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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

義の栄冠を得るために

テモテへの第二の手紙3章13節〜4章8節

(2019年9月8日)

参考資料

第2テモテを読むとパウロがローマに投獄されていることが分かります(1:16-17)。使徒28章でパウロはローマに2年間投獄されたことが書かれていますが、その時とは別の状況だと考えられています。というのは、使徒28章の投獄時に書かれたピリピ書では処刑されずに生き延びることを確信している内容が書かれているのに対して(ピリピ1:25-26)、第2テモテでは死ぬことを覚悟している内容となっているからです。「私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました」(4:6)。

伝承によれば、パウロは紀元67年にローマで皇帝ネロによって逮捕され殉教しました。第2テモテは殉教直前に書かれたものと思われます。なお、当時テモテはエペソ教会を指導していました。

イントロダクション

「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです」(4:7-8)。

ここを読むと、死を目前にしたパウロは、自分の人生を振り返って多いに満足しています。そして、イエスさまが自分に素晴らしい報酬を用意してくださるという希望に胸を膨らませています。私たちも、いつ死が訪れるにしてもそのような満足感とワクワク感に満たされて天に召されたいですね。そのために必要なことは何でしょうか。

1.信仰者として整えられる

信仰を守り通す

パウロはこの手紙の中で、迫害や誘惑、教理的な混乱について語り、テモテ自身がそのようなものに惑わされてまことの信仰を手放さないのはもちろん、教会の人々にもそのように教え、励ましなさいと勧めています。

そして、自分については信仰を守り通したと語り、だから自分が死んだらイエスさまが必ずその報酬を授けてくださると語っています(4:7-8)。

この言葉にはマラソン競技のイメージが用いられています。長くて苦しい道のりを、しかし諦めることなく走りきったマラソンランナーには、その栄誉を祝してオリーブの冠が与えられました。ただ、マラソン競技の場合は1等賞を取った人だけにしか冠は与えられませんでしたが、信仰のマラソンの場合には「主の現れを慕い求めている人」ならすべての人に冠が与えられます。

「主の現れ」とは、イエスさまの再臨とそれにまつわる様々な神さまの約束の実現のことです。
  1. 今私たちクリスチャンが死ぬと、肉体は滅びますが魂は天のパラダイスに引き上げられます。パラダイスは待合室のような場所で、そこで平安のうちに携挙の時を待ちます。
  2. 携挙の時が来ると、死んだクリスチャンは栄光の体が与えられて復活し、生きているクリスチャンも同じ栄光の体に変えられて、共に天に引き上げられます。
  3. 携挙されたクリスチャンは、キリストのさばきを受けます。これは罰を受けるための裁判ではなく、生きている間に行なった良い行ないを査定するためのものです。どんなに人にほめられるような行ないだったとしても、神さまが喜ばれる行ないでなければ評価されません。逆に誰からも認められない行ないでも、それが神さまの喜ばれる行ないなら高く評価されます。
  4. ・その後、イエスさまは地上に戻ってこられ(再臨)、地上の悪を滅ぼして救い主の王国(千年王国、神の国、天の御国)を実現します。
  5. ・クリスチャンは、この千年王国に住むことができます。その際、キリストのさばきで与えられることが決まった祝福を実際に味わうことができます。
  • 終末に何が起こるかについて、詳しくはこちらの記事以降をご覧ください。
パウロが「義の栄冠」と呼んでいるのは、千年王国で味わうよう用意されている神さまからの祝福のことです。聖書は他の箇所でも千年王国で与えられる様々な祝福を冠にたとえています。「朽ちない冠」(第1コリント9:24-25)、「望み・喜び・誇りの冠」(第1テサロニケ2:19)、「栄光の冠」(第1ペテロ5:1-4)、「いのちの冠」(黙示録2:10)。

もちろん、あなたのためにも様々な冠が用意されています。そのために、様々な困難や誘惑の中でも、イエスさまに対する信仰を守り通し、イエスさまが喜ばれるような行ないを続けていきましょう。

聖書に親しむ

そのためには、聖書に親しむことが必要だということを、パウロは改めてテモテに語りました。「悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます」(3:13-15)。

また、このように語っています。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです」(3:16-17)。

霊感とは「神の息が吹き込まれる」という意味です。聖書は多くの聖書記者の手によって長い時間をかけて書かれましたが、その課程で神の息吹である聖霊さまの影響を受けています。ただし、記者が霊に取り憑かれて無意識のうちに書かされる、いわゆる「おふでさき」のようなものではありませんし、お告げを聞いたままを書く口述筆記でもありません。記者の個性や目的や意図はしっかり生かしながら、神さまが伝えたいと思っておられることが、誤りなく記録されるように導かれたということです。

聖書には、神さまが私たち人類に伝えたいと思っておられる真理が、余すところなく記されています。すなわち、神さまが私たちに信じて欲しいと思っておられること、行なって欲しいと願っておられること、して欲しくないと願っておられることが書かれているのです。

ですから、聖書を読み、そこに書かれていることを自分の生活に生かし、実践していく時、私たちは神さまに喜ばれる生き方、将来実現する千年王国で報われるような生き方をすることができます。

ですから、パウロはテモテに、自分が聖書に親しむのはもちろん、他の人々にも聖書の言葉を使って教えたり勧めたりしなさいと語りました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」(4:2)。

この頃のテモテは、まだ40歳にも満たない若い牧師でした。彼が豊かな人生経験に基づく教訓を語るならば、もっと人生経験が豊かな人を教えることはできません。しかし、神さまのみことばである聖書の内容を語るなら、教えるのはテモテではなく神さまなのですから、年配の人に対しても権威に満ちて堂々と語ることができます。私も伝道者になりたての頃、先輩牧師から「あなたの経験や哲学ではなく聖書を語りなさい。そうすれば、たとえしゃべるのが下手でも問題ない」と言われて励まされました。

聖書に親しむことが、私たちを信仰者として成長させ、イエスさまに喜ばれているという確信を深め、やがて来る世において大いに祝福されるという希望を育てます。

聖書から逃げない

さて、パウロがテモテに聖書のみことばを宣べ伝えるようにと勧めた際、それには忍耐が必要だと語っています。そして、その理由についてこう語っています。「というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです」(4:3-4)。

聖書は、耳に心地よい祝福の約束だけを語っているわけではありません。聖書を読むと、時に耳が痛く、胸を突き刺されるような言葉に出くわすことがたびたびあります。
  • 自分がしたくないと思っていることをせよという命令。
  • 自分がしたいと思っていることをするなという命令。
  • 自分が捨てたくないでしっかり握りしめているものを手放せという命令。
  • 自分が現に行なっていることを罪だと断じていある箇所。
  • 自分の感情ではとても信じられない約束。
たとえば自分が誰かにひどいことをされたり言われたりしたとします。そして聖書を開くと、そういう時に限って「自分で復讐してはいけない」とか、「あなたの敵を赦しなさい。その人に良いことをしなさい。その人の祝福を祈りなさい」とか教えている箇所に当たるものです。当然葛藤しますね。

その時、私たちの前には2つの道が伸びています。一つはその命令に従う道。あの人に対する恨み辛みをイエスさまに訴えたら、後はイエスさまに任せてその人を赦すと宣言し、その人に復讐ではなく善を行なおうと決意することです。そしてもう一つは、聖書の命令を読まなかったことにして無視し、自分で復讐する方法を考え、実行する道。

多くの人は、聖書の教えが与える精神的な葛藤に耐えられなくなり、健全な教えから離れてしまう。パウロはそうテモテに警告し、それでもあなたは人の耳に心地よい言葉ばかり並べ立てて、聖書の教えをねじ曲げ足りしないようにと忠告しました。

子どもが食事で好き嫌いばかり言い、甘いものばかり食べていたら、栄養のバランスが崩れて健康に成長することができません。耳に心地よい箇所も、胸を突き刺すような箇所も、全部ひっくるめて神さまから私たちへのメッセージです。選り好みしないですべていただきましょう。

そうするなら、私たちは信仰者として整えられ、天に引き上げられた時にイエスさまからほめられ、感謝され、ご褒美をいただくことができるような行ないを積み重ねていくことができるようになります。

では、聖書に親しむと言っても、どのような読み方をしたらいいのでしょうか。

2.聖書の読み方3ステップ

意味を探る

私たちの教会では、いわゆる「歴史的文法的解釈」を心がけています。これは、著者がどんな意味を伝えたいと思ってその文章を書いたのか、またその文章が書かれた当時の読者たちがどのような意味を読み取ったのかを、その文章の意味だとする読み方です。

というと何か難しそうですが、例を挙げると分りやすいでしょう。たとえば私がFacebookに「今朝、寝坊してしまって朝食を食べる時間がなかったのですが、それでも家内が用意してくれた味噌汁を1杯だけ飲んで出勤したんですよ」と書き込んだとします。ほとんどの人は、この通りの事実が今朝起こったんだなと受け取るはずです。しかし、「これは、自分がダイエット中であっても、それを隠すことが美徳であるということを訴える文章である」などと解釈するのは、かなりひねくれた受け止め方ですね。

歴史的文法的解釈は、別に寓話や比喩として解釈することをすべて否定しているわけではありません。寓話や比喩は、前後の文脈に注意していれば自然に寓話や比喩だと分ります。

たとえば、私がFacebookに「家内の作った手料理を食べて、ほっぺたが落ちそうになった」と書いたとしましょう。日本語の慣用表現を知っている人ならば、本当に顔の一部が剥がれ落ちかけた訳ではないし、そう感じるほどまずい料理だったという意味でもなく、とてもおいしく感じたという意味だと自然に分ります。

たとえばモーセの律法の中の安息日規定についての箇所を読んだとしましょう。安息日とは具体的にいつのことなのか、安息日には何をし何をしないのか、誰が対象なのか、なぜこのような命令を神さまはなさったのか、今もそれは信者の義務なのか……といったことを聖書全体から学んでいきます。特に、新約聖書が安息日についてどのように取り上げ、解説しているかに注目します。

時間があれば、それらについて注解書や聖書辞典などの参考書や、他の牧師書いた説教集などを読んで調べます(もちろんそれらを鵜呑みにするわけではなく、書かれている内容を検討します)。

そうすると、当時のユダヤ人に対して神さまが週に1度休むよう命じたのは、彼らがエジプトで休みなく働かされる奴隷状態から解放されて、自由人になったことを象徴していることが分ります。また、男だけでなく主婦も奴隷も家畜も休むよう命ぜられていましたから、肉体的な休息を定期的に取ってリフレッシュすることの大切さや、自分だけでなく他の人が休息できているかに気を配ることの大切さも教えていると思われます。

そして、イエスさまの十字架によってモーセの律法はすべて廃棄され(エペソ2:14-15など)、その後使徒たちを通して安息日規定が改めて命ぜられてもいませんから、現代のクリスチャンが安息日規定を守る義務が無いこともわかります。

普遍的な教訓を探る

パウロは、「聖書は……教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」(3:16)と言いました。たとえば安息日規定について、今の私たちがその命令を文字通りに守る必要はないとしても、そこから何かを学ぶことができるということです。
  • 「教え」とは、「何を信じるべきか」「何を期待すべきか」「どういう希望を持つべきか」ということです。
  • 「戒め」とは、「どのように行動すべきでないか」「何をやめるべきか」ということです。
  • 「矯正」とは、「何をすべきか」ということです。
  • 「義の訓練」とは、「何を続けるべきか」ということです。
そういう目で安息日規定を読むと、たとえばこういう教訓を導き出すことができないでしょうか。
  • 忙しければ忙しいときほど、休息を取ることを意識して実践しよう。
  • 仕事や家事の分担を見直し、他の人が肉体的・精神的に休むことができるよう、互いに配慮し合おう。
  • 教会の奉仕や集会が、1週間の休みのすべてを潰し、くたくたに疲れ切るようなものになっていないか考え直そう。
  • 精神的な自由を失い、「分っているのにやめられない」「分っているのにできない」という奴隷状態になっていないか考え、もしそうなっていたら神さまに助けを求めよう。

決断する

以上は、普遍的な教訓です。それを自分自身の生活に適用し、必要な決断をします。コツは、具体的に考えることです。

たとえば、「仕事や家事の分担を見直し、他の人が肉体的・精神的に休むことができるよう、互いに配慮し合おう」という教訓を自分の生活に適用するなら、
  • 「他の人」とは誰のことなのか。
  • 自分が分担する働きは、具体的に何をすることなのか。
  • それをいつから実行するのか。
というようなことを考えます。

もちろん、考えて計画するだけでは意味がありません。聖霊さまが実行できる力をくださるように祈りながら、一歩を踏み出しましょう。失敗してもイエスさまは赦してくださいます。何度でも挑戦し続けましょう。

そうするなら、聖書の言葉は私たちを信仰者として成長させ、やがて来たるべき世において、大きな祝福をもたらすことでしょう。

まとめ

私たちも聖書に親しみ、パウロのように「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と満足できる人生を送りたいですね。

あなた自身への適用ガイド

  • 最近、聖書を読んで心が痛んだ経験をしましたか? その痛みはどうして感じたのでしょう? そして、その後あなたはその聖書の言葉に対してどう対応しましたか?
  • 今、特に心に響いている聖書の言葉、あるいはあなたが実践しようと心がけている聖書の言葉は何ですか?
  • 今、あなたが特に実践するのが難しい聖書の命令は何ですか?
  • 最近読んだ聖書の箇所を「教えと戒めと矯正と義の訓練」の4つの視点で読み直すと、どんな教訓を導き出せそうですか?
  • そして、その教訓をあなた自身の生活に生かすなら、具体的にどのような行動をすることが求められていると思いますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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