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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

何があっても大丈夫という平安

第2列王記働き19章1節〜7節

(2019年11月3日)

参考資料

この手紙には差出人の名前が書かれていませんが、伝統的に使徒ヨハネだと言われてきました。実際、ヨハネの福音書とも文体などが共通しています。

この手紙が書かれた1世紀の終わり頃になると、後に(2〜4世紀)教会の中で猛威を振るうようになるグノーシス主義と呼ばれる異端的な教えが芽生え始めていました。これはギリシア哲学の霊肉二元論と東洋の神秘主義が合体して生まれた教えです。
この教えを信じる偽教師たちは、イエスさまの受肉(神が人となられたこと)を否定し、単に人のように見せただけだと説きました(仮現説と言います)。ということは、十字架も復活も見せかけということになりますから、イエスさまの十字架と復活を信じて救われるという教えは否定され、グノーシス(哲学的な知識)を得ることによって救われると説かれました。また、道徳的には極端な禁欲主義(肉体は悪だから痛めつけて弱めることで、良い魂が解放される)か、逆に極端な放縦主義(肉体と魂は全く別物だから、肉体が行なうことは魂に影響しない。むしろ好き勝手に生きて自分の魂を喜ばせるべきだ)に走りました。
ヨハネはこの手紙でグノーシス主義の誤りを訴えて、警鐘を鳴らしています。そして、父なる神さまがイエスさまを通して救いを与えてくださるほどに私たち深く愛してくださったのだから、私たちは神さまが喜ばれる生き方、特に互いに愛し合う生き方を実践しようと訴えています。

24節の「御霊」は、聖霊なる神さまのこと。聖書の神さまは三位一体です。すなわち、神さまはただお一人ですが、「父なる神」「子なる神(キリスト)」「聖霊なる神」という3つの人格(位格と言います)において存在しておられます。それは、神が3人いるということではないし、神が時と場合によって3つの現れ方をしたり、3つの役割を演じ分けたりするというわけでもないし、多重人格障害のように精神が混乱しているわけでもありません。

イントロダクション

20節に「たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます」と書かれています。この言葉は、私たちが罪責感にさいなまれるときがあるという事実を前提としていますね。

クリスチャンになれば、毎日がバラ色ハッピーで、否定的な気分になることは決してありません……などと私が言えば、私は大嘘つきということになります。クリスチャンだって落ち込むことがあるし、頭にくることがあるし、悲しくなることがあるし、誰かを嫌いになることがあるし、絶望的な気分になることがあるし、死にたい気持ちになることだってあります。

私たちが否定的な気分に毒されたとき、それでも「何があっても大丈夫」という平安な気持ちに落ち着くことができるために、いったいどのように対処すればいいのでしょうか。今回はそれをヨハネの手紙から教えてもらいましょう。

1.愛を実践しよう

愛の勧め

ヨハネがこの手紙の中で問題にしている偽教師たちは、人々にたとえ不道徳でも自分の好き勝手に生きることを勧めていました。彼らは肉体と霊は全く別のものだと考えていました。ですから、不道徳なことを行なっても自分の魂が汚れるわけではないし、霊である神さまとの関係にも影響を与えないという論理です。

そういう教えをヨハネは明確に否定しました。そして、「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」(18節)と勧めています。互いに愛し合おうという勧めはここだけでなく、この手紙のあちこちで繰り返されています。

神の命令の要約

かつてイエスさまは、神さまの様々な命令は結局2つの命令に要約されるとおっしゃったことがあります。それは、「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という命令と、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令です(マタイ22:37-40参照)。神さまを愛し、人が互いに愛し合うことですね。

人間が作った法律や社会的なルールやマナーも、結局は人がお互いを尊重し合い、みんなで一緒に幸せになるために存在しています。なぜ自分の欲望や感情のままに人を傷つけたり殺したりしてはいけないのか、なぜ人のものを盗んではいけないのか、なぜ不倫はいけないのか、なぜそこら中にゴミをポイ捨てしてはいけないのか。それは自分は良くても、他の人を傷つけたり困らせたりすることだからです。そういうことが許されるなら、自分もまた人から傷つけられたり盗まれたりされて当然ということになります。自分勝手な生き方は、結局自由ではなく不自由をもたらします。

ですから、人間をこよなく愛し、幸せになってもらいたいと願っておられる神さまは、人間にしていいことといけないことを示し、それを守るようお命じになりました。特に、互いに愛し合うことの大切さを強調なさいました。ヨハネはそれを手紙の中で再確認しています。

具体的な行動

岸義紘という伝道者が、著書の中で「愛は動詞である」と書いておられます。もちろん、文法的には愛は名詞ですが、愛とは何かということを抽象的に頭の中で考えるだけでなく、実践することによって初めて意味を持つものだと岸先生はおっしゃりたいのです。

ヨハネも、口先だけではない、行動が伴う愛を実践するよう勧めました。たとえば、経済的に困っている人がいたときに物質的に援助するというような行為です(17節)。

ただ、お金や物を与えたり、手助けをしたりすることが、本当に相手を助けることにならないこともあります。先日、テレビの街頭インタビューに、裁縫を教える80代のご婦人が登場したのを観ました。以前この方がある開発途上国を訪問したとき、極貧生活をしている人たちであふれているのを目の当たりにして、この人たちのために何ができるかと考えました。お金をあげれば助かるでしょうが、多くの人に行き渡りませんし、使ってしまえばおしまいです。

そこでこの方は、その国の民族衣装を現代風にデザインし直し、裁縫の技術を現地の人たちに教えて、欧米に売って外貨を獲得するという事業を始めました。こうして、多くの人たちが貧困から脱出することができたのです。

私たちも、どのような行動をすることが、目の前にいるこの人を愛することになるのか、本当に助けることになるのか、神さまに知恵を祈り求めながら実践していきましょう。

2.愛の効用

愛することは平安をもたらす

愛をそのように実践していくとどうなるでしょうか。ヨハネはこう語っています。「そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます」(19節)。

「真理に属している」というのは、子どもにも分かる表現で言い換えると、「神さまと仲良し」ということです。だから「心安らかでいられ」るのです。

私が小学校に上がる前、祖父に連れられて少し離れた場所にある地方都市に行ったのですが、祖父とはぐれてしまったことがあります。幸い、警察官に発見されて保護され、かろうじて憶えていた電話番号から自宅が分かり、パトカーに乗せてもらって無事に帰宅することができました。そこは小さな地方都市ですが、大変な田舎育ちだった私にしたら大都会。右も左も分からず、不安で泣きそうになっていましたが、私の頭をなでてくれたお巡りさんの大きな手と優しい声は、どんなに私を勇気づけてくれたことでしょうか。

聖書によれば、神さまはこの宇宙の創造主であり支配者です。唯一絶対の神であり、全知全能、すなわち何でも知っておられ、何でもすることができます。仮にそういうお方が、私やあなたのことを大嫌いで敵だと考えておられるとしたら、こんなに恐ろしいことはありませんね。しかし、「神さまと仲良し」だとすれば、逆にこんなに安心なことはありません。

ヨハネは、愛を実践することによって、自分が神さまと仲良しで、だから何があっても大丈夫だという平安を得ることができると教えました。

信仰によって救われる

といっても、救いは神さまの命令を守ることによって与えられるのではなく、あくまでも信仰によります。私たちは神さまの要求を100%完璧に実践できません。その罪を赦すために、神の御子であるイエスさまが十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさいました。それを事実だと信じるだけで、私たちは本当に罪を赦されて救われ、「神さまと仲良し」になれます。

そして、イエスさまを信じて救われたクリスチャンが、その後、愛を十分に実践できなかったとしても、それどころか神さまが願わない罪深い行ないを繰り返したとしても、それで神さまがそのクリスチャンの救いを取り消して、将来永遠の滅びをもたらすということはありません。神さまの側の愛、神さまがくださる救いの祝福は永遠に変わることがありません。

私たちの心の問題

ここでヨハネが問題にしているのは、神さまが私たちにどう接してくださるかではなく、私たちの側の心です。私たちが神さまの命令を無視して罪を犯すとき、私たちの心は神さまから離れてしまっています。すると、神さまの側では助けの手を差し伸ばして私たちを守り導こうとしておられるのに、その手が私たちに見えなくなってしまいます。そうして私たちは、「神さまが共にいてくださるから何があっても大丈夫」という平安を失ってしまうのです。

逆に、私たちが神さまをいつも意識して、神さまの願い通りに愛を実践しようとしているなら、私たちは神さまと仲良しであり、神さまは私の味方で、祈りも聞いていただけるという確信を持つことができるようになります。「愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです」(21-22節)。その結果、「何があっても大丈夫」という平安が生まれるのです。

3.たとえ心が責めたとしても

自責の念

人を具体的に愛することによって、自分が神さまに喜ばれ、受け入れられているという確信が与えられ、その結果平安が与えられるとヨハネは言います。しかし、20節でヨハネは「たとえ自分の心が責めたとしても」と書いていますね。

人を愛そうと努力したとしても、自分はちゃんと人を愛せているのでしょうか。確かに、人に親切な行動を取っている、優しい言葉をかけている、助けの手を差し伸べたり、励ましたりしている。しかし、それは本当に神さまに認めてもらえるほどに十分だろうか。神さまは「そんなんじゃあ、まだまだ足りない。私はその程度の行動を愛とは認めない」と思っていらっしゃるんじゃないか。そう思うと、途端に不安になってしまいます。

神がまず私たちを愛してくださった

16節でヨハネはこう語っています。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです」。そして、「ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです」、すなわちイエスさまがまず私たちを命をかけて愛してくださったのだから、私たちも人を愛するのだとヨハネは言います。

私たち人間は不完全ですから、神さまの要求を100%完全に満足させることはできません。その不完全さに対する刑罰は、イエスさまが身代わりに罰を受けることによって取り消されました。その結果、私たちは「神さまと仲良し」になったのです。そのことに感動し、感謝して、「だから神さまが望んでおられるとおり、愛を実践しよう」と私たちがするならば、たとえその行ないが不十分であったとしても神さまは私たちの動機を喜んでくださいます。

以前、幼稚園生の女の子が、忙しいお母さんを手伝おうとして食器を自分で洗おうとして、かえって台所をびしょびしょにしてしまったという話をしましたね。お母さんは、びしょびしょにしたことを叱らず、自分を助けたいと願ったその子の愛情に感動して、ぎゅっと抱きしめて「うれしい、ありがとう。優しいね」と感謝しました。それが子どもを見つめる親のまなざしです。私たちの天のお父さんである神さまも、私たちをそのようなまなざしで見つめてくださっています。

ですから、たとえ「自分の愛は不十分だ」と罪責感や自己嫌悪と覚えたとしても、神さまの愛に応えたいという動機でそれをしたのであれば、自分は神さまに喜ばれているという確信を持ち、結果的に平安を持つことができるとヨハネは言います。

不十分な自分を赦そう

しかし、その動機だって、完全に純粋かと問われれば「はい」とは言えません。そうすると、私たちはまたもや「私は神さまに呪われている。私は幸せになんか絶対になれない」という不安に振り回されてしまうことになりますね。

どこかで、この自責ループを断ち切らなければなりません。イエスさまは命を捨てるほどにこの自分のことを大切にしておられる。神さまはそれほどまでに私たちと仲良くなりたいと願っておられる。そこにいつも立ち返らなければなりません。

神さまが不十分な私たちのことを赦してくださっているのですから、私たちも自分自身の不完全さを赦しましょう。

この話をお読みください

まとめ

積極的に愛を実践しましょう。それによって、私たちの心は平安に近づきます。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたがよく経験する否定的な感情はどういうものですか?
  • 今、自分は神さまと仲良しだという確信がありますか? それとも、自分は神さまに無視されているとか、嫌われているとかいう感覚を抱いていらっしゃいますか?
  • 恐れや不安を感じて当然の状況の中で、イエスさまが不思議な平安や大丈夫感覚を与えてくださったという経験が最近ありましたか?
  • あなたの中に、最後の例話に登場した靖子さんのように悔い改めなければならないものがないでしょうか。それを悔い改めたとき、あなたの心の中にどんな変化が生じましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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