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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

優しさに満ちた律法

ルカによる福音書6章1節〜11節

(2020年3月15日)

本日は、新型コロナウイルス感染防止のため会場が使えなくなったため、公の礼拝式をお休みにしました。礼拝メッセージのスライドショー動画を用意いたしましたので、そちらもぜひお聴きください。
  礼拝メッセージ動画

イントロダクション

5章の最後の部分で、イエスさまは新しい布きれで古い着物の継ぎ当てをしないというたとえ、また新しいぶどう酒を古い皮袋に入れないという話をなさっています(詳しい内容は、2017年12月3日にマタイの福音書の解説でお話ししています。)。

これらのたとえが表しているのは、イエスさまを信じ従う人たちの生き方は、パリサイ人たちが民衆に教えていたような生き方とは違うということです。今回の箇所では、早速その違いが明らかになっています。

私たちクリスチャンは、イエスさまによって新しい生き方を与えられました。それはパリサイ的な古い生き方とどう違うのでしょうか。そしてそれはどんなふうに私たちにとって祝福なのでしょうか。

1.安息日論争

サンヘドリン

当時のイスラエルはローマ帝国に支配されていましたが、ローマは占領した国の人たちが従順であるうちはかなりの自治を認めてくれました。イスラエルでもサンヘドリン(新改訳2017では「最高法院」と訳されています)という議会が残されて、政治的・宗教的な様々な決定がなされたり、裁判が行なわれたりしました。その構成員は祭司、律法学者、パリサイ人など71人の長老たちです。

さて、このサンヘドリンが、ナザレのイエスという人物に注目しました。多くの民衆が、この方こそ聖書が登場を約束している救い主ではないかと考えていたからです。そこで、サンヘドリンからパリサイ人を中心とした調査団が派遣されました。彼らはイエスさまの言動をつぶさに観察したり直接イエスさまと議論したりすることによって、本当にこの人が救い主かどうかを判断しようとしました。

サンヘドリンの最終的な判断は、「イエスという男は救い主ではない。様々な奇跡は悪霊の力を借りて行なっているものだ」ということです(マタイ12:24、ヨハネ9:22)。今回の箇所は、彼らがそのような判断を下すきっかけの一つになっています。

それはイエスさまが、当時教えられていた安息日の規則に堂々と違反なさったからです。ここでは2つの例が挙げられています。ただし、ここで言う違反とは、モーセの律法そのものに対する違反ではなくて、パリサイ派の律法学者たちが長年かけて作り上げてきた細かい様々な規則のことです。

たとえば、モーセの律法では、安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)には働いてはいけないことになっています。「あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。六日間は仕事をする。しかし、 七日目は【主】の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない」(出エジプト31:14-15)。

律法学者たちは、何が禁止されている労働なのかなのかを議論して、あれもダメこれもダメと次々と禁止命令を付け加えていました。今回問題になった、安息日に麦の穂を摘んで食べることと人をいやすことも、パリサイ的な規則ではNGだったのです。

パリサイ人たちが非難した点について、もう少し細かく見ていきましょう。

安息日規定違反

他人の畑から麦の穂を摘んで食べることそのものは律法違反ではなく、むしろ律法で認められている行為です。畑の所有者には、穀物や果実を全部収穫せずに残しておいたり、落ちてしまった穂を拾い直さずそのままにしたりして、貧しい人たちや旅人たちがそれで空腹をいやすことができるよう命ぜられています(レビ19:9-10)。

今回パリサイ人たちが問題にしたのは、イエスさまの弟子たちがそれをしたのが安息日だったからです。パリサイ人たちの教えによれば、「穂を摘んで、手でもみながら食べていた」(1節)という行為は、収穫や脱穀という労働に当たるとされていたからです。

それをしていたのは弟子たちですが、師匠であるイエスさまもその場にいたのに止めなかったのですから同罪と見なされました。

そして、安息日に病気や怪我や障がいをいやすことも労働に当たるとして禁止でした。どんなに病人や怪我人が苦しんでいても、治療は翌日まで待たなければならなかったのです。イエスさまはもちろんそういう規則を知っていて、しかもパリサイ人たちが自分を非難するネタを探しているのを知っていた上で、それでも手が不自由な人をいやされました。

なぜイエスさまは安息日に弟子たちがに麦を食べるのを止めず、また自らもいやしを行なわれたのでしょうか。

あわれみの重視

それは、イエスさまが空腹で苦しんでいる人たち、病気や怪我や障がいで苦しんでいる人たちに対して、深いあわれみの心、優しい愛の心を持っておられたからです。そして、彼らを一刻も早くその苦しみから解放してやりたいと願われたからです。

モーセの律法をユダヤ人に与えたのは神さまです。神さまがモーセの律法をお与えになったのは、人を縛り付け、窮屈な思いをさせるためではありません。イスラエルの共同体が正義とぬくもりに満ちたものとなり、互いに幸せに生きることができるようになるため、そして神さまとの関係を深めて感謝や賛美の思いを持って生きられるようにするためです。

たとえば安息日に休むよう命ぜられているのはなぜでしょう。それは出エジプトの奇跡を、当事者だけではなく後の世のユダヤ人も代々思い起こすためです。イスラエルの民はエジプトで休みなく働かされる奴隷状態にありましたが、神さまは彼らをそこから解放して自由をお与えになりました。安息日に休めという命令は、そのことを記念して神さまへの感謝や賛美の思いを新たにするために与えられました。

また、安息日には男だけでなく主婦も奴隷も家畜も休むよう命ぜられていました。ですから、肉体的な休息を定期的に取ってリフレッシュすることの大切さや、自分だけでなく他の人が休息できているかに気を配ることの大切さも教えているでしょう。

決して「仕事をしないこと」が命令のポイントなのではありません。ところが、パリサイ人たちは神さまの人間に対する愛よりも「仕事をするな」という命令それ自体に囚われてしまっていました。その結果、空腹な人や障がいを抱えて苦しんでいる人への優しさを失ってしまっていたのです。
ダビデの故事
それを悟らせるために、イエスさまはダビデの故事を思い出させました(第一サムエル21:1-6)。ダビデがまだサウル王に仕える将軍だった頃、サウルはダビデに嫉妬して命を狙うようになります。王子ヨナタンの助けによって都を脱出したダビデは、おなかがすいて祭司アヒメレクの元を尋ねます。そのダビデにアヒメレクが渡したのは、前の安息日に「臨在のパン」として神さまの前に供えられ、その日新しいものと取り替えたものでした。

モーセの律法では、聖所から取り下げられた古い臨在のパンは、祭司が食べることになっていました。「あなたは小麦粉を取り、それで輪形パン十二個を焼く。一つの輪形パンは十分の二エパである。それを【主】の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く。それぞれの列に純粋な乳香を添え、覚えの分のパンとし、【主】への食物のささげ物とする。彼は安息日ごとに、これを【主】の前に絶えず整えておく。これはイスラエルの子らによるささげ物であって、永遠の契約である。これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、【主】への食物のささげ物のうちから、永遠の定めにより彼に与えられた割り当てだからである」(レビ24:5-9)。

そして、臨在のパンは祭司でない人が食べることができませんでした。「一般の者はだれも、聖なるものを食べてはならない。祭司の居留者や雇い人は、聖なるものを食べてはならない。 しかし、祭司に金で買われた者はこれを食べることが許される。また、その家で生まれた者も祭司のパンを食べることが許される」(レビ22:10-11)。 ですから、古い臨在のパンを食べたダビデも、それを与えたアヒメレクも律法に違反したことになります。

ところが、聖書はアヒメレクやダビデの行為を非難していません。それは、弱っている人に対するぬくもりに満ちた優しさこそ神さまのみこころであり、神さまのさまざま命令の背後にある思いだからです。

ところが、パリサイ人たちは苦しんでいる人たちに対する優しさよりも、規則を文字通りに守ることの方を重視していました。イエスさまはそういう彼らの生き方を、柔軟性を無くしてガチガチに固まった古い衣や古い皮袋にたとえられました(ルカ5:36-39)。

それでは、私たちはどうでしょうか。いつの間にか古い衣や古い皮袋のような生き方になってしまってはいなかったでしょうか。そして、本来イエスさまが私たちに与えようとしておられる自由や喜びを失ったり、他の人への愛の思いをしぼませたりしていなかったでしょうか。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。イエスさまが与えてくださった新しい命は、新しい生活パターンに入れる必要があります。それはどういうことでしょうか。それを今回の箇所から学んでみましょう。

2.新しい生き方

神の愛を知る

現代の私たちは、もうモーセの律法を守る義務はありません。イエスさまが十字架にかかり、全人類の罪をあがなってくださったとき、モーセの律法の役割は終了しました(エペソ2:15、コロサイ2:14など)。

今、イエスさまを信じて救われた私たちには、新しい「キリストの律法」(第1コリント9:21)が与えられています。具体的には使徒たちが新約聖書の書簡の中で命じているような生き方です。

しかし、それらの命令もまたモーセの律法と同じように、神さまのぬくもりに満ちた優しさが根本のところにあります。

モーセの律法が与えられたのは、イスラエルがエジプトから解放された後でした。モーセの律法を守ったから助けてもらったわけではありません。

今、神さまが私たちクリスチャンに様々なことをお命じになっているのも、それを守れば救われるためではありません。私たちが救われるのは、ただただ神さまの一方的な恵みとそれを信じた私たちの信仰によってです。具体的には「私の罪を赦すためにイエスさまは十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということを信じるだけです(第1コリント15:1-8)。

それなのに、いつの間にか聖書の命令を守らなければ神さまに愛してもらえない、祝福してもらえないというふうに誤解してしまってはいなかったでしょうか。神さまの命令を、愛のメッセージとして捉え直してみましょう。そういう生き方をするならば、あなたはもっともっと幸せになれるよというメッセージです。

また禁止命令も、私たちの自由を奪って束縛するためではなく、「私がついているんだから、もうそんな不毛な生き方をしなくていいんだよ」という愛のメッセージとして捉え直してみましょう。

たとえば、聖書は偶像礼拝や異教礼拝を禁じています。それは、「もう本当の神さまを捜さなくて良くなったんだよ。人間が勝手に作り上げた偽物を拝まなくてもいい。あなたを造り、あなたを命がけで愛しているこのわたしが、あなたを救い、あなたを子どもとして家族に迎え入れ、あなたを必ず幸せにするのだから」、そういう意味です。

同じように、盗みや殺人や姦淫(夫婦以外の性的関係)が禁じられているのも、「そういう自分や他の人を粗末にするようなやり方で、幸せになろうとしなくていい。このわたし、全知全能の神があなたを愛し、守り、支え、導くのだから」という意味です。

神さまは私たちがもっともっと幸せになって欲しいと願って、様々な命令をなさっています。私たちを縛り付け、自由や楽しみを奪い、不幸せにするためではありません。もしそう思っているとしたら、今考え方を変えましょう。そして、神さまの命令の背後にある私たちに対する深い愛情を読み取りましょう。

自発的に行なう

パリサイ人たちが安息日規定を守り、週に2度断食し、日に3度時間を決めて祈ったのは、それが彼らの決まりだったからです。しかし、イエスさまを通して神さまのあふれる愛、あふれる優しさに触れた私たちクリスチャンは、喜びと感動からそうしないではいられない思いで神さまの命令を守るようになります。

ある人が牧師に「どうしたらもっとイエスさまを愛せるようになりますか?」と質問しました。すると牧師は答えました。「それを考えるよりも、どれだけ自分がイエスさまに愛されているかを考えなさい」。そう、それが私たちの原動力だからです。

たとえば、経済的に困窮している人に対する施しについて、新約聖書はこう教えています。「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(第2コリント9:7)。

では、惜しいなと思ったり、やだなと思ったりしてはいけないのでしょうか。そういう行動は不純で、神さまのみこころにかなわないのでしょうか。いいえ、そうではありません。

ある人が、歳末助け合いの募金を集めている人たちの前を通りました。そして、千円募金することにしました。しかし、財布の中身を見て一瞬「惜しいなぁ。5百円玉にしようかな」と思ってしまいました。それでも思い直して千円募金しました。

では、この人は「惜しい」と思ってしまったから、喜んでささげていないからダメだということになるのでしょうか。いいえ。この人はそうしなければ神さまの罰を受けるからと恐れからそうしたのではありません。そうすることが、大好きなイエスさまのお望みであると信じて募金しました。惜しいなと思ったということは、それだけ精一杯のささげものをしたという意味でもあります。この人は、強いられてではなく、自発的に、そうしないではいられない思いで確かに募金なさったのです。

励ましの道具にする

神さまの命令は、人が神さまの愛を知って喜び、神さまとの愛の交わりを深めるために与えられています。そして、人と人とが互いに愛し合い、大切にし合い、共に幸せになるために与えられています。聖書の命令を使って、他人を批判して傷つけたり、自由を奪って窮屈にさせたりするためではありません。パリサイ人たちは聖書の教えをそのように使っていました。しかし、私たちはそうであってはなりません。もちろん、他人だけでなく自分自身に対しても同じです。

私はスクールソーシャルワーカーという仕事もしています。子どもたちへの対応を話し合う会議で、臨床心理士がある子どもの担任に、「ルールを作って守らせましょう」と提案しました。そして、続けてこうおっしゃいました。「ただし、ルールを作るのはできないときに叱るためではありませんよ。ほんの少しでもできたり、がんばろうとしたりしたときにほめるためです。ほめるネタを探すための仕組みがルールです」。

もしイエスさまによる罪の赦しがなければ、私たちは100%完璧な生き方をしなければ有罪となって神さまから永遠の滅びという罰を受けなければなりません。しかし、イエスさまによる赦しを受け取った私たちを、神さまは責める材料を探すためではなくて、ほめる材料を探すために見つめてくださっています。

神さまの命令を完璧に守ることは、私たちには不可能です。しかし、神さまの愛を受け取って感動し、神さまが喜んでくださるような生き方をしたいと願う私たちの小さな進歩を、神さまは大喜びしてくださいます。

人と比較してはいけません。比較するなら、以前の自分、以前のその人です。きっと進歩しているはずです。それを認め、喜び、だからもっと成長できると励ましましょう。

まとめ

イエス・キリストによる罪の赦しを受け取った私たちにとって、神さまの命令、律法は、神さまの優しさに満ちています。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたはイエス・キリストの福音をいつどのように信じましたか? まだ信じていらっしゃらない方は、信じられない理由が何かありますか?
  • あなたが守りにくいなと思う神さまの命令は何ですか? それを守るために、あなたはどんな努力をしてこられましたか?
  • その命令を愛の語りかけとして読み直してみると、神さまはあなたにどんな約束をしてくださっているでしょうか。
  • 最近、神さまの愛を特に実感できた出来事がありますか?
  • 1年前のあなたを思い出してください。その時と比べて少しでもできるようになった良いこと、やめられるようになった良いことがありますか?
  • あなたの家族など身近な人を一人思い浮かべてください。その人が1年前よりも成長しているのは何でしょうか。できるだけたくさん挙げてください。

連絡先

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福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
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