本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

柔和で礼儀正しい人

テトスへの手紙3章1節〜8節

(2019年9月15日)

参考資料

この手紙の受取人であるテトスはパウロの同労者であり、使徒の働きには登場しませんが、第2コリント、ガラテヤ、第2テモテ、そしてテトスへの手紙に登場します。それによるとギリシア人であり(ガラテヤ2:3)、コリント教会に問題が起こった時にはパウロの代理として派遣されて、見事に問題を解決しました(第2コリント7章)。パウロが殉教する直前にはダルマティア(今のユーゴスラビア。マケドニアのさらに北)で活動していました(第2テモテ4:10)。伝承によれば、その後テトスはクレテに戻って島の諸教会を指導する監督を務めた後、紀元100年代の初め頃、94歳で天に召されたとされています。

この手紙の差出人であるパウロは、ローマで2年間獄中生活を送りましたが、紀元62年頃に釈放され、あちこちを旅行して伝道活動を繰り広げた後、67年頃に再び逮捕されてローマで殉教しました。テトスへの手紙はこの間に書かれたものでしょう。この時テトスはクレタ島に、パウロはギリシャのニコポリス(ニコポリ)にいました。

イントロダクション

パウロはテトスに、彼が指導しているクレテ島のクリスチャンたちが「だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい」と勧めました(2節)。私たちがそのような人になるには何が必要でしょうか。

1.柔和で礼儀正しい生き方に必要なこと

手紙の執筆事情

皇帝による裁判で無罪とされたパウロは、ある時テトスと一緒にクレテ島に渡り、いくつかの町に教会が誕生しました。その後パウロはクレタ島を離れましたが、テトスをそこに残して「町ごとに長老たちを任命する」仕事を任せました(1:5)。そして、教会のリーダーにふさわしいのはどういう人物か、またできたばかりの教会の人々をどのように指導すべきかをアドバイスしました。

今回の箇所は2章からの流れの中で語られました。2章では、教会の中の様々な人たちへの指導内容が書かれています。まず高齢の男性たち(2:2-3)、高齢の女性たち(2:3)、若い主婦たち(2:4-5)、若い人たち(2:6)、奴隷たち(2:9-10)です。

権威者への態度

そして3:1では、教会の人々全体に対する指導についてこう語りました。「あなたは人々に注意を与えて、その人々が、支配者たちと権威者たちに服し、従い、すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい」。支配者たちと権威者たち、すなわち島の領主やローマから遣わされた行政官などに服従するようにという指導です。

政治的な権威者に対する態度については、他の箇所でもパウロやペテロがこう教えています。

「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」(ローマ13:1)。

「人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい」(第1ペテロ2:13-14)。
権威に逆らう時
ただ、パウロもペテロも終始一貫政治的権威者に従順だったわけではありません。神さまの教えと明確に反する命令の場合、クリスチャンは迫害を受けてもそれに逆らって神さまの命令の方に従いました。

たとえばペテロとヨハネがユダヤ人指導者たちに連行され、キリストの名によって伝道したり教えたりしてはならないと命ぜられた時、それに従うことを拒否してこう言いました。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」(使徒4:19-20)。

しかし、そのような場合であっても、パウロやペテロ、あるいは他の使徒たちは、攻撃的・暴力的な手段で権威に逆らうことはしませんでした。今回の箇所でもパウロは「また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい」(2節)と教えています。

同じことを相手に伝える場合でも、攻撃的な言い方もできるし、柔和で礼儀正しい伝え方もできます。たとえば、電話中家族のテレビの音量が大きすぎて困る場合、「うるさい! 音量下げろ!」と怒鳴ることもできますし、「電話が聞こえないから小さくしてくれる?」とお願いすることもできます。どちらが柔和で礼儀正しいかは、誰でも判別できますね?

柔和な態度の原動力

それからパウロは、3-7節でイエス・キリストが私たち自身の罪を赦し、考えられないような祝福を与え、この先も与えることを約束してくださったと語っています。

「私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした」。

神さまは、罪人として神さまに逆らい、神さまを侮辱し、神さまを無視さえしてきた私たちに対して、暴言を吐いて侮辱したり暴力で滅ぼしたりなさいませんでした。それどころか、イエスさまが私たちの罪の罰を身代わりに負い、それによって私たちが一方的にそのままの姿で赦され、神さまの子どもになれるようにしてくださったのです。

この「私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛」(4節)が私たちに注がれていること、それが神さまの喜ばれる良いわざを行なおうとする原動力です。

それでは、ここから私たちが他の人と無駄に争うことをせず、いつくしみと愛を持って柔和に礼儀正しく接することができるために必要なことを考えてみましょう。

2.余裕を持つ

恐れが攻撃的態度を引き出す

私自身のことを振り返ってみても、また多くの人々を観察しても、攻撃的な態度の背後に恐れがあると思わされます。

他の人が自分の人生を台無しにするのではないかという恐れ、自分の人間としての価値が値引きされてしまうのではないかという恐れです。

たとえば、他の人に対して傲慢な態度、高圧的な態度を取る人がいます。実はそういう人は自分自身がコンプレックスの塊で、誰かと比較して自分の方が優れていることを証明しないと、自分が価値の無い存在になってしまうと恐れているのです。

また、以前小学生のお子さんのいるお母さんのカウンセリングをしたときの話です。ちょっとしたことでお子さんを強く叱ってしまい、後でそんな自分に落ち込んでしまうということでした。何回目かの面談の時、お母さんはこんなことをおっしゃいました。自分の中に、自分は母親として、いや人間として不十分な存在だという恐れがあることに気づいたというのです。

そして、立派に子育てをすることによって自分が素晴らしい価値ある存在なんだということを証明しようとしていたのかも知れない。だから、子どもが自分の理想像から外れると、自分が価値を失うような気がして、暴言を吐いてあるべき姿になるよう命じていたのだろう、と。

神の愛と守りへの信仰

人と比較して勝たなくても、また他の人を犠牲にしなくても、それでも自分はこのままの姿で素晴らしく、だからますます素晴らしくなれるという余裕が、他の人に対して柔和で礼儀正しい接し方を生み出します。

パウロは、テトスを通してクレテ島のクリスチャンたちに対して、イエスさまのおかげで神さまが罪を赦してくださり、愛し見守ってくださり、将来も必ず素晴らしいものにしてくださるのだということを確認しました。

詩篇にもこう書かれています。「知れ。【主】はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。私が呼ぶとき【主】は聞いてくださる。震えわななけ。罪を犯すな。心の中で語り床の上で静まれ。セラ 義のいけにえを献げ【主】に拠り頼め」(詩篇4:3-5)。

それをいつも思い起こし、感動し、感謝することが、私たちの心に余裕を生み、他の人への優しく紳士的な態度となって現れます。

いつも神の愛に触れ続けよう

パウロは私たちがイエスさまのおかげで救われ、祝福され、守られていることを語り続けるようテトスに勧めた後、「これらのことは良いことであり、人々に有益です」(8節)と語りました。私たちは、いつもイエスさまの十字架に表された神さまの愛に戻り、それを意識し続けなければなりません。そのために聖書を読み、祈り、集会に出席し続けるのです。

ある女性(華子さんということにしましょう)のご主人は、非常に横暴な人で、お茶がぬるいとか食事を出すのが遅いなどという些細なことでキレて、文字通りちゃぶ台をひっくり返して怒鳴り声を上げていました。そのため、お子さんも萎縮してしまいみんな不登校。そんな中で、華子さんは教会の礼拝に出席するようになりました。そして程なくイエスさまを信じて洗礼を受けました。

それからも、毎週礼拝でイエスさまの愛についての話を聞き、婦人会の交わりでイエスさまの愛についての証を聞き、聖書を読んでイエスさまの愛についての教えを学びました。すると、どんどんと華子さんの中に喜びや平安が訪れるようになりました。相変わらず夫は横暴で、子どもたちは引きこもっています。しかし、それでもイエスさまに愛され守られている自分は絶対に大丈夫。そんな平安が心を包みました。

そんなある日、いつものようにご主人がわめき散らしています。これまでなら小さくなって嵐が過ぎ去るのを待っていた華子さんですが、なんとご主人に近づき、背中をさすりながら優しく声をかけ続けました。「お父さん、大丈夫。大丈夫だからね」。すると、最初面食らっていたご主人、やがてオイオイと声を上げて泣き出しました。

それからご主人はすっかり人が変わり、怒鳴らなくなったどころか、家族に対して優しく接するようになったそうです。

まとめ

イエスさまの十字架の愛をいつも意識しながら、喜びや平安をいただき、それを原動力にして他の人に親切に、柔和に、礼儀正しく接しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 攻撃的な態度の背後に恐れがあると申し上げましたが、自分自身や他の人について思い当たることがありませんか? あるとすれば、それはどのような恐れでしょうか?
  • イエスさまによって恐れが解消されたことにより、他の人への接し方が変わったという体験がありますか?
  • 今あなたが課題としている人間関係は、誰とのどのような問題ですか? 相手はともかく、あなたはその人に対してどのように接するべきだと思いましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com


guests have visited here
since July 15th, 1999.