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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

自由への解放

ルカによる福音書8章4節〜15節

(2020年5月10日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

26節の「ゲラサ人の地」(マタイ8:28では「ガダラ人の地」)はガリラヤ湖の東岸にあって、異邦人が多く住むデカポリス地方に含まれました。

30節の「レギオン」はローマ軍の軍団のことで、1軍団は6千人の兵士から構成されていました。

31節の「底知れぬ所」はギリシア語で「アブソス」。悪霊の一部が閉じ込められている苦しみの場所です。世の終わりの大患難時代になると、ここに閉じ込められている非常に多くの悪霊が解放されて地上を荒らし回ります(黙示9:1-11,16)。

32節の「たくさん」の豚は約2千頭(マルコ5:13)。

イントロダクション

今日のテーマは、「自由への解放」です。日本で普通に生活している私たちのほとんどは自由です。思想・良心、信教、学問、表現、集会、結社、職業選択や移動などを自分の自由意志によって選ぶことができます。また、奴隷として束縛されることがなく、法律に則った手続きを踏まなければ逮捕されて体の自由を奪われることもありません。少なくとも憲法でそのように保障されています。

しかし、聖書は私たち人間が本質的に不自由だということを教えています。と同時に、イエスさまが私たちに本当の自由を与えてくださるということも教えています。「ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです」(ヨハネ8:36)。

イエスさまが私たちに自由を与えてくださるということを、今回描かれている悪霊つきからの解放という非常に極端なケースから考えていきましょう。

1.レギオンからの解放

悪霊つき

イエスさまと弟子たちは、ガリラヤ湖を渡って東岸に着きました。26節には「ゲラサ人の地」とあり、同じ出来事を扱っている平行記事のマタイ8:28では「ガダラ人の地」となっています。ゲラサもガダラもギリシア人が建てたデカポリス(10の都市という意味)に含まれる町です。

これらの町に近い場所に、悪霊につかれた人がいました。ルカとマルコの福音書を読むと1人のように思えますが、マタイの福音書によれば実は2人です。
悪霊とは
ここで悪霊とはどんな存在かということを説明しておきます。悪霊の正体やその起源についてはあまりはっきりと聖書の中に書かれているわけではありませんが、あちこちに書かれていることをまとめてみると、次のような存在だということが分かります。
  • 彼らは元々天使として神さまに創造され、神さまに仕えていました。
  • あるとき、天使の頭であるサタンが傲慢になり、神さまに取って代わろうとして反逆しました。この反逆に全天使のうち三分の一が従って堕落しました。これが今悪霊と呼ばれている存在です。
  • 反逆は失敗し、サタンと悪霊たちは天を追い出されました。今は空中に住んでいます。
サタンに従う悪霊たちは、神さまに直接勝つことはできません。そこで、人間を罪に誘って神さまから引き離したり、人間を苦しめたりすることによって、間接的に神さまを苦しめようとしています。

多くの場合、悪霊たちは人間を罪に誘惑することによって神さまから引き離そうとしますが、発展途上国やオカルトが行なわれているような場所では、人間に直接取りついてひどい苦しみを与えることがあります。これが悪霊つきの状態です。

残念ながらというか、幸いにもというか、私は直接そういう状態の人に会ったことはありません。旧約聖書にも、また新約聖書の「使徒の働き」にも、悪霊つきの状態についての記事はあまりありません。しかし、4つの福音書には非常にたくさんイエスさまが悪霊を追い出したという記事が出てきます。救い主イエスさまが誕生したので、敵であるサタンが世界中に散らばって活動していた悪霊どもを、イスラエルの地に集めたのではないかという人もいます。
悪霊につかれた人の状態
さて、悪霊につかれたこの人々は、次のようなひどい有様でした。
  • 服を着ず裸でした。羞恥心を失っていました。
  • ゲラサの町の出身ですが、町ではなく墓場に住んでいました。社交性を失っていたのです。
  • 鎖と足かせで拘束されても、それを引きちぎったり砕いたりする人間離れした怪力を持っていました。
  • マタイやマルコの福音書によれば、一日中叫び続け、石で自分の体を傷つけ、非常に凶暴で人が近くを通りかかると襲いかかりました。
まるで獣と同じですね。心の病気を患った人や違法薬物に手を出した人の中には、ごくまれにですがこれと似たような症状を示す人がいます。しかし、素手で鎖を引きちぎったり足かせを砕いたりするというのは、心の病気や薬物の影響では説明できません。この2人の人は悪霊に支配されたことによって、人間としての心を失って獣のような状態に陥っていたのでした。

そこにイエスさまが現れます。イエスさまはこの人たちを見ると、彼らを捉えている悪霊に向かって命じました。「汚れた霊よ、この人から出て行け」(マルコ5:8)。イエスさまは、人間らしさを失って惨めな状態に陥っているこの人たちを憐れんで、解放してやりたいと願われたのです。

悪霊の追い出し

すると、彼らはイエスさまの御前にひれ伏しました。そして叫びました。「いと高き神の子イエスよ、私とあなたに何の関係があるのですか。お願いです。私を苦しめないでください」(28節)。

この場所に舟で到着する前、イエスさまは大きな嵐に見舞われますが、「黙れ、静まれ」と命じただけで一瞬のうちにそれを静めてしまいました。イエスさまの命令には自然も逆らうことはできません。それどころか、神さまに反逆している悪霊でさえ、面と向かって命ぜられるとそれに逆らうことができず、ひれ伏してしまうのです。私たちが信じるイエスさまは宇宙の支配者です。無限の力をお持ちです。

悪霊の泣き言を聞いたイエスさまは、悪霊に名前を尋ねました。この当時、ユダヤ教の宗教家が悪霊を追い出す場合には、まず悪霊の名を尋ね、その名を呼んで「出て行け」と命じるという方法が採られていたそうです。イエスさまの場合、普段はそういうことをなさったという記録がありませんが、ここではなぜか悪霊に名を尋ねておられます。

すると悪霊は答えました。「レギオンです」(30節)。レギオンとは、もともとは古代ローマ軍の軍団のことを指していて、1つの軍団には6千人の兵士がいました。そういう呼び名を持つほどに、この人たちに取りついている悪霊の数が多いということですね。

そして、悪霊たちは懇願しました。「底知れぬ所に行けと自分たちにお命じにならないように」(31節)。底知れぬ所とはギリシア語ではアブソスといいます(英語訳ではアビス)。ここは悪霊たちの一部が閉じ込められている、悪霊たちの牢獄のような場所です。この人たちから自分たちを追い出すとしても、アブソスには送らないでくれというわけです。よっぽど苦しい場所なのでしょう。

イエスさまは、彼らの願い通り、放牧されている豚に取りつくことを許可なさいました。どうして悪霊風情の願いをお聞きになったのかは分かりませんが、とにかくそうなさいました。

すると、約2千頭の豚たちは一気に崖を降って湖になだれ込み、そこで溺れ死んでしまいました。宿主を失った悪霊たちがその後どうなったかは、書かれていないので分かりません。ただ、ある注解者は「もともとアブソスという言葉は水の非常に深い場所を指す言葉だから、湖に豚がはまったということは、結局レギオンたちはアブソス送りになったということだろう」と言います。こんなたちの悪い数千匹の悪霊どもが野放しというのも困りますから、アブソス送りになっているといいですね。

人々の反応

その後、この騒ぎを知った町の人々が大勢やってきました。そして、あの手の付けられなかった悪霊つきの人たちが正気に戻っているのを見ました。

だったら町の人たちはよほど喜んだに違いないと、普通なら思いますね。そして、イエスさまがこの地方に来てくださったことを感謝して、歓迎して、その教えに熱心に耳を傾けただろうと。ところが、彼らの反応はそうではありませんでした。彼らは自分たちの仲間を正気に戻してくれたイエスさまに向かって、なんと「この地方から出て行ってくれ」と言いました。

その理由についてこう書かれています。「非常な恐れに取りつかれていたからであった」(37節)。まるで悪霊レギオンが恐れおののいたように、ゲラサ地方の人たちもイエスさまを恐れました。彼らは墓場に住んでいた2人と違って、悪霊が直接乗り移って支配下に置いたわけではありません。しかし、聖霊さまではなく悪霊に共感する人たち、いわばダークサイド寄りの人たちだったのです。

一方、悪霊から解放された人たちは、イエスさまについていきたいと願いました。ペテロたちのような弟子にしてくれというのです。しかし、イエスさまはそれを許さず、代わりにこうおっしゃいました。「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい」(39節)。

イエスさまに仕える方法は一つだけではありません。この人たちはイエスさまがおっしゃったことを理解して、自分たちの体験をあちこちで言い広めました。悪霊を追い出されたこの人たちは、人間らしさ、人間としての自由を取り戻しただけでなく、神さまに仕える人となったのです。

さて、私たちは悪霊に取りつかれているわけではありません(もし取りつかれているなら、こうして教会のサイトを読んだりメッセージ音声を聴いたりしていません)。その私たちにとって、イエスさまによって人間としての自由を取り戻すとはどういう意味を持っているのでしょうか。

2.私たちに与えられる自由

不自由な現実を認めよう

自由が与えられるというのは、今は不自由であるという前提の言葉ですね。冒頭に申し上げたイエスさまのあの言葉、「ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです」(ヨハネ8:36)という言葉を聞いた人たちは、自分たちは奴隷ではないのにどうして自由になれるなどと言うのかと尋ねました。

イエスさまがここでおっしゃっている自由とは、人間の奴隷状態からの解放のことではなく、罪の奴隷状態からの解放のことです。

私たちは罪の奴隷状態でした。いや、自由だとおっしゃるなら、次のことを考えてみてください。
  • 本当はそんなことをしたくないのに、つい自慢をしてしまったり、人の悪口を言ってしまったりすることがないでしょうか。
  • 本当ははっきり自己主張したり、自分の気持ちを言い表したりしたいのに、相手や周りの人にどう思われるかを恐れて、口をつぐんでしまうことがないでしょうか。
  • 本当は素直になりたいのに、つい相手に意地悪をしたり反抗してしたりしてしまうことはないでしょうか。
  • 本当はルール違反だと分かっているのに、誰も見ていないからとしてはいけないことをしてしまうことがないでしょうか。
  • あれこれ心配しても仕方がないと分かっていることでも、不安でたまらなくなって落ち着かなくなって、よけいなことを言ったりしたりしてしまうことがないでしょうか。
  • もっと前向き肯定的に生きていきたいのに、つい否定的なことを考えたり、それを口に出したりしてしまうことがないでしょうか。
  • 本当は不正やいじめなどしたくないのに、仲間に嫌われたくなくて、意に沿わないことを行なってしまうことがないでしょうか。
  • 本当ははっきり断りたいのに、人に嫌われたくなくて、よけいな仕事を引き受けて疲れ切ってしまうことがないでしょうか。
  • 本当は誰も傷つけたくないのに、ついカッとなってキツい物言いをしてしまうことがないでしょうか。
この話をお読みください

もししなければならないことができなかったり、してはならないことをやめられなかったりするなら、私たちは不自由です。まずは、自分の力ではどうしようもない性質が自分の中にあるということを認めましょう。その性質のことを、聖書は罪と呼んでいます。

イエスに助けを求めよう

自分が不自由であることを認めたなら、次にすべきことは、自由を与えると約束してくださっているイエスさまに、どうか解放してくださいとお願いすることです。

ゲラサの町の人たちは、悪霊と同じようにイエスさまを恐れて、イエスさまから遠ざかる道を選びました。私たちはそうであってはなりません。

イエスさまは嵐を静め、神さまに逆らう霊である悪霊でさえも屈服させることができる力あるお方です。私たちには私たちの中の性質をどうしようもありませんが、イエスさまには可能です。

イエスさまは、別に墓場に住んでいる人たちに頼まれたから、舟に乗ってゲラサ地方に来たわけではありません。イエスさまの方からこの人たちのところに近づいてくださり、目をとめて自由にしてやろうと思ってくださいました。同じように、私たちに対しても、イエスさまはすでにご自分の方から行動をしてくださっています。それは十字架と復活です。

イエスさまは、十字架にかかり復活なさることによって、私たちの罪、しなければならないことができずしてはならないことをしてしまう性質を赦してくださいました。イエスさまが私たちの身代わりに罰を受けてくださったからです。この私の罪を赦すために、イエスさまは十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさったと信じるだけで、罪の赦しは私のものになります。あなたもそうです。

しかし、私たちはただ単に赦されて、永遠の滅びという罰を免れただけではありません。私たちは罪の性質から解放されて、少しずつ自由な生き方ができるようになります。その力をくださるのもまたイエスさまです。イエスさまは、私たちの内に住んでくださる聖霊なる神様を通して働いてくださって、私たちを内側から作り変え、神さまが望まれる正しい生き方、しなければならないことをし、してはならないことをやめる力を与えてくださいます。

それを信じましょう。そして、いつも罪の力から解放してくださるよう祈り求めましょう。その祈りは必ず聞かれます。

新しい生き方に挑戦しよう

悪霊レギオンから解放された2人の人たちは、悪霊から解放されたのにふさわしい生き方を始めました。町の人たちはイエスさまを拒否して、実質的には悪霊と共に生きる生き方を選びました。しかし、彼らはイエスさまと共に生きていきたいと願いました。直接ついていくことは許可されませんでしたが、それでも彼らはイエスさまの命じたとおりの生き方を始めました。

ただ、この時の彼らの見た目を想像してみてください。35節には服を着て座っていたと書かれています。しかし、人里離れた場所で長いこと裸で暮らしていたこの人たちが、急に服を調達することはできません。おそらく弟子たちの誰かが上着を貸してやったのだと思います。その下は素っ裸です。そして、髪の毛はボサボサ、爪やヒゲは伸び放題、肌は垢じみていて、自ら傷つけた傷でボロボロです。正気に戻ってもう叫んだり暴れたりすることはありませんが、見た目は以前とほとんど同じです。

それでも彼らは新しい生き方を始めました。

私たちも、イエスさまの十字架と復活を信じたとき、罪が赦され、聖霊なる神さまが内に住んでくださるようになりました。見た目は以前と変わりありません。それでも、罪を克服して、しなければならないことを行なう力、してはならないことをやめる力が与えられています。それを信じて新しい生き方を始めましょう。

この話をお読みください

Bさんを赦す力をAさんに与えたのはイエスさまです。

イエスさまはあなたにも自由な生き方ができる力をすでに与えてくださっています。それを信じて新しい生き方に挑戦しましょう。最初は慣れないせいで失敗することがあるかも知れません。しかし、それでも力が与えられていると信じてやり続けましょう。

まとめ

イエスさまは、私たちを罪の束縛、悪霊のまどわしから解放して自由を与えてくださいます。

あなた自身への適用ガイド

  • 悪霊の存在を意識したことがありますか? あるいは自分でない何かによって、罪を犯すよう誘惑されているということを自覚したことがありますか?
  • あなたは自分の中に不自由な性質、罪の性質があることを自覚しておられますか? 最近はどういう点でそれを自覚させられましたか?
  • あなたは、いつどのようなきっかけで、イエスさまによる罪の赦しを信じましたか?
  • あなた自身の生活の中で、以前はできなかったことができるようになった、やめられなかったことがやめられるようになったという例がありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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