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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

常識を疑おう

コロサイ人への手紙2章3節〜10節

(2019年8月11日)

参考資料

宛先の教会があったコロサイは、小アジア(今のトルコ)の南西部にあった町です。パウロの伝道によってできた教会ではなく、エパフラスという人物の働きによります(1:7)。この時、エパフラスがローマの獄中にいたパウロの元を尋ねてきて(ピレモン23)、コロサイ教会の現状について語りました(1:8)。そして、パウロが指導の必要性を感じて書いたのがコロサイ人への手紙です。エパフラスは近隣のラオディキアやヒエラポリスでも教会を生み出したようで(4:13)、この手紙がラオディキア教会でも読まれるようにと指示されています(4:16)。

8節の「この世のもろもろの霊」は悪霊たちのこと。元はサタン(悪魔)と同じく天使でしたが、サタンが神さまに反逆したとき彼に従って堕落しました。彼らは人間を惑わし、神さまから引き離そうとしています。

イントロダクション

エパフラスからコロサイ教会の現状を聞いたパウロは、指導の必要性を覚えてこの手紙を書きました。それは、教会の中に間違った教えが忍び込んでいて、多くの信徒がそれに惑わされて、本来クリスチャンに与えられているはずの自由や喜びを見失っていたことです。パウロはこの手紙によってそれを正し、自由や喜びを取り戻させようとしました。

私たちにも自由や喜びが約束されています。それを失わず、むしろますます深く味わうことができるために、気をつけるべき点は何でしょうか。まずは、コロサイ教会へのパウロの指導から見ていきましょう。

1.ギリシア哲学の影響を排せ

だましごとの哲学

パウロは4節で「私がこう言うのは、まことしやかな議論によって、だれもあなたがたを惑わすことのないようにするためです」と語っています。8節でも「あの空しいだましごとの哲学によって、だれかの捕らわれの身にならないように、注意しなさい」と語っています。

まことしやかな議論、空しいだましごとの哲学とは、ギリシア哲学あるいはその影響を受けた常識のことです。

「哲学」というとなんだか難しいことのようですが、元々は「知恵を愛する」という意味の言葉です。世界ってどうやって成り立っているんだろう、人生って何だろう、幸せって何だろう、人は死んだらどうなるんだろう、人間と他の生物の違いって何だろう、本当に価値があるとはどういうことだろう……そんなことを考えたことのない人はいませんね。そういったこと、世界観とか人生観とか幸福感とか死生観とか価値観とかを、理性を使って突き詰めて考えていくこと、それが哲学です。ですから、人間はみんな哲学者です。

前4世紀にマケドニア王国のアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)が地中海世界を征服した影響で、ギリシア人の哲学や文化は、地域的な意味でのギリシアだけでなく地中海世界のあちこちに広まりました。紀元1世紀のコロサイの人たちもその影響を受けています。

ギリシア哲学の特徴は、「霊肉二元論」だと以前も申し上げたことがあります。人間や世界を物質的な存在と非物質的な存在に分けて、霊(非物質的な部分)は善で、肉(物質的な部分)は悪であると考えます。

日本人の精神に影響を与えているのはアニミズムで、世界のあらゆるものに霊が宿るという考え方です。すなわち霊と肉をはっきり2つに分けないのです。その影響を受けている我々にとっては、霊肉二元論はちょっと極端で奇妙な考え方に思えるかもしれません。しかし、世界観とか価値観とかいうものは、無意識の世界にまで影響を与えていて、影響を受けている人にとっては当然のこと、世界の常識なのです。

ギリシア哲学の影響

さて、クリスチャンになってからも、コロサイ教会の人の多くはギリシア哲学に基づく常識を持ち続けました。その中には、聖書の教えと明らかに矛盾するような考え方もあったのですが、彼らは自分たちの常識の方を聖書に合わせて修正したのではなく、聖書の教えの方を自分たちの常識に合うように作り変えてしまいました。その結果、もはやキリスト教とは呼べない新しい宗教になってしまっていたのです。

彼らの常識では、完全な霊であり完全に正しい神さまが悪である物質世界を創造なさることはあり得ません。そこで彼らはこう考えました。神さまはまず「造物主」(デーミウルゴス)を創造し、この造物主が人間を含む世界を創造したのだと。

さらに、この神とは異なる不完全な造物主が、キリストと同一視されました。というのは、彼らの常識では、霊であり善である神さまが悪である肉体をまとって、人間として地上に生まれるはずがないからです。

先々週も紹介しましたが、イザヤ45:21-22にはこのように書かれています。「告げよ。証拠を出せ。ともに相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、【主】ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正しい神、救い主、わたしをおいて、ほかにはいない。地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない」。

もしキリストが神ではなく、不完全な存在であれば、キリストは私たちを罪の呪いから解放する救い主ではありません。キリストが十字架の死と復活によって私たちに与えてくださった救いも不完全ということになります。そこで、救われるための別の方法が必要です。たとえば、コロサイ教会の人々はこんな教えを信じていました(16-23節参照)。
  • モーセの律法を守らなければ救われないという教え
  • 悪である肉体を持った人は、完全な霊である神とは直接交わることができないので、天使を礼拝することで祝福されたりするという教え
  • 肉体は悪であるから、極端な禁欲生活を送り、肉体を痛めつけることで魂が自由になれるという教え
  • 逆に、肉体と霊は全然別物だから、欲望のおもむくままに生活しても全く問題がないという教え
  • 哲学を極めることで得られる特別な知恵を持つことで救われるという教え
現代の異端やカルトも、似たようなことを教えています。それは、彼らもまたキリストが100%神であり100%人であることを否定し、キリストの十字架と復活によってもたらされた救いを不完全だと教えているからです。

書かれていることを越えない

パウロは、そのような教えを「この世の幼稚な教え」だとして切り捨て、悪霊によってもたらされた教えだと警告して、惑わされないよう注意しなさいと勧めています。なぜなら、そのような考え方で生きていくと、本来神さまによって用意されている自由や喜びを失ってしまうからです。

そして、パウロは7節でこう語りました。「キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい」。また、1:23でもこう語っています。「ただし、あなたがたは信仰に土台を据え、堅く立ち、聞いている福音の望みから外れることなく、信仰にとどまらなければなりません」。

聞かされた福音の言葉から決してそれないようにしなさいという勧めです。第1コリント4:6には「書かれていることを越えない」という言葉があります。人間の常識がすべて間違いだということではありません。しかし、もしも私たちの常識が聖書の教えと矛盾する場合には、聖書の教えを書き換えるのではなくて、常識の方を疑い、それを聖書の教えの方に合わせて修正していく必要があります。

2.常識を修正しよう

私たちの常識は?

自分が持っている常識が聖書の教えに反するかどうか検討し、反しているならば聖書に合わせて修正するためには、まず自分がどんなを常識を持っているか知っていることが必要です。

では、私たちはどんな常識を持っているでしょうか。どんなことを当然だと思い、そうなるはずだと思っているでしょうか。

常識というのは普段は意識されません。それくらい「当然のこと」なのです。常識を意識するのは、常識に反することが起こったときです。たとえば、「目上の人に会ったら、目下の人の方からあいさつすべきである」という常識を持っている人は、他の人がそれをしなかった場面を目撃すると違和感を覚えるでしょう。

ですから、私たちはどんなときにがっかりしたり、ムカッときたり、イラッときたりするか、それを手がかりにして自分が持っている常識を知ることができます。先ほど申し上げたとおり、常識がすべて間違っているわけではありません。ただ、自分がどんな常識を持ち、知らない間にそれに基づいて行動しているかを知らなければ、それがもっともな考え方なのか、それとも聖書の教えに反する考え方なのかをチェックできません。ですから、まずは知ることが大切です。

常識の例

参考までに、常識の例を挙げてみましょう。
他人についての常識
たとえば、私たちは無意識のうちに他人に関してこんなことを考えていないでしょうか。
  • 人は、私がいちいち言葉に出して事情を説明したりお願いしたりしなくても、私の心を読み取ってその願いを察知し、自発的にその願いをかなえるよう行動すべきである。
  • 人は、私が願うことは、他のあらゆることを後回しにして最優先に、しかも心から喜んで実行すべきである。
  • 人は、決して私をがっかりさせてはならない。
もちろん、そうであったら嬉しいです。しかし、じゃあ自分は人に対してそのような接し方をしているでしょうか。聖書は「人からしてもらいたいと望むとおりに、人にしなさい」(ルカ6:31)と教えています。あなたが他人にそんなことを要求されたら、「言ってもらわなきゃ分らないよ」「こっちにだって事情はあるよ」と思いますね?
自分についての常識
あるいは、自分自身に関してこんなことを考えていないでしょうか。
  • 私は、絶対に同じ失敗を繰り返してはならない。
  • 私は、すべての人に好かれなければならない。
  • 私は、いつもいい気持ちでいるべきである。
そうであるに越したことはありませんが、実際に失敗してしまうこともあるし、人には好みがありますから私のことをすべての人が好きとは限りませんし、いつもいい気分でいられるわけでもありません。聖書が教えているように、私たちは不完全な存在です。
信仰の常識
そして、神さまとの関係、信仰生活についても、こんな常識を持っていないでしょうか。
  • 私が祈ったら、それがすぐに、願ったとおりにかなえられるはずである。
  • 神が与える祝福とは、社会的に成功したり、物質的に繁栄したりすることである。
  • 苦しみは、すべて罪に対する神の罰である。
  • クリスチャンは、決して苦しまない。
  • 神のためにどれだけ犠牲を払ったかによって、地上で味わう祝福が変わる。
  • 神に従うと、地上の人生で損をする。
  • 聖書の専門家でないと神の教えは理解できない。
  • 信仰生活とは、教会の集会中の言動のことであって、日常の生活でどう振る舞うかは含まれない。
もちろん、聖書はそれとは違うことを教えています。

聖書の教えに照らしてみよう

誰かや起こった出来事に対してムカッときたり、イラッときたり、がっかりしたりしたときには、私たちが無意識に信じている常識を疑うチャンスです。

この考えは、聖書の教えに合っているだろうか、それとも反しているだろうか。もし聖書に反する考え方なら、聖書が教える考え方を自分に何度も言い聞かせましょう。

今回の箇所は、そうすることが本当の自由や喜びを私たちにもたらすと教えています。

まとめ

一度自分が無意識に持っている常識を意識化し、それを疑い、聖書に照らして検討してみましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 最近、がっかりしたり、ムカッときたりしたときのことを思い返してみましょう。それを手がかりに、自分の中にある「これが常識である」「これが普通である」という思いを探してみましょう。何が見つかりましたか?
  • その考えは、聖書の教えに照らして正しいでしょうか、それともどこか反しているところがあるでしょうか?
  • もしその常識が非聖書的だとすれば、どのように修正すべきでしょうか?
  • 聖書的な常識に修正したら、どのような自由や喜びを取り戻すことができそうですか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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