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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

良いサマリア人のような方

ルカによる福音書10章25節〜37節

(2020年6月21日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

30節の「エリコ」は、エルサレムの東北東26キロほどの所にある町。

32節の「レビ人」は、祭司を助けて神殿で働く人たちです。祭司もレビ人も、族長ヤコブの三男レビの子孫(レビ族)ですが、祭司になれるのはレビ族の中でもアロンの子孫に限られます。

33節の「サマリア人」は、北のガリラヤと南のユダヤに挟まれた地域に住んでいる民族です。北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされたとき、多くの民が捕囚され、代わりに他の地域から異民族が移住させられました。その結果、残されたユダヤ人と移住してきた異民族が雑婚して生まれたのがサマリア人です。

35節の「デナリ」は、当時のローマ帝国で使われていた銀貨。イスラエルでも用いられていました。1デナリは、労働者の1日分の給料に相当。

イントロダクション

今日は、非常に有名な「良いサマリア人のたとえ話」を取り上げます。このたとえは本当の愛とはどういうものか説明していて、私たちにそのような愛し方をするよう教えていると一般には思われています。それは間違いないのですが、今日は少し違った視点でこのたとえ話を読んでみたいと思います。

それは、この話を真剣に受け取って実践しようとすると、とてもとても自分はこのサマリア人のような行動はできないなあという一種の絶望感に見舞われるということです。

今日は、そんな弱い私たちに対する慰めと励ましを受け取りましょう。

1.パリサイ人との問答

イエスを試みようとして

非常に有名なこのたとえ話が語られたきっかけは、一人の律法学者がイエスさまに質問をしたことです。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」(25節)。

もし今、あなたがこの質問をされたとしたら、どう答えますか? あなたはどのようにして救われ、永遠のいのちを手に入れたのでしょうか。答えは「福音を信じること」ですね。私たちが信じて救われる福音の内容は、「この私の罪を赦すためにイエスさまは十字架にかかり、死んで葬られたけれど、3日目に復活なさった」ということです(第1コリント15:1-8参照)。

ただ、今回の出来事が起こった時期は、まだイエスさまは十字架にかかっておらず、当然復活もしておられませんから、それを信じることはできません。福音書時代に信じて救われる福音の内容は、「聖書が預言してきた神の国が間もなく実現する。それは神の国の王である救い主が地上に現れたからだ。それはナザレのイエスだ」ということです。

ですから、「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができますか」という質問には、「わたし、イエスを救い主と信じることによって」とお答えになるのが正解でしょう。

ところが、この律法学者がこんな質問をしたのは、永遠のいのちが欲しかったからではありません。彼は、ユダヤ人として生まれた自分は、それだけですでに永遠のいのちを持っており、神の国に入ることができると信じていました。彼は「イエスを試みようとして言った」(25節)のです。

ユダヤの宗教的指導者の多くは、イエスさまを救い主だと認めていませんでした。そこで、この後イエスさまがエルサレムに入られると、救い主を語る偽物だということを証明するために、あの手この手で失言を引き出そうとします。今回の質問もその走りのようなものです。もしイエスさまが「自分を信じなさい」と言えば、モーセの律法をないがしろにしていると批判することができます。

逆質問

そこで、イエスさまは逆に質問で返しました。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか」(26節)。律法学者がこれに答えられなければ恥をかきますから、彼は渋々答えました。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります」(27節)。

これは、申命記6:5とレビ記19:18に書かれている命令です。モーセの律法は613の命令からなっていると言われていますが、それらはこの2つの命令に要約することができるというわけです。

イエスさまはその答えを正しいと評価なさいました。マタイ22:40では、イエスさまはモーセの律法だけでなく旧約聖書全体がこの2つの命令に要約されると教えておられます。

そしておっしゃいました。「それを実行しなさい」(28節)。

■たとえ話
まるで自分がモーセの律法を実行していないかのようなイエスさまの語り口に、律法学者はカチンときました。そこで、「では、私の隣人とはだれですか」(29節)と尋ねました。イエスさまが具体的にこういう人たちのことだと例を挙げたら、「その人たちには愛を示しています」と言って、自分がモーセの律法を正しく実践していることを示そうと思ったのでしょう。その証拠に、ルカは「しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った」と、この律法学者の隠れた動機を暴露しています。

そういう流れの中で語られたのが、有名な良いサマリア人のたとえです。ただ単に、神さまが喜ばれる愛とはこういうものだよと教えるだけのものではないということに注目しましょう。自分は正しいと思い上がり、その結果神さまに罪の赦しを求めることも、救い主であるイエスさまに助けを求めることもしない人に、自分の愛が不十分だということを悟らせるためのたとえ話だということです。

そういう視点で、良いサマリア人が示した愛の特徴を見てみましょう。

2.良いサマリア人の愛

相手を選ばない愛

律法学者が言った「私の隣人とはだれですか」という質問は、「私の愛を受けるのにふさわしいのは誰か」という意味です。ということは、ふさわしくない人は愛の対象ではないということです。それに対してイエスさまが良いサマリア人のたとえで語られたのは、相手がどういう人物かが問われているのではなく、この自分がその人を愛するかどうかが問われているのだということです。

このたとえの中で、ユダヤ人の旅人を助けたのはサマリア人でした。ユダヤ人とサマリア人には千年にわたる葛藤の歴史がありました。
  • サマリア人の先祖は、クーデターによって正統なダビデ王家から離反した北王国の人々でした。
  • サマリア人は、イスラエル人と他民族との雑婚によって生まれた民族で、生粋のイスラエルであることを自認するユダヤ人たちから軽蔑されていました。
  • サマリア人たちが歴史的に偶像礼拝を続けていたために、宗教的にも軽蔑の対象でした。
  • このような感情的な対立だけでなく、バビロン帰還後の神殿や城壁工事をサマリア人が妨害したり、サマリア人の神殿をユダヤ人が破壊したりするなどの事件が重なりました。
こうして、両者は「同じカップから水を飲まない」と言われるほど反目し合う仲になったのです。

ですから、もしも倒れていたのがサマリア人で、そこに今回登場した律法学者が通りかかったのだったら、まず間違いなく助けなかったことでしょう。サマリア人は彼にとって隣人ではなく敵だからです。

にもかかわらず、このたとえの中のサマリア人は、自分たちを軽蔑し、差別してきたユダヤ人、いわば敵である人物を助けました。相手が自分の愛を受けるのにふさわしいかどうかという発想ではなく、目の前に助けを必要としている人がいて、その人を自分が助けるかどうかが問われている、という発想です。

そして、サマリア人は助けることを選びました。

犠牲を払う愛

その行動は犠牲を伴うものでした。犬猿の仲であるユダヤ人を助けるというのは、自分の感情を犠牲にすることでもありますが、その他にも様々なものをこのサマリア人は犠牲にしました。

サマリア人は商売のために旅行中でした。しかし、傷ついた人のために立ち止まり、大切な時間を使いました。そして、自分が持っていたぶどう酒やオリーブ油を使い、体力を使い、お金を使いました。

行動する愛

律法学者は、聖書の要約を即座に答えることができました。たとえ話に出てきた祭司やレビ人も宗教家であり、民衆に愛することの大切さを説いてきた人々です。

しかし、傷ついた男性が必要としていたのは、愛に関する知識や哲学や教えではなく、実際に肌で体験できるものでした。すなわち、優しい言葉をかけてもらうこと、治療をしてもらうこと、キズが癒えるまで休息できるようにしてもらうことだったのです。

「兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい』と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう」(ヤコブ2:15-16)。

たとえの中のサマリア人は、傷ついた人を助けるために具体的に行動することを選びました。そして、イエスさまは律法学者に、「それを実行しなさい」(28節)、また「あなたも行って、同じようにしなさい」(37節)と語って、行動することの大切さを教えておられます。

実際に行動してみると、いかにこのサマリア人の愛が高潔なものかということが分かります。そして、自分がいかに感情に振り回され、ものやプライドに囚われ、面倒くさがり屋かということが分かります。

イエスさまはこの律法学者に、自分は罪人であり不完全なのだということを自覚して欲しいと願われました。そのためにこの良いサマリア人のたとえ話が語られたのです。また、このたとえ話を読む私たちにも同じことを願っておられます。

それは、この律法学者や私たちを落ち込ませるためではありません。自分の弱さ、自分の罪を自覚する人には、イエスさまからの大きな慰めと励ましが与えられます。

3.大きな慰めと励まし

イエス・キリストへの信頼

パウロが、モーセの律法がユダヤ人に与えられた目的の一つについてこう教えています。「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです」(ガラテヤ3:24)。

律法の基準はあまりにも高いものです。イエスさまは、「殺すな」という律法の教えを取り上げて、ただ単に殺人を犯さなければこの命令を守ったことにはならないとおっしゃいました。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」(マタイ5:21-22)。

こんな基準でさばかれるのだとすれば、どんな人間も「自分には全く罪はない」とは主張できません。ですから、律法を真剣に実践しようとすればするほど、人は自分が罪人だということと、行ないによって神さまに認められて救われるのは無理だということを痛感させられます。

その結果、神さまによる一方的な赦しを信じることによって救われなければならないことを理解させられます。そのためにモーセの律法が与えられたのだとパウロは語ったのです。

そして、イエスさまが救い主として地上に来られました。イエスさまは、このたとえに出てくる良いサマリア人のように、私たちへの愛を行動で示されました。神の敵であった私やあなたを赦すために、ご自分のいのちという犠牲を払ってくださったのです。

イエスさまは、十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさいました。それはこの私の罪が赦されるためだった。つまり、イエスさまは私の身代わりに十字架にかけられたのだ。そう信じるだけで私たちは赦され、救われ、神さまの子どもにしていただき、やがて復活して神の国に入る権利を得ました。

今の私たちには、モーセの律法を守る義務はありません。その代わりに、新約聖書が教えている様々な命令が与えられています。それを真剣に実践することによって、私たちはイエスさまによる赦しがいかに素晴らしいものか、神さまの愛がいかに大きいかということを実感できるでしょう。

神さまの愛をもっともっと味わいたいですか? ならば、聖書の教えを真剣に実践しましょう。

愛の原動力

そのようにして、神さまの愛と赦しを味わえば味わうほど、私たちの心にはイエスさまに対する愛が増し加わります。イエスさまに喜んでいただきたいという思いがわいてくるということです。

そして、私たちは良いサマリア人のような愛を実践できるよう努力を始めます。相手を選ばず、犠牲を厭わず、具体的に行動するようになります。

私たちクリスチャンの原動力は、罰が怖いという恐怖心や、祝福を失うという不安感ではありません。考えられないほどの大きな愛で愛され、守られ、導かれているという感動、喜び、感謝、平安です。

「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます」(ローマ8:15)。

再出発

もちろん、どんなにがんばっても私たちの愛は不十分です。やればやるほど不十分だと思わされます。自分がいかにこの良いサマリア人からほど遠いかということを痛感させられるでしょう。それでも私たちは赦されています。

ですから、たとえ今は不十分であっても、昨日よりも今日、今日よりも明日と、一歩一歩前に向かって進んでいきましょう。

まとめ

イエスさまは良いサマリア人のような方です。イエスさまの愛を受け取りながら、私たちも愛を実践しましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • あなたが愛しにくいと感じている人は誰ですか? どうして愛しにくいですか?
  • その人を愛するとは、具体的にどういう行動をすることですか?
  • 家族や友だちに対して、よりあなたの愛を現すために、この1週間のうちに何をすればいいでしょうか?
  • どんなときにキリストの愛を深く実感できますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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