いの中にあります。しかし、それに勝利するたびに、私たちは確信が強められ、どんな状況でも揺るがされることのない平安や喜びを体験できるようになります。

あなた自身への適用ガイド

  • 最近、神さまから引き離そうとする力を感じたことがありますか?
  • 聖書を読んでいて、かえって不安になったりつらくなったりした経験がありますか?
  • それらをどのようにして乗り越えましたか?
  • 問題、あるいは順風満帆な状況を霊的な戦いという視点で見つめると、どんな危険と祝福の可能性に気がつきますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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