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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ほめられた百人隊長

ルカによる福音書7章1節〜10節

(2020年3月22日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「カペナウム」は、ガリラヤ湖の北西眼にあったユダヤ人の町です。

2節の「百人隊長」(ラテン語でケントゥリオ)は、ローマ軍の百人隊(ケントゥリア)を率いた指揮官。ローマ軍の一つの軍団は6000人の兵士からなりますが、百人隊長はその中で定員100人の部隊を束ねました。前線での戦闘指揮の他、訓練、隊の秩序維持など軍団の活動の中核を担い、「ローマ軍団の背骨」と呼ばれました。

5節の「会堂」は、今も存在しているユダヤ教の集会場、シナゴーグのこと。13才以上のユダヤ人男性が10人以上いる地域に作られて、礼拝や祈りを捧げたり律法を学んだりする宗教施設であると共に、様々な地域の決め事や文化行事などを行なうなどコミュニティセンターとしての役割もあります。

イントロダクション

9節でイエスさまはローマの百人隊長について、「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません」とおっしゃって、非常に高く評価しておられます。なぜ彼はイエスさまにほめられたのでしょうか。私たちも彼の心の姿勢に学びましょう。

1.愛を実践していた

しもべへの愛

百人隊長がイエスさまにいやしを願ったのは、「しもべ」でした。奴隷です。

古代ローマにはたくさんの奴隷がいました。戦争で捕虜となった人や、奴隷から生まれた人、貧しさから自分の身を売ったり親に売られたりした人などです。ローマ時代の奴隷はアメリカの黒人奴隷と比べると待遇が良く、能力のある人は執事として家の経営を任されたり、医師や家庭教師や会計士になったり、政治家として働いたりする人もいました。今回病気になってしまったしもべも、百人隊長が普段から頼りにしていた人だったのでしょう。

それでも奴隷は家族ではなく財産に過ぎません。ローマ人の中には奴隷を虐待したり、使い捨ての道具のような扱いをしたりする人もいましたが、この百人隊長は家族が病気になったのと同じように心配し、そのいやしのために労しました。彼は愛の人だったのです。

ユダヤ人への愛

さて、当時カペナウムにはローマ軍の駐屯地がありました。ですから百人隊長の宿舎もカペナウムの中にあって、イエスさまがおられたところには歩いてもいける距離でしたが、百人隊長はイエスさまに直接いやしを願いに行ったわけではありません。カペナウムのユダヤ人の長老たちにとりなしを願いました。頼まれた長老たちは、イエスさまにいやしてくださるよう願いました。しかも「熱心に」(4節)お願いしたと書かれています。

これは驚くべき光景です。当時のユダヤ人は異邦人のことを非常に軽蔑していました。ましてこの百人隊長はローマ軍の人間です。当時、イスラエルの国はローマ帝国に占領されていましたから、ユダヤ人はローマ人、特に軍人たちをことのほか嫌っていました。にもかかわらず、長老たちは熱心に、すなわち心の底から一生懸命にイエスさまに願ったのです。

それは、百人隊長がカペナウムの町にユダヤ教の立派な会堂を建ててくれたからです。今カペナウムに行くと、紀元3世紀頃に建てられた会堂が残っています。そして、その土台の下にはイエスさま時代の土台が発掘されています。百人隊長が建てた会堂の土台です。いったいどれだけのお金がかかったことでしょう。それを百人隊長はポンと寄付しました。

ローマ軍人の中には、占領した国の民にひどいことをする人たちがたくさんいました。マタイの福音書5章、いわゆる山上の説教の中で、イエスさまは「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」とか「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」とか教えていらっしゃいますね(1ミリオンは約1.5キロ)。これは、当時のローマ兵たちがユダヤ人に対してよく行なっていたことです。鬱憤晴らしのために暴力を振るったり、自分たちが運んでいた荷物をユダヤ人に運ばせたりしたのです。

イエスさまが逮捕されてピラトの官邸に連れてこられたときも、ローマ兵たちはイエスさまを散々に痛めつけました。イエスさまが十字架を担げなくなったとき、ローマ兵はクレネ人シモンに無理矢理それを運ばせました。山上の説教のあの言葉は、そういう時代背景の中で語られたものです。

このように、属国の民にひどいことをするローマ軍人が多い中で、この百人隊長はユダヤ人に対して考えられないほどの親切を示しました。それはなぜでしょう。彼が聖書の教えと、聖書を与えてくださった天地の創造主に対して心引かれていたからに違いありません。

神さまがユダヤ人の先祖であるアブラハムに対して語られた約束の中に、こういう言葉があります。「わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)。ここで言う「あなた」とはアブラハムのことですが、後にその対象がアブラハムの子イサク、さらにその子ヤコブ、さらにさらにその12人の息子たちや彼らの子孫であるユダヤ人にまで拡大されます。

聖書の神さまを知り、神さまを愛するようになった百人隊長は、ユダヤ人を大切にすることが神さまのみこころであり、異邦人の使命だと知っていたのでしょう。

愛を具体的に表現しよう

私たちも周りの人、特に自分よりも弱い立場の人たちに対して愛の思いを持ち、具体的にその人の幸せにつながるような行動をしましょう。

もちろん、何もしないで見守ることがその人にとって最善だということもあります。何かをするにしてもしないにしても、私たちはその人の幸せを考えて行動しましょう。

そして、なかなか身近にはいないかも知れませんが、ユダヤ人を愛し、その愛を自分にできる具体的な方法で表しましょう。私たちの教会では、毎年ある団体を通してユダヤ人伝道のためにわずかばかりの献金をささげています。それだけでなく、イスラエルの平和とユダヤ人の救いのために祈ることもまた愛の表現です。

2.謙遜だった

ふさわしくない

百人隊長に依頼された長老たちは、喜んで一肌脱ぎました。イエスさまの所に行き、彼がいかにユダヤ人に対して愛情深い人かを訴えてこう言いました。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です」(4節)。イエスさまも、異邦人だからといって拒否しないで、百人隊長の宿舎に向かって歩き始めました。

おそらく、先に長老たちから百人隊長に「イエスさまがおいでになる」と使いが送られたのでしょう、百人隊長は慌てて友人たちを遣わして言いました。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした」(6-7節)。

百人隊長は100人の兵士を束ねる中隊長です。軍隊組織の中ではかなり地位の高い軍人です。ガンダムで言えば紅い彗星のシャア少佐クラスです。にもかかわらず、彼は占領下にある人々に対して偉ぶらないばかりか、イエスさまに対して非常に謙遜な態度を取りました。まるで、皇帝の前にいる家臣のような態度です。

当然ではない

長老たちは、この百人隊長はイエスさまに目をとめてもらい、大切なしもべをいやしてもらえる資格があると言いました。それは、彼が立派な行ないをしたから、しかも神の民であるユダヤ人に対して良いことをしたからです。

しかし、百人隊長が友人たちを通して語った6-7節の言葉は、イエスさまに愛するしもべをいやしていただくのは、自分にとって当然そうしてもらえるはずだと期待できるようなものではないという意味です。神さまの祝福は人間の良い行ないのご褒美として与えられるわけではないと百人隊長は信じていたのです。

もしも神さまが人間の行ないによって愛するか呪うかを決めるのなら、誰一人として愛され祝福される人はいません。なぜなら、神さまが要求なさる行ない、そしてその行ないをを生み出す心の正しさはパーフェクトでなければならないからです。その要求に完璧に応えられる人間は誰もいません。だからこそ聖書は「義人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)と宣言しています。

恵みを信じよう

ところが、神さまの祝福は当然の権利ではないと思っていた百人隊長は、自分には資格がないからダメだとも思いませんでした。自分は不完全な人間であり、神の民ユダヤ人でもないけれど、それでもイエスさまは自分をあわれみ、自分が愛してやまないしもべをあわれんで、一方的に愛し祝福してくださる、必ずいやしを与えてくださる。すなわち報酬としてではなく恵みとして祝福してくださる。百人隊長はそう信じました。

私たちも、自分が何か立派な人間だから神さまに愛され、祝福されるのだと思わないようにしましょう。そうでないと、気分がいいときには神さまに愛されている実感を持てるし、だから何があっても大丈夫だと平安や希望を抱くことができるけれど、ちょっと失敗をしてしまったり気分や体調が悪かったりすると、途端に神さまに嫌われているような気持ちになり、平安や希望を失ってしまいます。

私たちがどういう状況であれ、神さまは私たちを愛し、幸せにしようと願ってくださいます。そして、日常生活の中で様々な配慮をしてくださいます。

そのことを信じましょう。「私はこのままで神さまに愛されている。祝福されている。守られている。だから大丈夫」と宣言しましょう。そして、希望を持ちましょう。

3.権威を信じていた

言葉一つ

続けて百人隊長はイエスさまに言いました(使いを通してですが)。「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」(7節)。

この「おことば」というのはギリシア語原文では単数形です。ですから意訳すれば「病に向かってただ一言『治れ』とおっしゃってください」というニュアンスです。たったそれだけでいやされるはずです、と。

権威

その理由として、百人隊長はこう言いました。「と申しますのは、私も権威の下に置かれている者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします」(8節)。

自分は上司である千人隊長や軍団長や皇帝の命令に命がけで従う。そして、自分が命令すれば配下の100人の兵士たちや奴隷たちは命がけで命令を実行しようとする。ましてイエスさまは宇宙の支配者、神が人となって地上に来られた王の中の王なのだから、病気や悪霊や自然が命令を聞くのは当然のことである。たとえ、距離が離れていたとしても、一言命令するだけでたちどころに病気もいやされる。そういう意味です。

イエスさまが世界の王である救い主だと信じないユダヤ人が多い中、異邦人にもかかわらずこの百人隊長はイエスさまを世界の王と信じました。

イエスの権威を認めよう

権威に満ちたイエスさまの命令は、病気でも悪霊でも従います。物理的な距離も問題になりません。イエスさまに不可能はありません。私たちが祈るとき、イエスさまは大変な権威者だということを頭に置いて祈らなければなりません。私たちの小さな頭で、イエスさまの権威、イエスさまの力の大きさを値引いてしまってはなりません。

ただし、それは何でもかんでも私たちの願いがかなうということではありません。もしも私の祈った通りに世界が動くなら、私こそ世界の王であり神さまは私の願いを叶えるしもべだということになります。

部下は指揮官に対して、「守ってばかりいないで攻めましょう」とか「この作戦には私を加えてください」とかお願いすることはできます。しかし、指揮官は戦場全体を見ていて、一般の兵士が見えていないものが見えています。ですから、「今は攻め時ではない。チャンスが来るまで待て」とか「この任務については、別の兵士の方が能力的にふさわしいから、今回は我慢してくれ」とか答えるかも知れません。

神さまはすべてをご存じであり、時間さえも越えておられます。ですから、私たちの必死の祈りに対して、時に「ダメ」とか「待て」とかおっしゃることがあります。イエスさまの権威を認めるということは、願ったとおりにならなかったことについても、これが最善だと信じて感謝し、受け入れるということでもあります。

「すべて最善だと信じます」。そしてすべてに対して「感謝します」。これを私たちの口癖としましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたの具体的な愛の行動を必要としている人が周りにいますか。その方に対してあなたには何ができますか?
  • 何かをしないことが愛の場合もあるということについて、思い当たることが何かありますか?
  • ユダヤ人に対してどのように愛を表すことができますか?
  • 神さまの祝福は報酬ではなく恵みであるということについて、あなた自身の体験が何かありますか?
  • 常識では考えられない祝福が起こった体験がありますか?
  • 祈ったことが叶えられなかったのに、実はそのことが祝福につながったということがありますか?
  • 残念な状況、つらい状況についてイエスさまの権威と愛を信じて感謝してみましょう。心がどのように変わりましたか?

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
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