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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

神の恵みと放縦

ユダの手紙1節〜8節

(2019年12月1日)

参考資料

著者の「ヤコブの兄弟ユダ」は、イエスさまの兄弟のひとりだと考えられています。イエスさま誕生の後、マリアはヨセフとの間にヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの4人の男子と複数の女子を産みました(マルコ6:3)。ヤコブはエルサレム教会の指導者となり、ヤコブ書を書きました。

6節の御使いは、神さまに逆らって堕落した天使で、いわゆる悪霊のことです。特に、創世記6:2で人の娘たちを誘惑して結婚した「神の子ら」(これも旧約聖書では天使を指す言葉です)を指していると思われます(7節)。その結果、ネフィリムという亜人が生まれて地上に広がって悪がますます増大したために、ノアの洪水が起こることになりました。

なお、9節と14節は聖書の正典からの引用ではありません。14節は「エノク書」という外典からの引用です。そして、9節も「モーセの昇天」(現存していません)と呼ばれる書物からの引用とされています。それらの書物自体は霊感を受けているわけではありませんが、ユダは教えの例話として引用しているのです(テトス1:12などと同様)。

イントロダクション

今回のキーワードは「放縦」です。放縦とは、「何の規律もなく勝手にしたいことをすること。また、そのさま」を指します(goo辞典より)。同じ単語がローマ13:13やガラテヤ5:19では「好色」と訳されていて、特に性的に奔放だというニュアンスを感じさせます。

ユダの手紙と内容が似ていると言われているのがペテロの第2の手紙です。ペテロは、やがて宛先の教会に偽教師たちが現れると言い、「また、多くの者が彼らの放縦に倣い、彼らのせいで真理の道が悪く言われることになります」(第2ペテロ2:2)と警告しています。

ところが、ユダの手紙ではそれがすでに実現していると言われています。「それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています」(4節)。

「神の恵みを放縦に変える」とはどういうことでしょうか。そして、私たちはどのような生き方を目指すべきでしょうか。

1.神の恵みと放縦

神の恵み

恵みとは、「神さまにもっと愛されるために私たちにできることは何もなく、神さまにもっと愛されなくなるために私たちにできることも何もない。とにかく神さまは私たちを愛してくださっている」ということです(フィリップ・ヤンシーによる定義)。

かつての私たちは、神さまの存在を信じず、神さまを敬わず、その命令も無視して自分勝手に生きてきました。それは神さまに対する罪です。本来なら、正義である神さまは私たちの罪を裁かなければなりません。私たちは罪の罰を受けて、永遠の苦しみを味わわなければならないはずでした。

ところが、恵みに満ちた神さまは、罪人である私やあなたを愛してくださっています。そして、私たちが罪の罰を受けて神さまから完全に切り捨てられることがないように、御子イエスさまを地上に送ってくださいました。イエスさまは私たちの身代わりとして罪の罰を受けて、十字架にかかって血を流してくださいました。そして、死んで葬られましたが、3日目に復活なさいました。そのことを信じるだけで、私たちは救われます。すなわち、罪を赦され、神さまの子どもとなり、永遠の祝福をいただくことができる存在に変えられるのです。これが私たちに対する神さまの恵みです。
救いは罪によって取り消されない
私たちに用意された救いは、私たちが正しい行ないをしたから与えられたのではありません。パウロもこう教えています。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」(エペソ2:8)。

ですから、救われた後に罪を犯したとしても、一旦与えられた救いがそれによって取り消しになることは決してありません。そして、罪を認めて神さまに告白するならば、すなわち神さまに謝罪するならば、すぐにきよめられて神さまとの親しい愛の交わりを回復することができます。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(第1ヨハネ1:9)。

放縦の教え

一方、パウロはこんなふうにも問いかけています。「では、どうなのでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。決してそんなことはありません」(ローマ6:15)。

さらに、続けてこのように語っています。「あなたがたは知らないのですか。あなたがたが自分自身を奴隷として献げて服従すれば、その服従する相手の奴隷となるのです。つまり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規範に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました」(ローマ6:16-18)。

パウロの言おうとしていることはこうです。
  • 人には完全な自由はない。必ず何かに従って生きることになる。
  • ある人は神さまの奴隷となり、神さまに従って生きる。その結果、永遠に続くいのちや喜びを得る。
  • また、ある人は罪の奴隷となり、自分勝手に生きる。その結果、永遠に続く滅びを得る。
  • だから、自分の罪を自覚して、罪の奴隷状態から解放されることを求めて神さまにすがり、イエスさまの身代わりの死と復活を信じて救われ、神さまのしもべとしての新しい人生を始めた人が、「どうせ赦されるんだからどんどん罪を犯そう」という発想を持つこと自体があり得ない。
もちろんクリスチャンでも罪を犯してしまいます。しばらく悔い改めないでそれを続けることもあるでしょう。しかし、神さまは子どもである私たちが間違った道を進み続けることを喜ばれませんから、様々な方法で今の生き方が間違っており、罪であることを示されます。その時、クリスチャンは悔い改めるでしょう。

少なくとも、最初から「どうせ赦されるんだからどんどん罪を犯そう」と高をくくるなどということは、もし本当にイエスさまの恵みと愛を信じているのならばあり得ません。イエスさまの愛を自覚しながら、そのイエスさまが悲しまれ苦しまれることが分かっていながら、なおも積極的に罪を犯そうとするなどということがあるでしょうか。

私たちが分かっていながら罪を犯してしまうのは、イエスさまの愛を見失っているときではありませんか?
罪の奴隷
ローマ書の場合、そういうことを主張して実践している人が実際にいたわけではありません。パウロの反対者たちが、「パウロはそのようなことを教えている」と的外れな批判していたということです。

ところがユダ書では、そういうことを実際に主張し、自分勝手な生き方を積極的に行なっている人たちが現れ、教会の他の人々を惑わしつつありました。

ユダは彼らのことを「不敬虔な者たち」と呼び、「唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定している」と指摘しました(4節)。すなわち、彼らはパウロが語ったように神さまの奴隷になったのではなく、未だに罪の奴隷なのです。

畏怖の対象としての神

先日、新しい天皇・皇后が即位され、様々な儀式やお披露目が行なわれました。ワイドショーでパレードを中継しているとき、多くの人々が沿道からスマホで写真を撮っている様子を見て、年配のコメンテーターの一人がこんな感想を語りました。「昭和から平成、令和と時代が移って、皇室がとても身近な存在になった。僕らが子どもの頃は、カメラを向けるのも恐れ多いと思っていた」。

身分制度が明確だった江戸時代以前、あるいはまだその影響を強く残していた戦前と違って、民主主義が浸透している現代において、「主」とか「王」とかいう存在に対して、「恐れ多い」という感覚、「自分たちとは全く次元が違う存在だ」という思いを持つことがあまりなくなっているのではないかと感じます。

身分差別が無くなるというのは民主主義の良い側面ですが、一方で「イエスは主の主、王の王である」という聖書の主張に対して、1世紀の弟子たちが抱いていた肌感覚を理解しにくいという副作用もあるように思います。

イエスさまや父なる神さま、聖霊さまの温かい愛の側面は理解できても、恐れ多い畏怖の対象であり、「この方には無条件に従うべきである」という思いを抱かせるほどの偉大な存在だという側面は、現代日本に住む私たちにはなかなか理解できなくなっているのかも知れません。
それでもイエスは主
それでも、イエスさまは単なるお友だちではありません。私たちの主、ご主人さまであり、私たちはあの方のしもべ、奴隷です。その奴隷である私たちをイエスさまは友と呼んでくださり、いのちを投げ出してくださいました。そこにイエスさまの愛の大きさがあるのです。

イエスさまが主であるということばかり強調して、愛の側面を忘れることは間違いです。私たちは恐れに囚われ、窮屈な生き方を強いられることになるでしょう。しかし、愛の側面ばかり強調して、イエスさまが主であるということを忘れたら、私たちの生き方は放縦に近づいていってしまうかも知れません。

私たちはこの点についてもバランスの取れた考え方、捉え方を心がけなければなりません。

では、ここから私たちが学ぶべきことは何でしょうか。イエスさまが私たちの主であるということを忘れないために、そして私たちが積極的にイエスさまの御心に従い、正しいことを行なうことができるようになるために、どんな態度が必要でしょうか。

2.イエスは主であるという意識を育てるために

告白

父・子・聖霊の三位一体の神さまは、私たちの主であること、そして私たちはこのお方のしもべ、奴隷であることをいつも口に出して告白しましょう。そして、しもべである私たちは、主である神さまの命令を実行すべき存在だということを告白しましょう。

「イエスさま。あなたは私の主です。私はあなたのしもべです。ですから、私はあなたに従います。せよと言われたことをします。やめろと言われたことはやめます」。そう祈りましょう。

それにより、私たちはいつもそのことを意識して生きることができるようになります。

賛美もまた、イエスさまが私たちの主であることを再確認させてくれます。年末のクラッシックコンサートと言えば、日本ではベートーベンの第九交響教がスタンダードですが、欧米ではヘンデルのメサイアがよく演奏されます。演奏時間約2時間半、全部で3部構成の大曲ですが、第2部最終曲の「Hallelujah」(ハレルヤコーラス)は特に有名ですね。

1743年春、ロンドンで初めて「メサイア」が演奏されたとき、時の国王ジョージ2世もその演奏会に出席しました。そして、演奏が進んでハレルヤコーラスが始まります。この曲は再臨なさるイエス・キリストを王の王、主の主としてほめたたえる内容です。大英帝国は「太陽が沈まない国」(世界中に植民地を持ち、必ず支配地域のどこかが昼間でした)と呼ばれた偉大な国であり、ジョージ2世はその王ですが、宇宙を支配なさるイエスさまの前ではしもべのひとりに過ぎません。ですから、ハレルヤコーラスを聴いていたジョージ2世は、思わず起立の礼を取りました。すると、近くにいた貴族たちも王が立ち上がったのですから座っていられずに立ち上がりました。そして、民衆もみんな立ち上がりました。こうして、ハレルヤコーラスの時には、観客が立ち上がる、いわゆる「ハレルヤ立ち」の風習が始まったとのことです。

神さまの素晴らしさを意識しながら、賛美の歌や祈りをささげましょう。

傾聴

主人は命令します。そして、しもべはそれを聞きます。預言者サムエルがまだ子どもで、神さまの言葉も聞いていなかったの頃、彼を引き取って教育していた祭司エリは彼にこう教えました。「主がおまえを呼ばれたら、『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい」(第1サムエル3:9)。サムエルはその通りにしました。

しもべが主人にあれをせよ、これをせよと命じることはしません。主人が命令して、しもべはそれに注意深く耳を傾けます。私たちもサムエルがしたように「主よ、お話しください。しもべは聞いております」という思いを抱きながら、聖書を読み、また傾聴の祈りを捧げましょう。

とはいえ、しもべは一切口をきいてはいけないということはありません。先週も学んだとおり、しもべは主人にお願いすることができます。私たちの主人である神さまは慈しみに満ちておられ、私たちを子どもとして愛してくださっています。ですから、欲しいものがあれば素直に率直にお願いしましょう。遠慮などすれば、かえって神さまはガッカリなさいます。

それでも、私たちの祈りがお願いばかりにならないように注意しながら、傾聴の祈りも心がけましょう。

実行

もちろん、聞いただけで実行しないのは、聞いていないのと同じです。聖書や祈りを通して神さまに行なうよう促されたことは、たとえそれが困難なものであっても実行しましょう。

イエスさまを信じたとき、私たちの内には聖霊なる神さまが住んでくださるようになりました。聖霊さまは私たちを内側からきよめ、作り変え、神さまに従うことができるように知恵や力を与えてくださいます。

しかし、聖霊さまは紳士ですから、私たちの意思に反して私たちを作り変えようとはなさいません。ですから、神さまに従いたいと祈り、そうしようと決意し、それから「聖霊さま、神さまに従うことができるように助けてください」と祈りましょう。

それから、思い切って命ぜられたことを実行します。実行しようという気持ちが100%になったらやろうとか、恐れや不安が全くなくなったらやろうとか思わないこと。神さまに従いたいと願い、従おうと決意し、聖霊さまの助けを祈り求めたら、恐れや迷いがあっても一歩を踏み出しましょう。そうすれば、嵐の湖の上を歩いたペテロのように、あなたもまた素晴らしいことを行なうことができるでしょう。

まとめ

イエスさまが主であることを再確認し、忠実に仕えることを決意しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • イエスさまが愛に満ちた友であるという真理と、イエスさまが畏怖の対象である宇宙の支配者であるという真理とのバランスで、どちらかに偏りすぎでいませんでしたか?
  • イエスさまがご主人さまで、私たちはその奴隷であるということを改めて学んで、ご自身の生活において特に気づかされたことがありますか?
  • 今、主であるイエスさまがしもべであるあなたに求めておられることは何だと思いますか?
  • イエスさまの命令であっても、どうしても手放せないものがありますか? それは何ですか? それを手放すと、あなたはどうなりますか?
  • イエスさまが主で自分がしもべであることをいつも意識できるように、あなたにできることが何かありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
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