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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

神に喜ばれる信仰とは

ヘブル人への手紙11章1節〜6節

(2019年9月29日)

参考資料

「ヘブル人」とはユダヤ人のことです。聖書時代のユダヤ人が自分たちを外国人に紹介するときによく用いました。「渡る」「越える」という意味があり、ウルで生まれ育ったアブラハムが、神さまの声を聞いてユーフラテス川を越えて約束の地にやってきたところから名付けられたのでしょう。

この手紙は差出人不明です。13:23でテモテが釈放されたら一緒に行くとの記述があるなど、パウロではないかという説もありますが、使われているギリシャ語の文体や用法が他のパウロ書簡とは異なるなど、パウロではないと考える学者もたくさんいます。

宛先は、ユダヤ人クリスチャンの中で、様々な事情で再びユダヤ教に戻ろうとしていた人々だろうと考えられています。そのため、ユダヤ教で重視されている様々なものとキリストを比較して、キリストが何ものにも優っていることを次々と例証しています。そして、キリストへの信仰に留まり続けるよう励ましています。

4節の「アベル」と「カイン」は創世記4:1-16、5節の「エノク」は創世記5:21-24に登場します。エノクは死ぬことなく、預言者エリヤ(第2列王記2:11)のように生きたまま天に挙げられました。

イントロダクション

子どもは、大好きな親が自分のやったことを喜んでくれたとき、自分もうれしい気持ちになります。私たちはイエス・キリストの十字架と復活を信じたことにより、天の父なる神さまの敵から子どもに生まれ変わりました。私たちもまた、神さまが喜んでくださることを知るとき、喜びに満たされ、生きる力をいただくことができます。

6節に「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」と書かれています。私たちクリスチャンにとって大切なのは、信仰を持ち、それを保ち、育てていくことです。といっても、異教の神々を信じて礼拝するような偶像礼拝や、「鰯の頭も信心から」というような迷信的な信仰、あるいは占いやまじないやサタン礼拝のようなオカルトを聖書の神さまが喜んでくださるはずがありません。それでは、神さまが喜ばれる信仰とはどういうものでしょうか。1節の言葉から考えてみましょう。

1.さて

それまでの内容

1節には、「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と書かれています。まず注目したいのは「さて」です。この言葉は、新改訳第三版や新共同訳では省略されていますが、新改訳2017や口語訳ではしっかり訳出されています。これは、それまでに語られた内容を受けている言葉です。

参考資料にも書きましたが、ヘブル書はユダヤ教に戻ろうとしていたユダヤ人クリスチャンに向けて書かれました。ユダヤ教徒たちからの激しい迫害に負けそうになっていたのでしょうか。あるいは、偽教師たちの惑わしによって、健全な信仰を失いそうになっていたのでしょうか。とにかく、彼らを励ますために書かれたのがヘブル書です。

著者はその目的のために、ユダヤ教で重視されていた様々なものよりも、イエス・キリストははるかに優れて素晴らしいことを示しています。たとえば預言者たち、天使、モーセ、安息日、アロンの子孫である大祭司、アブラハム、モーセの律法、動物犠牲やきよめの儀式です。

その上で、著者はユダヤ人信者を励ましました。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。『もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない』。しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」(10:35-39)。

信じやすい状況で神さまの存在や神さまの約束を信じることも素晴らしいことですが、迫害や誘惑に遭うなどして、信じることが難しい状況でなおも信仰を保ち続けることが大切です。ヘブル書の著者は、そのように当時の読者に、そして現在読んでいる私たちに訴えています。

これが「さて」という短い言葉(ギリシャ語だと「デ」)が表していることです。そして、そのような話の流れの中で、11:1の言葉が語られていることに注目しましょう。

私たちも無関係ではない

ところで、私たちはユダヤ人ではありません。この手紙はユダヤ教に戻ろうと揺れていたユダヤ人クリスチャンに向けて書かれた手紙です。だから私たちには関係ない……ということはありません。

雑誌「百万人の福音」(いのちのことば社)の10月号で、「悪魔の格言」という記事が載りました。その一つを紹介しましょう。「日本で核兵器は、持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則のパロディで、
「家庭と職場で信仰は、持たず、用いず、持ち込まず」

私たちも、クリスチャンになる前のような生活に戻ったり、クリスチャンではない人々と同じような考え方や行動の仕方に染まったりしたくなることがあります。

それは、場の雰囲気を壊したくないからとか、変な目で見られるのが怖いからとか、何か地上で生きていく上で損をしているような気持ちになるからとか、様々な理由からでしょう。もちろん、わざわざ他の人にケンカを売るような真似をすべきではないし、必要もないのに惨めな生活を送ったりする必要もありません。

しかし、恐れや不安や間違った欲望からクリスチャンとしての考え方や生き方を隠したいと思うとき、そういうときこそ信仰の使い所です。

2.望んでいることを保証する

間違った解釈

11:1では、信仰についての解説が2つ書かれています。1つ目は「望んでいることを保証する」です。

実はこの言葉はしばしば間違って解釈されます。強く強く願い、「必ず実現する」と信じて一生懸命に祈っていれば、神さまが必ずその願いを叶えてくださるという意味で使われることがあるのです。
この解釈の第1の問題点
この解釈の問題点は、第1に私たちの体験に即していないということです。確かに神さまは私たちの祈りを無視したり、聞き逃したりはなさいません。真剣に耳を傾けて応答してくださいます。しかし、私たちが願ったとおりのことがいつも必ず起こるかといえば、決してそんなことはありませんね?

父なる神さまは、イエス・キリストをお与えになるほどに私たちを愛しておられます。ですから、私たちには本当の幸せを手に入れて欲しいと願っておられます。私たちが願うものより、もっと本当の幸せに近づくことができる別のものがあるなら、私たちの願いどおりではないことが起こります。それは私たちにとっては嫌でつらい内容かも知れません。しかし後で振り返ってみたときに、確かにそれはベストなプレゼントだったと分かることが何度もあります。

たとえば第2コリント12章にはこんなことが書かれています。パウロは、生きたまま天国に引き上げられ、素晴らしい幻と啓示を受けました。ところが、その後肉体に一つのとげが与えられました。具体的にそれが何なのかは、たとえば目の障害、マラリアなどの病気、あるいは迫害など諸説あります。しかし、とにかくパウロを非常に苦しめて、これさえなければもっと伝道者としての働きが進むのにと思うようなものでした。

そして、パウロはそれを取り除いてくださるようにと、神さまに3度も祈ったと語っています。これは何度も必死で祈ったという意味です。ところが、神さまの答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(第2コリント12:9)でした。すなわち、神さまはパウロの願いを叶えず、彼を苦しい状態に起き続けたのです。

しかしパウロは、自分の祈りがかなえられなかったのは、素晴らしい体験をしたことで誇り、傲慢になることを防ぐための神さまのあわれみだと受け取りました。そして、自分自身の素晴らしさを誇るのではなく、むしろ弱さを誇ることによって、救ってくださり支えてくださる神さまの素晴らしさをほめたたえようと決意しています。
この解釈の第2の問題点
この解釈の第2の問題点は、励ましではなく罪責感やあきらめを生み出してしまう副作用があるということです。願いがかなうかどうかは私の信仰次第というわけですから、願いが叶えられなかったとき、当然それは私の信仰が足りなかったせいだということになりますね?

上述したように、私たちがどんなにかなえられると信じて祈っても、願ったとおりにならないときがたくさんあります。そのたびに、私たちは自分や他の人の不信仰を責めなければならなくなります。

イエスさまは私たちの罪、不完全さ、過ちの罰を、すべてご自分が身代わりに受けてくださり、十字架にかかり血を流し死んでくださいました。神さまは、私たちの罪や不完全さを責めて滅ぼすことは決してなさいません。むしろ、私たちのことを大切な我が子と呼んでくださいます。

私たちが間違った生き方を続けているとき、神さまは時に私たちに苦しみをお与えになることがあります。しかし、それは私たちを見捨ててのことではありません。神さまにとって私たちは素晴らしい宝物のような存在です。しかし、それにふさわしくないもったいない生き方をしていることを思い出させ、素晴らしい存在にふさわしい生き方に方向転換させるためです。そうすることが私たちの本当の幸せにつながるからです。

ですから、願いがかなうかどうかは私たちの信仰次第という間違った教えに惑わされないようにしましょう。そして、いたずらに自分や他の人の信仰について批判しないようにしましょう。「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです」(ローマ14:4)。この「他人のしべも」には、他のクリスチャンだけでなく、あなた自身も含まれます。

正しい解釈

では、この箇所の「信仰は、望んでいることを保証する」とはどういう意味でしょうか。「さて」のところで確認したように、これまでの話の流れの中で解釈しなければなりません。

この箇所の「望んでいること」とは、私たちがそれぞれ勝手に願っていることではありません。もちろん、それぞれが願いを持ち、神さまに祈ること自体が悪いと申し上げているのではありません。神さまは私たちの天のお父さんですから、遠慮なんかしていたらむしろ悲しまれます。いじいじしないで大胆に祈り求めましょう。

ただ、ここで書かれている「望んでいること」とは、聖書の約束に基づいた希望のことです。聖書は、イエス・キリストによって素晴らしい未来が実現することをクリスチャンに約束していますが、それに対する希望です。
  • 地上では迫害があるかも知れません。しかし、やがてイエスさまが迎え入れてくださる神の国は、喜びや感動に満ちあふれ、人と人とが争うことのない平和な世界です。
  • 地上では病気や障がいで苦しむかも知れません。しかし、神の国では健康で死ぬことさえありません。
  • 地上では自然災害に苦しむかも知れません。しかし、神の国では自然界が完全に修復され、人間が自然を破壊することも、自然が人間に猛威を振るうこともありません。
  • 地上では努力が報われないかも知れません。しかし、神の国では努力は必ず報われます。
  • 地上では多くの人に誤解されるかも知れません。しかし、神の国ではイエスさまがあなたのことを分かってくださいます。
  • 地上では損をするかも知れません。しかし、神の国において、イエスさまは私たちが地上で損をしてでも行なった良い行ないについて、損を補って余りある祝福で報いてくださいます。
死んだ後の未来の話だけではありません。先ほど触れたように、地上を生きている今この時も、神さまは私たちに最も良いものを与えてくださると聖書は約束しています。

そういう希望を保証するのが信仰だとヘブル書の著者は語ります。「保証する」という言葉は、「下で支える」という意味の言葉から来ています。ちょうど、土台が上の建物をしっかりと支えているイメージです。土台がなければ建物が崩れてしまいます。それと同じように、信仰があってはじめて希望、すなわち聖書の約束が現実のものとなります。

素晴らしい未来を思い描こう

あなたにはどんな約束が与えられていますか? 苦しみの中にあってもなくても、聖書が私たちにどんな約束を与えているか、それを探し出しましょう。そして、それが実現した場面を豊かにイメージし、ニヤニヤしましょう。

それは単なる妄想ではありません。神さまの約束に基づく確かな未来像です。ですから、「これは私の勝手な願望ではなく、あなたが約束してくださっていることですから、必ず実現すると信じます」。そう祈りましょう。

3.目に見えないものを確信させる

約束されたものは見えない

ある人が信仰の反対語は何かという話をなさいました。答えは「見ること、聞くこと、触ること」です。見たり聞いたり触ったりして確かめられたら、信仰は必要ありません。

今、私の目の前には聖書が置かれています。私は聖書がここに存在していることを信じる必要はありません。目で見たり触ったりして確認できているからです。

ところが、神さまの存在は見えませんし、普通は神さまの声も肉の耳には聞こえません。イエスさまが十字架にかかった場面も、復活した場面も、この目で確認したわけではありません。自分の罪が赦されていることは触って確認することはできませんし、将来地獄ではなく天国に行くことも実際に体験するまでは確認できません。とんでもなくいやなことが起こったとき、それでもそれが私にとってベストな神さまからのプレゼントだというのも、感覚的に確認することができません。

しかし、それでも目に見えないものが存在し、まだ起こっていないことが必ず起こると受け取るのが信仰です。

裁判のイメージ

ところで、1節後半の文には、原語のギリシャ語では裁判の場面がイメージされるような言葉が使われています。裁判官は、今目の前で起こっている事件を裁くのではなく、裁判官がいないところで行なわれた事件について、様々な証言や証拠に基づいて裁きますね。この文は、「事件に関する目に見えない事実を明らかにして、人々が納得するような結論を出す」というようなニュアンスの表現がなされています。

目に見えないものを信じるのが信仰ですが、だからといって何でもかんでも言われたとおりに信じること、盲信とは違います。他のクリスチャンたちの証言。また聖書や歴史的書物に書かれている過去の信仰者たちの証言。あるいはこの世で起こっている様々な出来事や現象。そういったものをまるで裁判官のように考え合わせて、これは間違いないと判断していく冷静さも、信仰には必要です。

私がイエスさまを信じてクリスチャンになろうと思った最後の決め手は、復活が歴史的事実だという弟子たちの証言が信用できると思ったからでした。長くなるので詳しい根拠は述べませんが(興味がある方はこちらの記事をお読みください)、弟子たちの証言が間違いで、イエスさまは今も死んだままだと受け取る方がむしろ非科学的だと思いました。ですから、弟子たちが書いている新約聖書の内容も真実だろうと思ったし、その新約聖書が旧約聖書を神さまの言葉として扱っている以上、旧約聖書も真実だと受け取りました。

だから私は三位一体の神さまの存在を信じているし、イエスさまによる一方的で無条件の赦しも信じているし、将来の素晴らしい祝福も信じているし、最善以外のことは決して起こらないと信じています。

信仰に戻ってこよう

今、「最善以外のことは決して起こらないと信じています」とかっこいいことを言いましたが、正直言うと、いろんな状況の中でその確信が揺らいでしまうこともたくさんあります。そのたびに、イライラしたり、がっかりして落ち込んだり、絶望的な気分になったり、人に当たり散らしたりしたくなります。

しかし、それでもイエスさまによる赦しを信じます。いつでも再出発することができることを信じます。ですから、「最善以外のことは起こらない」ことも改めて信じ直します。

私たちは不完全です。それをイエスさまはよくご存じです。イエスさまを信じた後は全く失敗せず、疑いもしない人間になれるのであれば、聖霊さまが私たちの内に住んでくださり、助けてくださる必要はありませんでした。

この手紙の受取人たちの心は揺れ動いていました。しかし、だからといって神さまは彼らをあきらめたりなさいませんでした。一人の神の働き人を通してヘブル書を送り、彼らを励まし、信仰の炎を再び燃え上がらせて欲しいと励ましました。

イザヤは、イエスさまについての預言の中で、「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」(イザヤ42:3)と書いています。痛んだ葦、くすぶって光を放たなくなったランプのような私たちですが、それを見捨てないのが救い主だとイザヤは預言したのです。

私たちは失敗します。信じないで慌てふためくことがあります。大切なことは、それに気づかせていただいたら(それは真理の御霊である聖霊さまのお働きです)、イエスさまによる赦しを受け取り、悔い改めて信じ直すことです。

まとめ

神さまに喜ばれる信仰を、すでにあなたは与えられています。それをこれからも、互いに励まし合いながら大切に育てていきましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • クリスチャンではない人たちと変わらない行動や考え方に戻ってしまっていたと気づかされたことがありますか? それはどんな理由からでしょうか。そして、どのようにしてそこから聖書的な行ないや考え方に戻ってきましたか?
  • 祈りがかなえられなかったり、嫌だなと思うようなことが起こったりしたのに、後で振り返ってみたときに最善の答えだったと気づいたことがありますか?
  • 祈りがかなえられなかったことで、自分を責めてしまったり、人から責められるようなことを言われたりした経験がありますか?
  • 聖書の約束で、最近特に心にとまったものは何ですか?
  • 聖書の教えの中で、信じるのが難しいのはどういう内容ですか?
  • いつでも赦して再出発させてくださるイエスさまの前で、再出発しようと今回決断したことがありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

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