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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

仕えるしもべ

ヨハネの第3の手紙1節〜15節

(2019年11月24日)

参考資料

差出人の「長老」は使徒ヨハネだと考えられています。受取人のガイオは、同名の人が新約聖書の中に複数登場しますが(使徒19:29、使徒20:4-5、第1コリント1:14)、その誰かと同一人物なのか、それともいずれとも別人なのかは不明です。彼のことをヨハネは「自分の子ども」(4節)と呼んでいますから、かつてヨハネの伝道によって救われたのだと思われます。

9節のディオテレペスの詳細も不明です。

12節のデメテリオも詳細不明ですが、これからガイオやディオテレペスが住む町を訪問しようとしている巡回伝道者で、ヨハネがこの手紙によって彼の身元を保障しているのでしょう(ローマ16:1-2、第1コリント16:10-11、コロサイ4:7-9などと同様)。

イントロダクション

ヨハネは、この手紙の中でガイオとディオテレペスの2人を対比しています。そこから私たちへの生きる指針をいただきましょう。

1.ガイオ

真理のうちに歩んでいる

ヨハネはガイオについて、「あなたは真理のうちに歩んでいます」(3節)と語りました。間違った教えに惑わされず、聖書の教えにしっかりと留まっていたのです。

しかも、彼はただ何が正しいことで、どう行動すべきかということを頭で知っているというだけではなく、その知識を具体的な行動で現していました。特にヨハネが注目したのが、「兄弟たちのための、それもよそから来た人たちのための働き」(5節)でした。

「兄弟」というのは、この場合は同じ町に住むクリスチャンのことで、「よそから来た人たち」とは巡回伝道者のことです。

巡回伝道者をもてなす奉仕

この時代は教会が爆発的に成長し、地中海世界のあちこちに広がっていきましたから、牧師や伝道者の働きに専念する人たちの数が圧倒的に足りませんでした。そして、地域の教会も会堂を持っていませんでしたから、通常は信者の家に分散して集まって、礼拝したり交わったりしていました。そこで、前回も申し上げたように、巡回伝道者たちがあちこちの町を巡り、そこにある家の教会を訪問しながら、聖書の教えについて、また具体的な生き方について指導していたのです。

ですから、巡回伝道者が来たときに、彼らに宿泊場所を提供し、その町に滞在している間の生活を支え、さらに次の町へと送り出す準備を整えることは、非常に大切なクリスチャンの奉仕でした。

ヨハネはそのような奉仕について、「私たちはこのような人々を受け入れるべきです。そうすれば、私たちは真理のために働く同労者となれます」(8節)と語っています。全ての人が専門的な牧師や伝道者や宣教師になるわけではありません。しかし、彼らのために祈り、物質的あるいは精神的に支えることは、自分もまた神さまの働きに参加していることだというのです。

ガイオはそういう働きを率先して行なっていました。また、同じ町に住むクリスチャンたちに対しても、物質的に精神的に困っている人がいるとその人たちを支えていたのでしょう。

兄弟たちからの評判

ヨハネは、ガイオがそのような働きを率先して行なっていることをどうして知ったのでしょうか。それは他ならぬ巡回伝道者たちから聞いたからです。彼らはガイオの家に温かく迎え入れられ、町に滞在中物質的にも精神的にも支えてもらい、次の町へと送り出してもらったのでした。巡回伝道者たちは感激し、ヨハネにそのことを告げたのです。

しかも、そういう証しをしたのは1人ではありませんでした。ガイオが、巡回伝道者が町に来るたびに彼らを家に招いていたことが分かります。人を愛し、支える神さまのしもべとしての生き方が身に染みついていたのですね。

聖書にこういう言葉があります。「自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分の唇でではなく、よその人によって」(箴言27:2)。

ただし、人にほめてもらうための行動は、神さまに評価していただけません。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません」(マタイ6:1)。

ガイオは他の人にほめられるために愛のわざを行なっていたわけではありません。彼は心からそれを行ない、しかも地道に継続して行なっていたために、自然と評判になったのです。

2.ディオテレペス

ヨハネと巡回伝道者を拒否

ディオテレペスは、ガイオと全く逆の態度を巡回伝道者たちに対して行なっていました。「兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています」(10節)。

その理由は、ディオテレペスが教会の支配者になりたがっているからです。そのため、彼は使徒ヨハネの権威を認めたくありませんでした。「私は教会に少しばかり書き送りましたが、彼らの中でかしらになりたがっているディオテレペスが、私たちを受け入れません」(9節)。
使徒とは
ここで、使徒という存在について詳しく見ていきましょう。使徒と呼ばれる人々には2種類いました。

まずは、イエスさまが生前直接任命した12人の弟子たち。

それから、イエスさまの昇天後に、聖霊さまによって選ばれた人たち。具体的には、自殺したイスカリオテのユダの席を埋めるために選ばれたマッテヤ(使徒1:16-26)、それからパウロ(ローマ1:1など)、バルナバ(使徒14:14)、イエスさまの弟ヤコブ(ガラテヤ1:19)です。

当時、これらの人々以外にも力のある伝道者や牧師がいましたし(たとえばステパノとかシラスとかテトスとかアポロとか)、その後の教会史の中でも有力なクリスチャンのリーダーが現れました。しかし、彼らは使徒とは呼ばれていません。たとえ使徒と呼ばれている人がいたとしても、新約聖書が語っている意味での使徒ではありません。

新約聖書が語っている使徒は特別な存在でした。彼らは、復活なさったイエスさまが地上を去って昇天なさってから新約聖書が完成するまでの間、神さまから正しい教理を受け取って教会に伝える役割を担っていました。もちろん使徒たちも不完全な人間であって失敗もしましたが、それでも彼らが主イエスの名によって教えたことは、教会の中で正統的な教えとして受け入れられました。

今の時代には、もう新約聖書が語っている意味での使徒はいません。すでに新約聖書が完成し、私たちは新約聖書を読むことによって使徒たちの教えを聞くことができるからです。むしろ、これ以上「新しい教え」を付け加えることは許されません。「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、その者の受ける分を取り除かれる」(黙示録22:18-19)。

魅力的だが……

悪名高いアドルフ・ヒットラーですが、彼はどうして当時のドイツ国民の支持を集めたのでしょうか。恐怖によって逆らえなくした? 後にはそういう傾向も出てきましたが、当初はそうではありません。ヒットラーは民主的な手続きによって独裁者としての地位を手に入れたのです。それほどまでに、彼の演説は人々の心を揺さぶり、つかみました。つまり、彼は魅力的な人物だったのです。

人間的に見れば、きっとディオテレペスも魅力的な人だっただろうと想像します。そうでなければ彼が教会のかしらになろうとしても誰もついて行かないでしょうから。他のクリスチャンを教会から追い出せるほどに力があるということは、彼を支持する人たちが多くいる証拠です。

ヨハネは十二使徒のひとりです。おそらくこの手紙が書かれた当時唯一生き残っている使徒です。しかし、ディオテレペスはヨハネの使徒としての権威を認めたくありませんでした。ヨハネを使徒として認めれば、彼の教えを受け入れ、彼の命令を聞かなければならないからです。自分が教会の中で一番でありたかったディオテレペスはそれをしたくありませんでした。

ですから、彼はヨハネのことを口汚く罵りました。その上、ヨハネを使徒として認め、ヨハネが教えていることと同じことを教える巡回伝道者たちのことも受け入れませんでした。さらには、巡回伝道者たちを受け入れようとする教会の人々も仲間はずれにしようとしました。
ヨハネを権威ある使徒に任命したのはイエスさまです。そのヨハネの権威を認めないのは、イエスさまの権威を無視することと同じです。しかし、ディオテレペスにはそれが理解できていません。彼の行動は、教会を分裂させ、多くの信者を正統的な教えから引き離してしまう結果を生んでしまいました。

ですから、ヨハネは自分が直接教会を訪れ、ディオテレペスと対決しなければならないと語りました。

それでは、ここから現代日本に住む私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

3.仕えるしもべとなろう

仕えるリーダー

ガイオとディオテレペスの違いは何でしょうか。最大の違いは、ガイオが仕えるリーダーだったのに対して、ディオテレペスは支配するリーダーだったということです。

イエスさまはヨハネたち十二使徒が、やがて実現する神の国において最も高い地位に就くのは誰かと議論しているのを知って、こんな話をなさいました。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(マタイ20:26-28)。

アメリカを中心に起こってきたNAR(New Apostolic Reformation 新しい使徒的宗教改革)と呼ばれる霊的運動があります。これは日本にも少しずつ広まりつつありますが、長年日本で異端研究に尽力してこられたウィリアム・ウッド牧師が、 NARの持つ危険性について警鐘を鳴らしておられます(こちらのサイトで全文を読むことができます)。

その問題点の一つとして、NARのリーダーたちは自分たちのことを現代の使徒と呼びます。そして、大邸宅に住み、高級車に乗り、贅沢な生活をしながら、信徒たちに自分の贅沢な生活を支えるために献金するように、そして自分の命令に絶対服従するように求めます。これでは、しもべとしてのリーダーではなく、支配者としてのリーダーです。

私たちは自分のことを使徒と呼んで、教会のかしらになろうとはしないかも知れません。しかし、他の人を自分の思い通りに行動させようとして、無理矢理動かそうとしたことは無かったでしょうか。たとえば、暴力、暴言、脅し、嫌み、泣き落としなど……。

支配者は命令しますが、しもべはお願いします。私たちは命令したり、無理矢理操作しようとしたりしないで、謙遜にお願いする姿勢を大切にしたいですね。

書かれていることを越えない

ガイオが仕えるリーダーとなり、ディオテレペスが支配するリーダーになったのは、イエスさまの権威に対してどう応答したかの違いです。現代は地上にイエスさまはいらっしゃいませんし、使徒たちもいません。神さまが人間に望んでおられることは聖書を読むことによって知ることができます。

ですから、神さまの言葉である聖書の教えに対してどう応答するかが私たちに問われています。私たちは、聖書を最終的な判断の規準にしなければなりません。

宗教改革を行なったマルチン・ルターは、中世カトリック教会の権威に逆らうことを主張しました。それは、聖書の教えを素直に学べば、当時のカトリック教会が教えたり行なったりしていることは間違いだと思わざるを得なかったからです。当時の西ヨーロッパでカトリック教会に逆らうことは、社会的に抹殺されることと同じでした。しかし、ルターは「自分を批判するなら、聖書の教えによって批判せよ。そうでなければ自分は主張を曲げるわけにはいかない」と言いました。

クリスチャンの方々から多くの相談メールをいただきます。その悩みの一部は、人間を神さま以上に信頼したり、盲従したりした結果起こっていることだと思わされます。

どんなに立派な牧師やリーダーであったとしても、聖書の教えに反することを教えているならば、その教えは間違いです。それが私、増田牧師だったとしても(笑)、人を神としてはいけません。人ではなく、神さまが最終的な権威者です。

イエスさまが私たち望んでおられるように仕えるしもべとなるために、人ではなく、感覚でもなく、常識でもなく、聖書に親しみ聖書の教えに従いましょう。

まとめ

ガイオのように真理に歩み、仕える姿勢を大切にしましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • 無理矢理人を動かそうとしたことが最近ありましたか? どんな方法でそれをしようとしましたか? そして、その結果はどうでしたか?
  • 逆に、無理矢理人から動かされそうになったことがありますか? 相手はあなたに鈍なことをしましたか? あなたはそのときどんなことを感じましたか?
  • 支配するのではなく仕えるしもべとなるという教えについて、あなたは具体的にどのように行動を変えようと思いましたか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

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福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
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